<神皇系氏族>天孫系

A103:建斗米命  建斗米命 ― 尾張弟彦 OW01:尾張弟彦

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尾張弟彦 尾張草香
 日本武尊がを熊襲を撃つ際に弓を射つのがうまい者を一緒に連れていきたいと言ったときに、弟彦公の名が挙がり、葛城宮戸彦を派遣して、弟彦公を呼び寄せた。弟彦公は石占横立と尾張の田子稻置,乳近稻置をともに連れて、日本武尊に従ったとされる。  継体天皇の最初の妃であったとされる目子媛の父親で、安閑・宣化両天皇の外祖父にあたる。断夫山古墳が彼の墓であるとの説がある。
尾張目子媛 尾張大隅
 系図纂要によれば、常兄の子橿鈴彦の娘。古事記によれば、尾張連等の祖先の凡連の妹とあり、日本書紀等によれば、尾張連草香の娘とある。

 大隅の功績は、『続日本紀』天平宝字元年(757年)12月9日条にある。それによれば、大海人皇子が吉野宮を脱して関東(鈴鹿関の東)に行ったとき、尾治大隅は私邸を掃除して行宮に提供し、軍資を出して助けたという。書紀にある大海人皇子の行動記録と照らし合わせてこの行宮の場所は美濃国の野上とするのが有力だが、これを伊勢国で鸕野讚良皇女(のちの持統天皇)が住んだところとする説もある。
 天武天皇13年(684年)12月2日に、尾張連など連姓の50氏が宿禰の姓を与えられた。持統天皇10年(696年)5月8日に、天皇は尾張宿禰大隅に直広肆の位と水田40町を与えた。
 霊亀2年(716年)に子の尾張稲置が大隅の功によって田を授かったことを記す『続日本紀』の記事中で、大隅は贈従五位上と記される。このとき大隅が故人であったことがわかり、従五位上は大宝元年(701年)以降に用いられたから、没年は701年から716年の間と推測できる。
 後、天平宝字元年(757年)12月9日に、太政官は尾治大隅の功田40町の内容を論じ、それが上功にあたり、三世に功田を伝えると定めた。