中国(後漢王朝)渡来系

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秋月種長 秋月種春

 天正14年(1586年)の豊臣秀吉の九州征伐では父と共に豊臣軍と戦ったが、敗れて父と共に降伏した。このとき、父が秀吉に対して剃髪して謝意を示し、さらに隠居したため、家督を継いで当主となる。しかし間もなく、秀吉の命令で日向高鍋3万石に減移封された。
 その後、豊臣政権下では文禄・慶長の役に出陣し、慶長3年(1598年)の蔚山城の戦いで功績を挙げた。
 関ヶ原の戦いでは、西軍に属して大垣城を守備していたが、関ヶ原の本戦で西軍が壊滅した直後の9月17日、水野勝成の勧めで東軍に内応し、同じく籠城していた弟の高橋元種と相良頼房を誘って熊谷直盛,垣見一直,木村由信・豊統父子らを城中で殺害して降伏、23日には守将の福原長堯は大垣城を開城して東軍に明け渡した。これによって徳川家康から所領を安堵され、高鍋藩の初代藩主となった。
 種長には男子がいなかったため、長野鑑良の息子で種長の甥にあたる種貞を婿養子として迎えた。だが、種貞が病弱であったため廃嫡し、種貞と娘・オチョウの間に誕生した外孫の種春を後継者とした。このため、これを不満に思う家臣との間に確執が生じたという。 

 当初、種長の跡は種長の娘婿である種貞が継ぐこととなっていた。しかし、種貞は病弱であったために廃嫡され、その息子で種長の外孫である種春が代わって養子となり、慶長19年(1614年)に種長の死去により跡を継いだ。
 幼少で跡を継いだため、15歳になるまで高鍋への下向が叶わず、その間に藩政を牛耳った白井種盛・種重の家老親子の専横、およびそれが発端となって発生した「上方下方騒動」という40年近くにも及ぶ騒動に悩まされ続けた。
 万治2年(1659年)、50歳で死去し、跡を長男の種信が継いだ。


秋月種信 秋月種弘

 第2代藩主・秋月種春の長男。官位は従五位下・佐渡守。
 寛永8年(1631年)12月14日生まれ。万治2年(1659年)、父の死去により跡を継ぐ。父の時代から起こっていた家督相続問題に決着をつけるため、反抗的な家臣の多くを粛清して綱紀を強めた。その上で新たな人材登用においては、身分や国にとらわれない有能な人材登用を行っている。他にも高鍋城の整備を行ない、延宝元年(1673年)には財部を高鍋と改名した。
 天和3年(1683年)、5男で信州長沼藩主となっていた佐久間勝茲が改易されたとき、その縁戚に当たることから種信にも2ヶ月間の閉門処分が下された。元禄2年(1689年)2月晦日、次男・種政に家督を譲って隠居し、元禄12年(1699年)7月27日に69歳で死去した。

 宝永7年(1710年)8月2日、父の隠居により跡を継ぐ。病弱だったが、有能で文武を奨励して享保7年(1722年)には稽古堂を創設する。さらに藩士子弟の有能な人物の多くを遊学させて学識を深めさせ、広く有能な人材の登用を求めた。
 藩政においては治水工事や山林制度の整備などを行うなどして藩財政の充実化を目指したが、元文元年(1736年)・寛保元年(1741年)・寛保2年(1742年)・延享4年(1747年)に領内で火事が相次ぎ、さらに享保の飢饉による凶作が相次いで藩財政は窮乏化した。しかし、種弘は藩財政が苦しい中でも領民の救済に努めたと言われている。
 享保19年(1734年)12月7日に長男の種美に家督を譲って隠居したが、宝暦3年(1753年)7月21日に死去するまでは藩政の実権を握っていた。 

秋月種蔭 秋月種賀

 高鍋藩主・秋月家分家の旗本寄合席木脇領主秋月家4代目当主。石高は日向国諸県郡、宮崎郡内3,000石。
 秋月種輔の次男として誕生。長兄の千之助が早世したため、享保15年(1730年)に父の死を受けて旗本寄合席秋月家の家督を相続した。なお、寛政重修諸家譜では将軍への初御目見年について記載されていない。
 享保17年(1732年)刊行の『須原屋茂兵衛蔵板武鑑』において御寄合衆に「三千石 本所三ツメ 秋月主殿」との記載が見える。また元文4年10月5日(1739年11月5日)から本所深川火事場見廻役(本所深川出火之節見廻役)を勤めた。
 寛延4年正月(1751年)に使番となり、同年7月に松平容頌が幼少で藩主となっていた会津藩に国目付として派遣される。翌宝暦2年(1752年)に死去。享年39。長男の種武が家督を継いだ。


 高鍋藩主秋月家分家の旗本寄合席木脇領主秋月家8代当主。石高は日向国諸県郡、宮崎郡内3,000石。幕職として本所深川火事場見廻役や新番頭,小普請組支配などを勤める。
 秋月種懐の子として誕生。父・種懐は分家して高鍋藩連枝の1つ新小路秋月家の初代となり、安永8年(1779年)に高鍋藩の家老上席を勤めている。寛政5年7月11日(1793年8月17日)に従兄で旗本寄合席の種備が死去したために、公称17歳で婿養子としてその家督を継ぎ、寛政9年12月22日(1798年)に徳川家斉へ初めて御目見を済ませる。享和元年(1801年)刊行の『須原屋茂兵衛蔵版武鑑』の御寄合衆に「三千石 秋月大学」とある。
 文化6年6月18日(1809年)に本所深川火事場見廻役となる。文化8年(1811年)には寄合肝煎へ転じる。文化14年(1817年)に新番頭に就任し、文政2年11月24日(1820年)に小普請組支配となり、翌文政3年12月21日(1821年)に小普請組支配を辞職した。

