中国(後漢王朝)渡来系

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秋月種雄 秋月種時

 平安時代後期から九州に土着した松浦氏や蒲池氏など他の豪族と同じく秋月氏の祖である原田氏も平家の家人だった。原田種雄が改姓し秋月を名乗る。筑紫郡原田郷にあった兄の原田種直の居城に居住していた。なお、種雄は原田種直の子とする説もある。
 原田種直が保元の乱・平治の乱に平家方として参加したとき、種雄はまだ幼少だったが、平家が追いつめられていく過程で種雄も成長し、兄弟らとともに平家のために戦った。平家が壇ノ浦で滅亡し、源頼朝の怒りに触れた原田種直は、源氏方に捕えられ鎌倉へ送られ、関東(一説には扇ヶ谷)に幽閉された。それを知った種雄はいずこかへ身を隠したという。
 元暦元年(1184年)に入ると、最終的に平家の没官領は全て頼朝に与えられ、頼朝は没官領を自らの直轄領として実際の経営は、御家人を地頭・預所として派遣することで自らの政権(鎌倉幕府)を政治的・財政的に安定させた。
 原田種直は建久元年(1190年)に赦免され、御家人として筑前国怡土庄の地頭に任じられた。建仁3年(1203年)頃、弟の原田種雄が秋月に入り、秋月氏となる。

 延徳2年(1490年)、13代当主・秋月種朝の子として誕生。永正9年(1512年)に父が戦死したため、家督を継いで14代当主となった。種時は、豊後・肥後・筑後守護職の大友義鑑からの自立を目論んで、管領代で、筑前・豊前守護職の大内義興に接近したが、この背反行為に怒った大友義鑑の攻撃を受けて敗れ、結局、大内義興の仲介を受けて降伏した。なお、家督相続前の永正6年(1509年)には美奈宜神社の社殿を再建している。
 享禄4年(1531年)、死去。享年42。家督は子の文種が継いだ。 

秋月文種 秋月春種

 享禄4年(1531年)、父・種時の死去に伴い家督を継承。この頃、大宰大弐や筑前など6ヶ国の守護を兼任し中国地方随一の勢力を誇った大内義隆に従属した。大内氏と大友氏との和睦に功績があったとされており、天文10年(1541年)には義隆の推挙を受けて、室町幕府の幕臣にまで任じられている。また、文種の嫡子が第12代将軍・足利義晴から偏諱を受け、晴種と名乗った。
 天文12年(1543年)、砥上神社(中津屋神社)にて、大内田勘解由重国(当社・初代宮司)が初めて祭祀を行った際には、文種は神殿の造営に関わり、筑紫氏とともに祭祀料として二町余の神領を寄進したという。
 天文20年(1551年)に大内義隆が家臣・陶晴賢の謀反により自害すると(大寧寺の変)、豊前国の大友義鎮(宗麟)に属した。ところが、弘治3年(1557年)、大内氏が滅んで中国地方で新たに台頭した毛利氏の勢力が北九州にまで及んでくると、文種は毛利元就の調略に応じて大友氏に反旗を翻した。このため同年7月、大友義鎮は戸次鑑連(立花道雪)と臼杵鑑速に2万の兵を預けて、文種討伐を命じる。文種は、秋月氏宅所(杉本城)を捨て、嫡男の晴種がいた古処山城で徹底抗戦したが、衆寡敵せず、晴種と共に城中にて自刃した。しかし、残りの子供たちは家臣らに守られ、毛利氏の元に逃れるなどした。文種・晴種父子の死により、秋月氏は一時滅亡し、ほとんどの所領を失うこととなった。残った所領は家臣の深江氏が死守している。 

 弘治3年(1557年)7月に父・文種が毛利元就と通じて大友義鎮(宗麟)から離反したため、義鎮が派遣した立花道雪,臼杵鑑速,志賀親度らを大将とした2万の大軍に攻められる。父・文種が秋月城を捨てて古処山城に逃亡してくると、父を匿って大友軍と戦ったが、衆寡敵せず父と共に自害した。享年19。 
秋月種実

