平戸松浦家は、松浦家の分家の一つにすぎなかったが、興信の曽祖父である松浦義(平戸義)の時代に将軍足利義教の信任を受けて以来、本家をしのぐ勢力を誇るようになっていった。興信の祖父である松浦豊久には6人の子があり、平戸松浦家の家督を次子の弘定に継がせ、長子の昌は田平峯家(田平氏)へ養子に出した。昌は後に田平氏を追われ、平戸松浦家の家督を巡り弟の弘定と対立したものの、近隣の志佐氏と敵対すると弘定と和解し、大内義興の援助を受け志佐氏を滅ぼし、自身が志佐の領主となり志佐純本(純元)を名乗った。弘定は和解の証として昌の実子である興信を後継としている。 松浦氏の嫡流筋である相神浦松浦家との関係は険悪であり、弘定はたびたびこれと争い、1498年において当主の松浦政を攻め滅ぼしたが、これに興信も参加していたという。 興信は1515年、先代の弘定が没し当主となる。当時の北九州の実力者である大内義興,大内義隆に臣従して李氏朝鮮や明と交易し、莫大な利益を上げたものの、少弐氏や有馬氏、後には龍造寺氏と結んだ相神浦松浦家の松浦親(政の子)の勢力は衰えることはなく、当時の平戸松浦家の基盤は強固とはいえなかった。興信の没後には家督争いが再燃している。 また、同じく宇久氏(後の五島氏)とは縁戚関係であり、先代弘定の代におきた玉之浦納の反乱により避難してきた宇久盛定を援助し、1521年の盛定の旧領復帰に貢献している。
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1541年に父の興信が死去したものの、しばらくは家中の混乱もあり家督を継承できず、1543年になってようやく家督を継いだ。 1550年には南蛮貿易を開始して鉄砲や大砲を購入。平戸城下に明の商人を住まわせるなどして、貿易による巨万の富を築き上げた。その財力を背景にして勢力を伸ばし、北松浦半島を制圧している。 有馬氏や龍造寺氏などの近隣の強豪の脅威に備えながら、志佐氏や波多氏などを攻撃しつつ一族をまとめ、永禄年間には、長年対立してきた相神浦松浦家の松浦親をついに屈服させた。相神浦松浦家には有馬晴純の子の松浦盛が養子になっていたが、新たに平戸松浦家より隆信の子の親(養父と同名)が入り、親(養父の方)を隠居させて盛を他家(有田氏)に追いやることにより相神浦松浦家の平戸松浦家への従属は決定的となる。一方で武雄後藤氏の後藤貴明へ養子に送った惟明は龍造寺隆信の子の後藤家信により後藤家を追われている。 1568年、嫡男の鎮信に家督を譲って隠居したが、実権はなおも握り続けた。龍造寺隆信の勢いは肥前のみならず北九州を席捲するほどであったが、1584年に隆信が薩摩島津氏の支援を受けた有馬氏に敗れ戦死したため(沖田畷の戦い)松浦家も独立を保つことができた。1587年には豊臣秀吉の九州平定に参陣して所領安堵を許されている。松浦氏の戦国大名への躍進と、近世への存続の安泰を確実なものとした名君であった。
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官位官職は従四位下、肥前守。法号は当初宗信、後に無外庵宗静と称した。出家後は法印に昇り、式部卿に任ぜられたため式部卿法印、平戸法印と呼ばれた。 永禄11年(1568年)、父から家督を譲られた。この頃、肥前国では龍造寺隆信の勢力が台頭し、鎮信もその膝下に組み込まれることを余儀なくされたが、天正12年(1584年)に龍造寺隆信が戦死すると、再び独立した。天正15年(1587年)、父と共に豊臣秀吉の九州平定に参陣して所領を安堵されている。天正17年(1589年)に出家したが、松浦家の実権を握り続けた。文禄元年(1592年)から秀吉が死ぬ慶長3年(1598年)までの6年間、朝鮮出兵に出陣した。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、鎮信の長男・久信は西軍に与して山城国伏見城攻めや伊勢国安濃津城攻めに参加したが、本国に在国していた鎮信が肥前の神集島で開かれた去就会議に参加して東軍に与することを決定した。また、慶長4年(1599年)、日ノ岳城(後の平戸城)建設に着手するが、徳川家康の信任を得るために建設途中で焼却した。これにより、戦後、所領を安堵され、平戸藩初代藩主となった。なお、平戸城が再建されたのは約100年後の宝永4年(1707年)、第5代藩主松浦棟の時代になってからである。 その後はオランダ,イギリスの商館を建設して平戸貿易に尽力する。また、領内におけるキリシタンの排除も行なった。
