H505:佐久間盛重 | 平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 三浦義明 ― 佐久間家村 ― 佐久間盛重 ― 佐久間勝之 | H506:佐久間勝之 | ● |
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佐久間勝之 | 佐久間勝年 |
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天正10年(1582年)、信濃国高遠城攻めに初陣し功名をあげた。はじめ叔父・柴田勝家の養子となったが、後に佐々成政の娘を娶り婿養子となった。天正12年(1584年)の末森城の戦いなどに活躍するが、天正13年(1585年)成政が羽柴秀吉に降伏すると、妻を離縁し、兄・安政(のちの信濃飯山藩主)と共に関東の後北条氏に仕えた。しかし5年後、豊臣氏によって北条氏が滅ぼされたため、しばらく潜伏していたが、後に遠縁にあたる奥山盛昭を通じて秀吉に召し出され、佐久間姓に復した。 |
父・勝之が後北条氏に仕えた時代に、嫡男として相模国小田原で生まれた。徳川秀忠に従い、両大坂の陣に出陣。しかし父より先に没したため、家督は弟の佐久間勝友が相続した。墓所は近江国高島郡中之庄村の幡岳寺。 |
佐久間勝友 | 佐久間勝豊 |
兄の勝年が家督相続前に死去したため嫡子となる。寛永12年(1635年)、父・勝之の死去により20歳で長沼藩1万8000石の家督を相続した。このとき兄の遺児・勝盛に5000石を分知した。
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寛永19年(1642年)閏9月1日、父の死去により8歳で長沼藩主の家督を相続した。このとき弟の勝興に3000石を分知したため、以後長沼藩は1万石となった。勝豊の藩主継承にあたり、所領のうちで祖父・勝之以来着々と開発を進めてきた飯縄山東麓の新田村々が幕府直轄領に組み替えられた。これは山野・水源の資源をめぐる平坦部の里方村々との軋轢を生じ、寛文7年(1667年)から4年間にわたる大規模な山論が争われることになった。延宝6~8年(1678~80年)には領内検地を実施。表高1万石に加えて新たに3,070石の増高を打ち出したという。 |
佐久間勝親 | 佐久間勝興 |
秋月種信の5男で長沼藩主・佐久間勝豊の婿養子となる。貞享2年(1685年)、勝豊の死去により17歳で長沼藩1万石の家督を相続した。元禄元年(1688年)、20歳のとき5代将軍・徳川綱吉より側小姓を命ぜられるも、病と称して辞退した。これが仮病であったことが幕府に知られたため、不敬であるとして改易され、身柄は二本松藩主・丹羽長次の預かりとなった。元禄4年(1691年)、23歳で死去した。滋賀県高島市の幡岳寺と福島県二本松市の龍泉寺に位牌が現存している。 |
寛永19年(1642年)閏9月1日、兄・勝豊が家督を相続した際に3000石の分知を受け小普請となる。同年閏10月1日、将軍・徳川家光に拝謁。所領は本家長沼藩と同じく信濃国水内郡と近江国高島郡に分散し、長沼城の北に隣接する水内郡赤沼村に陣屋を置き領政を行なったため赤沼知行所の初代領主と称される。江戸屋敷の位置は不明である。分家するとき長沼藩から鹿島佐五右衛門,中村八太夫の両家老をはじめとする家臣団が付属され、幼い勝興を補佐して「正路の仕置」(道理にかなった政治)を行ったので領民の信頼を得たという。正保3年(1646年)には長沼知行所(5000石)佐久間勝盛の死去に伴い、長沼藩,長沼知行所,赤沼知行所,幕府直轄領の四者間で所領の組替えが実施された。 |
佐久間勝種 | |
慶安3年(1650年)閏10月9日、徳川家光が浅草へ鷹狩りに赴く途上で駕籠訴を行い、出仕を願った。これが許され、同月14日、御書院番に列せられ蔵米300俵を賜る。 |