<桓武平氏>高望王系

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佐久間盛次 佐久間盛政
 はじめ織田信行の配下であったが、のちに信行の兄・信長に仕える。犬山城主であったとの記録がある。弘治3年(1557年)の名塚城攻めに信盛と共に信長方として参加した。その後も永禄11年(1568年)に観音寺城の戦い、勝竜寺城攻めなどに参加した記録があるが、その後の記録には登場せず消息は不明。 

 天文23年(1554年)、 尾張国御器所に生まれた。身長六尺(約182cm)とあり、数値の真偽は別としてかなりの巨漢であったことが窺える。永禄11年(1568年)の観音寺城の戦いで初陣し、その後も数々の戦いで戦功を挙げた。織田信長から感状も賜り「鬼玄蕃」という異名がつけられた。
 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変後、柴田勝家は羽柴秀吉との対立を深め、天正11年(1583年)ついに両者は近江国余呉湖畔で対陣する。盛政は中川清秀の砦を急襲する作戦を勝家に提案し、見事に清秀を大岩山で討ち取り、賤ヶ岳の戦いの緒戦を勝利に導いた。しかし桑山重晴の知略により結果的に勝家軍は秀吉軍に大敗し、盛政は再起を図って加賀国に落ち延びようとした。落ち延びる途上、盛政は越前府中付近の中村の山中で郷民に捕らえられた。命運の尽きたことを悟った盛政は、自ら直接秀吉に対面したいので引き渡すよう言った(盛政を引き渡した郷民は直ちに処刑された)。
 秀吉は盛政の武勇を買って九州平定後に肥後一国を与えるので家臣になれと強く誘ったが、盛政は敗軍の将として処刑されることを望んだ。秀吉は死に衣装など盛政の希望を受け入れた。その後、宇治・槙島に連行されて同地で斬首された。享年30。秀吉は盛政の武辺を最後まで惜しみ、せめて武士らしく切腹させようと連行中に密かに短刀を渡す手配もしたが、盛政は拒否して従容と死に臨んだという。
 辞世は「世の中を廻りも果てぬ小車は火宅の門を出づるなりけり」

佐久間虎姫 佐久間安政

 織田家家臣、佐久間盛政の娘で、父の死後、母方の叔母の夫(すなわち叔父)にあたる新庄直頼の養女となった後、豊臣秀吉のはからいにより中川清秀の2男・秀成(豊後国岡藩初代藩主)の正室となり、嫡子・久盛(2代藩主)をはじめ7人の子の母となった。
 中川清秀は賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政の急襲を受けて討ち死にした武将であり、虎姫は父を仇とする家に嫁いだことになる。この経緯から中川氏家中、特に姑(清秀の妻)から嫌われたため、結婚後、夫の領地に下向することは一度もなく、終生畿内暮らしであった。
 慶長15年(1610年)に死去。生涯にわたって父・盛政の菩提を弔う菩提寺を建立することと、父・盛政の家を復興することを悲願としたが、いずれも生前にその成就を見ることはなかった。
 虎姫の死後、夫・秀成は5男の勝成に盛政の家を復興させ、佐久間家を継がせた。この佐久間家は岡藩の客分扱いとなり、その子孫は現在に至るまで大分県にて続いている。寛永21年(1644年)には嫡子・久盛が、盛政の菩提寺として英雄寺を現在の竹田市に建立した。
 また、その他に、盛政の名跡を継いだ家が尾張徳川家の家臣として存在した。虎姫の娘の子、重行が初代で、重行,重直,重勝,重賢,重豊,雅重と続いたという。2代目の重直は上州安中・坂元両所奉行を勤めた。その背景には京都所司代・板倉重宗と信濃長沼藩主・佐久間勝之(盛政の弟)の力添えがあったようである。雅重の代には、佐久間姓より本姓である三浦に戻しているが、その代で絶えたと言われている。 

 はじめ紀伊・河内守護の畠山昭高家臣の保田知宗の婿養子となり保田久六を名乗る。後に久右衛門と改める。
 兄や弟と共に織田信長に仕え、最初は佐久間信盛の軍に属し石山本願寺攻めに参加、後に柴田勝家の軍に属した。賤ヶ岳の戦いでは敢闘したものの合戦全体では柴田軍は敗北した。勝家の敗北,自決後は紀州の雑賀衆,根来衆を頼って同国に落ち延びた。小牧長久手の戦いでは雑賀,根来衆と共に徳川家康・織田信雄方に属し、岸和田城を守る中村一氏としばしば交戦したが、豊臣秀吉と信雄・家康の間で和睦が成立して家康が撤退したのち、家康の口利きにより関東の小田原北条氏に弟の勝之ともども身を寄せた。このとき妻を離縁したという。その後、正親町天皇の武家伝奏であった勧修寺晴豊の娘を妻とした。
 豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏が制圧された後、しばらく野に潜伏していたが、同族である奥山盛昭を通じて豊臣秀吉に赦され、保田氏から佐久間氏に復して蒲生氏郷に仕えた。出羽国小国を領し、葛西大崎一揆の鎮圧に功績を挙げた。氏郷の没後、秀吉の直臣となり、信濃国槇島城を賜った。
 慶長3年(1598年)秀吉の没後、五奉行が徳川家康に伺いを立て、その結果近江国小河に7,000石を与えられた。
 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで東軍に属し、その戦功により近江国高嶋郡の内に加増を受け、合計で1万5,000石を領するようになり、大名に列した。慶長12年(1607年)江戸城内に移転。その際に常陸国小田5,000石を加増され、合計2万石。
 元和元年(1615年)大坂の陣の戦功により信濃国飯山に1万石の加増を受け合計3万石となり、飯山藩の藩祖となった。
 元和3年(1617年)、徳川秀忠の御伽衆に任ぜられる。寛永4年(1627年)に江戸にて73歳で没した。菩提寺は滋賀県高島市の幡岳寺と長野県飯山市の大聖寺。墓所は二本榎広岳院と言われている。高野山奥の院に飯山・佐久間家墓所があり、多くの供養墓が現存している。 