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幼名は千代鶴、のちに源三郎、諱は重信と称したが、隠居してからは鎮信と改めた。官位は従五位下、肥前守。号は天祥庵、徳祐、円恵。 元和8年(1622年)3月13日に江戸藩邸で生まれる。寛永14年(1637年)5月に父隆信の他界に伴い藩主を継ぐ。この年の島原の乱では主に長崎の警護にあたっている。ところが島原の乱の終結後に幕府巡視があり、オランダとの独占的な交易によって得た強力な兵備が知られて、寛永18年(1641年)平戸商館の閉鎖が命じられることになる。このために平戸藩は巨利を失い財政が苦しくなったが、以後新田開発を始めとして諸産業を振興し、九州第一の善治良政と讃えられるまでになった。 山鹿素行との交友が深く、その助言をよく聞いていた。行政手腕もさることながら、国典漢籍蘭学に通じ、禅や神道を学び、書を嗜む文化人としても知られる。特に茶道は若い頃から愛好し、様々な流派の茶人と交流して研究を重ねた上、片桐石州に師事し石州流の皆伝を受け、今日鎮信流として知られる茶道の一派を立てるに至った。 元禄2年(1689年)隠居し、後を長男・棟が継いだ。元禄16年(1703年)10月6日、向島の別邸にて死去。墓所は本所天祥寺。
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正保3年(1646年)9月24日、江戸浅草にて生まれる。元禄2年(1689年)、父の隠居により家督を継いだ。同年、江戸城奥詰、元禄4年(1691年)には寺社奉行を兼務する。さらに長崎の検察官なども務めた。藩政においては初代藩主・松浦鎮信(法印)時代に火事で焼失した居城・亀岡城を築城した他、荒廃で苦しむ農民の救済に尽力した。また、優れた文化人であり、「履担斎遺文」160巻という自らの日記を残し、現代における貴重な史料となった。 しかし家庭的に不幸な人物であった。自らは腰痛に長年苦しめられ、妻には先立たれ、挙句の果てには後継者として目し、将軍・徳川綱吉の寵愛を受けていた長男・長が早世してしまうという不幸が相次いだ。このため元禄9年(1696年)、弟の松浦篤信を養嗣子として迎え、正徳3年(1713年)2月11日に腰痛を理由に家督を譲って隠居したが、同年9月22日に病に倒れて死去した。墓所は自らが藩主在任中に建立した平戸の雄香寺。
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江戸時代後期を代表する随筆『甲子夜話』の著者。大名ながら心形刀流剣術の達人であったことでも知られる。 清の父・政信は本来ならば誠信の後を継ぐはずであったが、明和8年(1771年)8月に早世してしまった。このため、同年10月27日清は祖父・誠信の養嗣子となった。安永3年(1774年)4月18日将軍徳川家治に御目見する。同年12月18日従五位下壱岐守に叙任する。安永4年(1775年)2月16日祖父の隠居により家督を相続した。誠信までの松浦氏の当主のほとんどは二字名であったが、有職故実を重んじる清は、代々一字名を特徴としていた祖先・嵯峨源氏にあやかって再び一字に戻したのだという。ちなみに清以降、現在の松浦氏の当主まで、その名は一字で通されている。同年3月15日藩主として初めて帰国する許可を得る。 清が藩主となった頃、平戸藩は財政窮乏のために藩政改革の必要性を迫られていた。このため清は、『財政法鑑』や『国用法典』を著わして、財政再建と藩政改革の方針と心構えを定めた。そして経費節減や行政組織の簡素化や効率化、農具,牛馬の貸与制度、身分にとらわれない有能な人材の登用などに務めている。また、藩校・維新館を建設して人材の育成に務め、藩政改革の多くに成功を収めた。しかし、藩校を維新館と定めたことから、幕府より「維新とはどういうことだ」と言いがかりをつけられたという。しかし、清の正室の兄は幕府の老中経験者であったから、清に幕府転覆の意思があったとは考えにくい。どうもこの維新館は、『詩経』から取った言葉であると言われている。 文化3年(1806年)、三男・熈に家督を譲って隠居し、以後は執筆活動に従事する。また、松平定信とも交友関係があったらしい。蘭学にも関心があったようで、静山が入手した地球儀が現在も松浦史料博物館に保管されている。天保12年(1841年)、82歳で死去した。清の名前より、松浦静山としてのほうが通っているとも言われている。 清は17男16女に恵まれた。そのうちの11女・愛子は公家の中山忠能と結婚して慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入って孝明天皇と結婚し、明治天皇を産んでいる。つまり、明治天皇の曾祖父にあたることになり、現在の天皇家には、この清の血も少なからず受け継がれているのである。
