奈良時代から平安時代初期にかけての楽人。位階は従五位下。大戸清上らと、日本雅楽の形成に重要な役割を果たす。孝謙朝において『採桑老』を舞い、天皇の勅により『蘭陵王』の桴を改めたという。 天長10年(833年)仁明天皇即位大嘗祭において舞を舞う。承和3年(836年)遣唐使に随行して唐に渡り、舞の誤謬を正し龍笛の底を極めて、承和6年(839年)8月に帰国したする伝もある。なお、同年正月に外従五位下に叙せられている。 承和12年(845年)既に113歳の高齢であったが、大極殿で行われた最勝会に際して、舞(和風の長寿楽)を製作し自ら上表して演じることを請い、1000人を超える観覧者の前で舞った。フグの模様のようなシミがある老人の姿で、起居するのも困難な様子であったが、曲が流れると少年のように舞った。四方の観客は皆「浜主は本当のまさに伶人(楽舞の人)である」と言ったという。その翌々日には仁明天皇に召されて清涼殿でも長寿楽を演じ、天皇は感心して誉め称え、左右の者は感涙し、天皇から御衣を下賜された。翌承和13年(846年)再び天皇に召されて清涼殿で舞を舞い、天皇にその高齢を憐れまれて、内位の従五位下に叙せられている。 なお、愛国百人一首に「翁とて侘やは居らむ草も木も栄ゆる時に出でて舞ひてむ」の一首が採られているが、これは先述の承和12年(845年)の清涼殿での舞の後に詠んだものである。
|