佐久間国善(一学) 佐久間国忠(象山)

 真田家・家臣である長谷川家の第36代当主・長谷川善員の長男として生まれる。天才の名を縦に、学問と剣術で早くから頭角を現し幼少期より将来を嘱望されて育つ。とくに儒学や算術に優れ、剣の腕前も藩中で随一を誇った。藩内の実力者で儒者でもある鎌原桐山との親交が深く、後年、長男の象山も幼いころに桐山の塾で儒学と朱子学を学んでいる。やがて五両五人扶持を賜り、後に老中となる藩主・真田幸貫に若くして見出され右筆役頭を務めた。
 折しも、かつて松代真田氏代々の重臣で百石持ちの藩の名門・佐久間家の当主・佐久間国正に男子がなく、家名断絶の危機に瀕しており、これを憂いた藩主・幸貫は佐久間家を絶やさぬようにするため藩内の有能な若き藩士を探し、その後継とするべく命じたことで、すでに文武に優れ名が知れ渡っていた一学に白羽の矢が立った。
 平氏の末裔という家系の佐久間家は元来、代々男子が育たない家系として知られており、佐久間国綱が若くして他界して一度断絶。その後、国正が亡き国綱の養子となって佐久間家を継承している。
 佐久間家・当主となって後は、易学で大成し、卜伝流の剣術道場を開き多数の藩士が入門、人材の育成に尽力した。
 天保3年(1832年)死去。折りしも天保の大飢饉のさなかであり、迫る動乱の時代の到来を間近にしての他界であった。 

 象山は父が50歳、母が31歳の時に生まれた男児であったが、養子続きの佐久間家では久しぶりの男児だったため国善は大変喜び、将来に大きな期待をかけるつもりで詩経の「東に啓明あり」から選んで幼名を啓之助と名づけたという。 門下生だった久保茂によると、象山は5尺7寸から8寸くらいの長身で筋骨逞しく肉付きも豊かで顔は長く額は広く、二重瞼で眼は少し窪く瞳は大きくて炯炯と輝きあたかも梟の眼のようであったため子供の頃はテテツポウ(松代における梟の方言)と渾名された。
 1824年、藩儒の竹内錫命に入門して詩文を学び、1826年、佐藤一斎の門下生であった鎌原桐山に入門して経書を学んだ。また同年、藩士の町田源左衛門正喜に会田流の和算を学び、象山は数学を「詳証術」と称したという。また水練を河野左盛から学んだ。この中で最も象山に影響を与えたのは鎌原桐山だったという。 文政11年(1828年)、家督を継いだ。天保2年(1831年)3月に藩主の真田幸貫の世子である真田幸良の近習・教育係に抜擢された。だが高齢の父に対して孝養ができないとして5月に辞任している。しかし幸貫は象山の性格を癇が強いとしつつも才能は高く評価していた。
 20歳の時、象山は漢文100篇を作り鎌原桐山に提出すると、桐山ばかりか幸貫からも学業勉励であるとして評価されて銀3枚を下賜されている。
 天保3年(1832年)4月11日、藩老に対して不遜な態度があったとして幸貫から閉門を命じられた。これは3月の武芸大会で象山が国善の門弟名簿を藩に提出した所、序列に誤りがあるとして改めるように注意を受けたにも関わらず、象山は絶対に誤りなしとして自説を曲げなかったため、長者に対して不遜であるとして幸貫の逆鱗に触れたものである。この閉門の間に国善の病が重くなったため、幸貫は8月17日付で象山を赦免した。国善はその5日後に死去している。
 天保4年(1833年)11月に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に詩文・朱子学を学び、山田方谷と共に「二傑」と称されるに至る。ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。天保10年(1839年)には江戸の神田お玉ヶ池で私塾「象山書院」を開いているが、ここで教えていたのは儒学だった。
 天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられると象山は顧問に抜擢され、アヘン戦争(1840~42年)での清とイギリスとの混沌した海外情勢を研究することとなり、魏源『海国図志』などを元に『海防八策』を上書、さらにこれを機に蘭学の修得の必要に目覚め、弘化元年(1844年)、オランダ語をはじめ、オランダの自然科学書,医書,兵書などの精通に努めた。これにより主君幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は塾を閉じ江川英龍の下で兵学を学ぶことになる。
 真理に忠実であろうとする学問に対する象山の態度は、当時の体制及び規範から見れば誤解を受ける要因ともなった。象山は大砲の鋳造に成功し西洋砲術家としての名声を轟かすと、蘭学を背景に嘉永2年(1849年)に日本初の指示電信機による電信を行ったほか、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していたという。嘉永4年(1851年)には、再び江戸に移住して木挽町に「五月塾」を開き、砲術・兵学を教えた。ここに勝海舟,吉田松陰,坂本龍馬ら後の俊才が続々と入門している。
 嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は藩の軍議役として浦賀の地を訪れた。この報告は江戸幕府老中阿部正弘に『急務十条』として奏上され、この機に松陰に暗に外国行きを勧めたとされる。
 嘉永7年(1854年)、門弟の吉田松陰が再び来航したペリーの艦隊で密航を企て失敗するという事件を起こした。松陰から相談をもちかけられた象山もこの事件に連座し、伝馬町牢屋敷に入獄する羽目となり、更にその後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。
 元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危険な行動であった。7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門,河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年54。現在、暗殺現場には遭難之碑が建てられている。