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江戸時代末期から明治時代の人物。明治天皇の外祖母。肥前国平戸藩主松浦清の11女として平戸に生まれる。母は側室の森氏。初名は千代姫、後に愛姫と改める。姉の夫である園基茂の養女として中山忠能に嫁し、1男1女(忠光,慶子)を産んだ。 慶子が孝明天皇に仕え、やがて皇子祐宮(後の明治天皇)を産むと4歳時までその養育を任された。後、明治天皇の皇子明宮嘉仁親王(大正天皇)の養育にもあたっており、2代の天皇の養育に関わったことになる。 1968年(昭和43年)、明治百年記念事業の一環として生地平戸市の亀岡神社に石像が建立された。また、同時に木像も造られ、こちらは平戸城に寄贈されている。
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嘉永2年(1849年)11月、伯父で先代藩主の松浦曜の養子となる。安政2年(1855)12月に叙任。安政5年9月、家督を相続する。明治2年(1869年)4月、版籍奉還にともなって藩知事に就任する。同年4月、従四位下に昇進する。その後、宮内省御用掛となる。明治17年7月、伯爵となる。明治23年7月、貴族院議員となる。後に正二位勲二等に叙される。 1880年(明治13年)、現在の長崎県立猶興館高等学校の基礎となる猶興書院を設立。 肥前国平戸藩の第4代藩主・松浦鎮信(天祥)が興した武家茶道の流派である鎮信流を継承する、石州流鎮信派の家元でもある。婦女子教育の一貫としての茶道を女子学習院、日本女子大学その他の学校で指導した。 長崎県平戸市にある松浦史料博物館は詮の旧邸を改装したものである。
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松浦市左衛門信正の三男として生まれ、従兄松浦信守の危篤に伴いその養子となった。宝永元年(1704年)1月30日信守が死去すると、4月3日跡を継いで寄合となり、享保3年(1718年)3月16日書院番、享保4年(1719年)8月18日進物役を歴任した。 足高の制の下、徳川吉宗の信任を受け、享保18年(1733年)8月7日西城徒頭、享保19年(1734年)12月15日目付を経て、元文2年(1737年)3月10日駿府町奉行と昇進を続けた。元文5年(1740年)4月3日大久保主水の推挙により大坂東町奉行となり、5月1日従五位下河内守に叙任された。 延享3年(1746年)4月28日勘定奉行となり、寛延元年(1748年)6月20日長崎奉行を兼任した。当初唐人貿易に必要な漢文の能力がないとして断ったが、吉宗から「字を知らずば仮名にて書けよ」との上意を受け、やむなく受け入れたという。 宝暦2年(1752年)2月25日長崎奉行を辞して勘定奉行加役として長崎掛の役職を与えられ、長崎奉行との二重体制を敷いたが、用行組は信正の権力を背景に長崎奉行・町年寄を無視して専横的に振る舞うようになり、対立が顕在化した。 宝暦3年(1753年)用行組の早川・森による両替商松田金兵衛の上納銀延滞に係る収賄事件が発覚すると、信正もこれを看過し虚偽の報告をした罪で2月23日小普請に降格し、8月4日まで閉門に処された。これを契機として用行組による不正が次々と暴かれ、関係者が大勢処罰された。 宝暦6年(1756年)青戸村竜蔵寺を知行地下小合村に移し、瑞正寺第9世然蓮社湛誉上人を開山として中興し、信正院と号した。宝暦10年(1760年)9月26日致仕して可謙と号し、下小合村に隠居した。明和6年(1769年)5月11日死去し、竜蔵寺に葬られた。
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