H503:佐久間家村 | 平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 三浦義明 ― 佐久間家村 ― 佐久間盛重 | H505:佐久間盛重 |
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佐久間盛次 | 佐久間盛政 |
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はじめ織田信行の配下であったが、のちに信行の兄・信長に仕える。犬山城主であったとの記録がある。弘治3年(1557年)の名塚城攻めに信盛と共に信長方として参加した。その後も永禄11年(1568年)に観音寺城の戦い、勝竜寺城攻めなどに参加した記録があるが、その後の記録には登場せず消息は不明。 |
天文23年(1554年)、 尾張国御器所に生まれた。身長六尺(約182cm)とあり、数値の真偽は別としてかなりの巨漢であったことが窺える。永禄11年(1568年)の観音寺城の戦いで初陣し、その後も数々の戦いで戦功を挙げた。織田信長から感状も賜り「鬼玄蕃」という異名がつけられた。 |
佐久間虎姫 | 佐久間安政 |
織田家家臣、佐久間盛政の娘で、父の死後、母方の叔母の夫(すなわち叔父)にあたる新庄直頼の養女となった後、豊臣秀吉のはからいにより中川清秀の2男・秀成(豊後国岡藩初代藩主)の正室となり、嫡子・久盛(2代藩主)をはじめ7人の子の母となった。 |
はじめ紀伊・河内守護の畠山昭高家臣の保田知宗の婿養子となり保田久六を名乗る。後に久右衛門と改める。 |
佐久間国善(一学) | 佐久間国忠(象山) |
真田家・家臣である長谷川家の第36代当主・長谷川善員の長男として生まれる。天才の名を縦に、学問と剣術で早くから頭角を現し幼少期より将来を嘱望されて育つ。とくに儒学や算術に優れ、剣の腕前も藩中で随一を誇った。藩内の実力者で儒者でもある鎌原桐山との親交が深く、後年、長男の象山も幼いころに桐山の塾で儒学と朱子学を学んでいる。やがて五両五人扶持を賜り、後に老中となる藩主・真田幸貫に若くして見出され右筆役頭を務めた。 |
象山は父が50歳、母が31歳の時に生まれた男児であったが、養子続きの佐久間家では久しぶりの男児だったため国善は大変喜び、将来に大きな期待をかけるつもりで詩経の「東に啓明あり」から選んで幼名を啓之助と名づけたという。 門下生だった久保茂によると、象山は5尺7寸から8寸くらいの長身で筋骨逞しく肉付きも豊かで顔は長く額は広く、二重瞼で眼は少し窪く瞳は大きくて炯炯と輝きあたかも梟の眼のようであったため子供の頃はテテツポウ(松代における梟の方言)と渾名された。 |