 天文17年(1548年)、筑前国の国人である秋月氏15代当主・秋月文種の次男として誕生したといわれる。
 弘治3年(1557年)、大内氏の内紛を好機とみた毛利元就は、大内氏の当主・義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。これにより毛利元就は、九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した(防長経略)。
 同年、秋月氏では毛利元就の調略に応じて大友氏に反旗を翻し、父・文種や長兄・晴種が大友宗麟の猛攻を受けて自害したが、種実は家臣に連れられて古処山城落城寸前に脱出し、毛利氏を頼って周防国山口に逃走した。
 永禄2年(1559年)1月、秋月氏の旧臣・深江美濃守は毛利氏の支援を得て、種実を居城に迎えると、古処山城を占拠していた大友軍を破り、秋月氏の旧領をほぼ回復した。種実の弟・種冬は高橋鑑種の養子として豊前国小倉城に入り、種信は長野氏を継いで豊前馬ヶ岳城主となり、元種は香春岳城主となり、それぞれ大友氏に対抗した。 
 大友氏は1559年に幕府より筑前守護に任じられた。
 永禄10年(1567年)、高橋鑑種が大友氏に反旗を翻すと種実も同調し、秋月氏は、9月3日の休松の戦いでは夜襲を敢行した。9月4日の夜半、風雨の強まる中、秋月種実は夜襲を決行する。2,000の兵を率いて、臼杵鑑速,吉弘鑑理(高橋紹運の父)の陣に突撃した。秋月勢の夜襲によりパニックに陥り敗走する鑑理臼杵鑑速の兵が、戸次鑑連(立花道雪)の陣へと逃げ込んだ。鑑連はぬかりなく夜襲に備えていたが、算を乱してなだれ込んできた敗走兵との同士討ちが始まってしまう。鑑連は同士討ちする味方に怒り、同士討ちを収拾し、大友軍の敗走を助けて、追っ手の秋月勢と戦ったが甚大な被害を受け、全軍に後退を命じた先が山隈城(花立山)であった。
 この戦いで戸次一族は打撃を受け、戸次鑑連(立花道雪)の弟・鑑方らが討死した。これにより毛利元就の九州侵攻も始まり、永禄11年(1568年)には立花鑑載が大友氏に反旗を翻すなど、一時は反大友勢力が優勢だったが、7月23日に立花山城が大友軍によって陥落され、永禄12年(1569年)5月28日に毛利軍も多々良浜の戦いで大友軍に敗れたため、8月に種実は大友宗麟に降伏した。
 天正6年(1578年)に耳川の戦いによる大敗で大友氏が衰退すると、秋月種実は大友氏に再度反抗、龍造寺隆信や筑紫広門らと手を結んだ。さらに大友宗麟の暴悪十ヶ条を掲げて筑前とその周辺諸国へ触れ廻り、大友に背く者達同士で連判し合った。
 天正8年(1580年)2月28日に、秋月氏は豊前の猪膝にて大友方の首級800を討ち取るなどした。しかし、種実の侵攻は立花道雪と高橋紹運によって退けられてしまう。
 天正12年(1584年)に龍造寺隆信が沖田畷の戦いで敗死すると、種実は代わって勢力を伸ばしてきた島津義久に従属する。種実は大友軍の立花道雪が島津氏と龍造寺氏を挟撃しようという使者を出す前に、いち早く龍造寺と島津の和睦交渉の橋渡し役となり、なおも大友氏に反抗、島津氏と龍造寺氏の争いを回避し、島津氏が大友攻略に戦力を絞る役割を果たした。天正12年(1584年)8月、立花道雪,高橋紹運は大友氏の筑後奪回戦に参陣。紹運の子・立花宗茂は道雪出陣後、1,000程の兵力とともに立花山城の留守を預かることとなった。この時、立花山城に種実率いる8,000の兵が攻め寄せて来たが、宗茂はこれを撃破し、更に西の早良郡の曲淵房助や副島放牛が拠る飯盛城など龍造寺氏の城砦を襲撃した。そして種実は、島津氏と大友氏の争いの中で大友領を侵食してゆき、最終的には筑前・豊前・筑後国北部に36万石にも及ぶ勢力範囲を有し、秋月氏の最盛期を築き上げる。
 天正13年(1585年)に種実は島津氏の大友領侵攻に従って岩屋城を攻めた(岩屋城の戦い)。
 そして、天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州平定の軍勢が九州へ進軍しようとした際に種実は、講和の使いと称して敵情を探らせるべく重臣・恵利暢堯を秀吉の許へ派遣する。秀吉は恵利へ、降伏すれば種実へ筑前・筑後の二国を与え、恵利にも3万石を与えるとした。復命した恵利は、時代の流れを悟って秀吉に従うように諫言したが種実は恵利へ退場を命じ、島津家との義盟に従い秀吉との抗戦を宣告した。これを思い留めさせるべく恵利は諌死に及んだが種実は応じず、島津方に与して秀吉率いる豊臣勢と戦い敗北した。そして籠城中に秀吉得意の一夜城作戦(益富城)により戦意を喪失し、降伏することとなった。このとき種実は剃髪し、楢柴肩衝と国俊の刀を秀吉に献上し、娘の竜子を人質に出したことにより秋月氏は存続を許されたが、秀吉の命令で日向国財部(後の高鍋)3万石に減移封された。種実はその際、「10石でもいいから秋月に居たい」と嘆いたという。失意の種実は、家督を嫡男の種長に譲って隠居した。慶長元年(1596年)9月26日、高鍋で死去。享年49。