中国(後漢王朝)渡来系

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秋月種美 秋月種茂

 第5代藩主・秋月種弘の長男。庶長子ではあったが世子となり、享保19年(1734年)12月7日、父の隠居により跡を継いだ。鷹山の実父だけあって有能であったが、宝暦3年(1753年)に父が死去するまでは実権はなかった。父の死後に親政を行うが、種美の治績は文武を奨励し、藩士子弟の遊学を許して広く人材を求め、藩の軍備を充実させると同時に、民政においても代官には人格ある学者を起用するなど、人事制度に大きな治績を残している。種美は「国家の至宝は人材に有り」と述べているが、後に鷹山が成功したのはこのような父親の藩政を見習ったためかもしれない。
 宝暦10年(1760年)7月8日、長男・種茂に家督を譲って隠居し、天明7年(1787年)9月25日に70歳で死去した。


 第6代藩主・秋月種美の長男。米沢藩主で名君と呼ばれた上杉鷹山の兄に当たる(ちなみに種茂は鶴山と号している)。
 上杉鷹山同様、種茂も名君であった。宝暦10年(1760年)7月8日の父の隠居により家督を継ぐと、即座に藩政改革に臨んだ。改革に必要なものは人材登用であると考え、安永7年(1778年)に藩校明倫堂を創設。このとき、種茂は藩校に通える者を武士だけに限らず、民百姓に対しても開いた。この明倫堂からは、明治時代に活躍する多くの人材(三好退蔵,秋月左都夫,石井十次)が出ている。また、財政再建政策を行ない、財政を再建した。
 天明8年(1788年)11月6日、家督を長男・種徳に譲って隠居したが、なおも実権は握り続けた。文政2年(1819年)11月6日、77歳で死去。

秋月種殷 秋月種樹

 日向国高鍋藩第10代(最後)の藩主となる。天保14年(1843年)8月21日、種任から家督を譲られて当主となる。治世は30年に及び、教育の振興に尽力した。
 文久元年11月1日(1861年12月2日)に弟の種事を高鍋藩家老上席とする。また、文久3年6月26日(1863年)に弟の種樹を嗣子とした。
 明治2年(1869年)の版籍奉還後は高鍋藩知事となり、明治4年(1871年)に廃藩置県が行われて高鍋藩は終焉を迎え、美々津県に合併される。男子がなかったため、弟で養嗣子の種樹が家督を継いだ。明治7年(1874年)、58歳で没した。

 9代高鍋藩主・秋月種任の3男として生まれる。安井息軒,塩谷宕陰らに師事する。若年より英明で知られ、秋月楽山は小笠原明山(長行),本多静山(正訥)と並んで「学問界の三公子」と称された。 
 文久2年(1862年)11月14日、部屋住みの身でありながら幕府学問所奉行に登用される。文久3年(1863年)6月26日、兄・種殷の養子となる。同年9月28日、若年寄格との兼任を命じられた。秋月家は2万7000石の外様大名であり、異例の抜擢であった。元治元年(1864年)5月28日、学問所奉行を解任されて、将軍徳川家茂の侍読に任じられた。
 慶応3年(1867年)6月21日、若年寄に任ぜられるものの、幕府は長州征伐に失敗し既にその威信は失われており、種樹は病と称して拝命にも出仕にも応じなかった。これに幕府側は医師を遣わすとまで言いだし、高鍋藩士の水筑小一郎,黒木鷲郎兄弟は薩摩藩と謀り、品川湊に停泊中であった薩摩の翔凰丸に種樹を乗せ脱出させた。翔凰丸は幕府の戦艦の砲撃により大破しながらもどうにか兵庫に辿り着いたのであるが、江戸では翔凰丸が撃沈されたとの風聞が立ち、種樹も運命を共にしたのではないかとされた。それより然る後に大政奉還が成り、種樹は改めて江戸城へ出仕し同年12月25日に若年寄の辞意が認められた。
 慶応4年(1868年)2月10日、上洛し新政府支持の姿勢を示した。同年2月、新政府の参与に就任し内国事務局に配属された。その後、公議所議長,左院少議官などを歴任。明治5年(1872年)、海外遊学。明治7年(1874年)5月13日、種殷の死去により家督を相続した。明治8年(1875年)7月2日から明治13年(1880年)8月19日までは元老院議官を務めた。元老院議官在任中の明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると、三好退蔵とともに旧高鍋藩士に西郷隆盛率いる私学校軍へ与しないように尽力するも、坂田諸潔や石井習吉、弟の秋月種事らが高鍋隊または福島隊として私学校側についてしまい、弟の種事は鹿児島の城山にて戦死する。
 明治14年(1881年)4月2日、隠居し息子の種繁に家督を譲った。明治23年(1890年)6月12日、元老院議官に再任され、同年10月20日、元老院が廃止され非職となり、錦鶏間祗候を仰せ付けられる。明治27年(1894年)1月23日、貴族院勅選議員になった。明治37年(1904年)10月、病のため没する。享年71。