<神皇系氏族>天孫系

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尾張小倉 尾張兼時

 奈良時代中期の采女・女官で官位は従四位下・命婦・尾張国造。
 聖武朝の天平9年(737年)2月に、従七位下 から外従五位下に昇叙。その後、小槻山広虫らとともに外従五位上から外正五位下になるなど順調に出世し、天平19年(747年)3月、従五位下の時、内命婦で従四位下および尾張国造になり、女性として初の国造に任命される。これは女官として中央にいながらにして、恩寵により男子を凌駕して本国国造に任じられたものであり、国造の地位が栄誉的なものに変貌していることを指し示している、という意見がある。
 孝謙朝の天平勝宝元年(749年)8月、現役のまま卒去。

 寛和元年(985年)2月に後堀河院で催された御遊(管弦の催し)に参加し騎乗した。永延2年(988年)11月に左近将曹で藤原兼家から衣を賜った。永祚元年(989年)4月にくらべうまに参加し、正暦4年(993年)4月の賀茂祭では藤原朝光,藤原伊周,藤原道長らから衣を、長徳4年(998年)12月には左近将監で道長から馬を賜った。
 兼時は藤原教通や藤原能信らを弟子とするほど舞に秀で、寛弘元年(1004年)5月に花山天皇が道長邸を訪れた際は舞を披露している。しかし寛弘7年(1010年)頃になると老いによる体力の衰えから、かつてのように舞えなくなったという。
 兼時は『小右記』『今昔物語集』『紫式部日記』などに度々登場する御神楽の舞の達人である一方、多(または物部)武文と並んで、村上朝から一条朝まで活躍する、くらべうまの強豪騎手でもあった。
 『今昔物語集』の巻28第1話『近衛舎人共稲荷詣重方値女語』において、兼時は下野公助,茨田重方,秦武員,茨田為国,軽部公友らと近衛府の舎人として名前だけで登場する。初午の稲荷詣での際に茨田重方がナンパしようとした女性は実は重方の妻で、重方は赤恥をかいたという逸話である。
 また、『今昔物語集』の巻28第5話『越前守為盛付六衛府官人語』では、越前国司の藤原為盛が租税を朝廷へ送らなかったことから、これを責めるために兼時が派遣されるが、為盛は酒の中に下剤として作用するあさがおの種を仕込み、兼時ら取り立て人を追い払ったという逸話である。