秋月種事

 日向国高鍋藩主秋月家分家の旗本寄合席木脇領主秋月家11代で、江戸幕府旗本としては最後の当主。諱は種琴とも記す。幕末の石高は日向国諸県郡、宮崎郡内3,000石。
 幕末は秋月幾三郎として知られ、高鍋藩の家老上席や幕府陸軍組合銃隊改役を勤める。また、明治以降は秋月種事の名で知られ、西南戦争では党薩諸隊の一つ高鍋隊の軍事顧問格として、西郷隆盛率いる私学校西郷軍に旧幕臣ながら参加し、城山にて戦死した。
 天保15年3月28日(1844年5月14日)に江戸麻布高鍋藩邸において、既に隠居していた秋月種任の5男かつ庶子として出生し、同年6月(1844年)に江戸から高鍋へ下向して高鍋藩家老の隈江信吉の鞠育を受ける。幼少期に西島蘭渓に学び、のちに藩校明倫堂において横尾敬(鐸峯)の教えを受ける。また、石井寿吉や柳河藩で大石神影流を学んだ柿原宗敬より剣術を学ぶ。
 安政5年(1858年)に次兄・種樹の長男で甥の秋月種繁が出生し、文久元年10月1日(1861年11月3日)に三十糧と高鍋城下新小路の邸宅を与えられて、高鍋藩家老上席となる。
 分家で木脇領主でもある旗本寄合席・秋月家当主の秋月種記が危篤・死去したために、文久3年6月15日(1863年)に旗本秋月家の家督を相続することとなり、同年12月12日(1864年1月21日)に幕府より相続が認可される。
 慶応2年8月26日(1866年)、幕府陸軍の組合銃隊改役に就任し、同年12月18日(1867年)に布衣を許可される。しかし、慶応3年(1867年)には組合銃隊が廃止されたことで御役御免となり、以降大政奉還と王政復古の大号令の末に幕府が滅亡するまで幕職につくことはなかった。
 明治維新以降は、明治新政府に恭順して下大夫に編入されたものの、種事は閑散仕えず、新政府の下で明治天皇の侍読や公議所議長、元老院議官などを勤めた次兄の種樹とは対照的な状況が続いた。明治2年(1869年)の版籍奉還により、秋月種封が分家して以来の旗本秋月家の地方知行と高鍋藩家老上席の地位が失われる。明治8年(1875年)に種事は江戸より改名した東京から高鍋へ下向する。
 明治10年(1877年)2月に鹿児島において、西郷隆盛や桐野利秋ら私学校党が蜂起して西郷軍を結成して熊本県へ進軍し、西南戦争が勃発する。旧高鍋藩では士族による演説会において西郷軍につくかで意見が割れ、次兄の種樹や三好退蔵らが西郷軍に組しないように働きかけたものの、旧佐土原藩において島津啓次郎らによる佐土原隊、旧飫肥藩で小倉処平の兄長倉訒、伊東直記らによる飫肥隊、旧延岡藩では藁谷英孝や大島景保らによる延岡隊、旧高鍋藩飛び地である旧櫛間領では二卿事件で失脚した坂田諸潔による福島隊が結成され、旧高鍋藩が孤立することが危惧された。このため、石井習吉や柿原宗敬,武藤東四郎,黒水長慥らにより党薩諸隊の一つ高鍋隊が結成されて同年3月9日に熊本県へ出発、木脇村の種事は軍事顧問格として高鍋隊に同行する。種事は軍事顧問格として西郷軍本営付きとなる。
 田原坂の戦いで敗北して以降、西郷軍の旗色は悪く、同年8月2日には高鍋が政府軍に陥落し、同年8月8日には武藤東四郎が政府軍へ投降する。明治10年(1877年)8月15日の和田峠の決戦で西郷軍は敗退した。翌日8月16日に西郷隆盛より解軍の令が出される。これにより高鍋隊も多くが政府軍に投降する中、種事は解軍の令以降も西郷軍に従うことにし、坂田諸潔や団井忠人,財津吉一,坂田諸美とともに可愛岳の政府軍包囲網を突破して鹿児島へ入り、9月から西郷軍とともに天明年間まで鹿児島城の本丸と二之丸でもあった城山へ籠城する。
 城山籠城戦では、種事は園田武一を隊長とする後廻の部隊に属する。9月24日に城山が陥落し、西郷隆盛や桐野利秋,島津啓次郎らが戦死し、野村忍介や坂田諸潔,団井忠人,財津吉一らが政府軍に投降する中、種事は高鍋隊で世話掛を勤めていた坂田諸美と同様に戦死する。『宮崎県木脇村史』では政府軍の投降の呼びかけに対して、「多くの郷党の者を死なして、自分ばかり生還するには忍びない」と言って自害したとしている。享年34。