<藤原氏>北家 高藤流

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上杉輝虎 上杉景虎

 上杉家の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、初名は長尾景虎。兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。のちに関東管領・上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を改め、上杉氏が世襲する室町幕府の重職関東管領に任命される。後に将軍・足利義輝より偏諱を受けて、最終的には上杉輝虎と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。
 内乱続きであった越後国を統一し、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、49年の生涯の中で武田信玄,北条氏康,織田信長,越中一向一揆、蘆名盛氏,能登畠山氏,佐野昌綱,神保長職,椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に5回に及んだとされる武田信玄との川中島の戦いは、後世たびたび物語として描かれており、よく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大した。
 自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる。


詳細は、Wikipedia(上杉謙信)参照


 幼少期に箱根早雲寺に預けられて「出西堂」と名乗り、喝食の僧として過ごしていたという。戦国期には相模国の後北条氏と甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏の三者で三国同盟が成立した。
 永禄12年(1569年)、大叔父に当たる北条幻庵(長綱)の養子となり、幻庵の娘を妻とする。小机衆を束ね、江戸城の武蔵遠山氏とも近しくしていたとされる。なお、北条時代の彼の事績については北条氏秀と同一視されている可能性がある。
 永禄12年(1569年)6月、武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)に伴い、北条氏では甲相同盟を手切とし、越後上杉氏との越相同盟が締結された。上杉氏と北条氏では長らく敵対関係にあり、同盟締結に際しては北条氏政の次男・国増丸を上杉謙信へ養子に出すことが決められる。
 しかし、同盟締結において氏政が国増丸を手放すのを拒んだため、上杉家から代わりの人質を求められる。三郎は同年12月に北条幻庵の養子になったとみられるが、翌永禄13年3月には謙信への養子入りが決まる。この際、謙信の姪(上杉景勝の姉)を三郎に娶らせることが約束される。
 永禄13年(1570年)4月11日、上野沼田で謙信と面会し、越後へ同行する。同月25日、春日山城にて謙信の姪との祝言が行われ、正式に謙信の養子となり、彼の初名でもあった「景虎」の名を与えられる。この際、春日山城三の丸に屋敷を与えられたという。
 越相同盟に対し、甲斐武田氏は足利義昭・織田信長を通じた上杉氏との和睦や(甲越和与)、佐竹氏ら関東の勢力を迎合して北条氏への牽制を行っており、北条氏においても氏康と氏政の間で越相同盟の維持か甲相同盟の回復かで対立路線があったという。
 元亀2年(1571年)の氏康の死去に際して、景虎は小田原へ帰参しているが、まもなく越後へ戻っている。同年12月、家督を相続した兄・氏政は甲相同盟の再締結を行い、これに伴い越相同盟は手切となっているが、景虎は越後へ留まっている。
 天正6年(1578年)3月13日、謙信が病没すると、義兄弟の上杉景勝との家督を巡る対立が上杉家内部の内訌に発展し、御館の乱となる。上杉景信,本庄秀綱,北条高広らの支持を集め、景虎の実家である後北条家とその同盟国である武田家の後ろ盾もあり、当初は景虎が優勢であった。これに対し、景勝側はいち早く春日山城本丸・金蔵を奪取した。5月13日、景虎は妻子らを連れて春日山城を脱出し、城下にある御館(前関東管領である上杉憲政の屋敷)に立て籠もった。北条氏は主力が佐竹・宇都宮連合軍と対陣中だったこともあり、甲相同盟に基づいて武田勝頼に景虎への援軍を打診し、勝頼は同年5月に信越国境まで出兵している。
 同年6月に景勝方は勝頼との和睦交渉を開始し、北信地域における上杉領割譲を条件に和睦が成立し、甲越同盟が締結される。6月中に勝頼は越府に着陣すると、景勝と景虎間の調停を開始した。同年8月に景虎と景勝は一時的に和睦するが、8月中に三河国の徳川氏が駿河の武田領国へ侵攻すると、勝頼は越後から撤兵し、景虎・景勝間の和睦も破綻する。
 翌天正7年(1579年)、雪で北条家からの援軍も望めない中で御館は落城、景虎正室は実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害し、また嫡男・道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に、憲政ともども何者かに殺害された。孤立無援となった景虎は、兄・北条氏政を頼って小田原城に逃れようとした。しかし、その途上において鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭って、自害を余儀なくされた。享年26とされる。こうして御館の乱は景勝方が制するが、景虎方の敗北は甲相同盟の破綻に至り、以降の地域情勢にも大きく影響する。
 墓所について、『北越軍記』によると常安寺とあるが、実際には常安寺には景虎の墓はないため不明である。また、新潟県妙高市の勝福寺には景虎の供養塔がある。

上杉道満丸 上杉景勝

 元亀2年(1571年)、上杉景虎の嫡男として越後国で生まれた。
 天正6年(1578年)、上杉謙信が死去すると、景虎と上杉景勝の間で家督争いが勃発し、やがて越後全域を戦場とする御館の乱に発展する。当初は実家の北条家と甲斐の武田家の連合勢力を味方につけた景虎方が戦いを優位に進めるが、景勝方が春日山城本丸を占領し、武田家と同盟すると戦局は逆転、形勢が不利になった景虎方は春日山城から総退却し、元関東管領・上杉憲政の居る御館に拠点を移し、道満丸も行動を共にする。
 天正7年(1579年)、雪に阻まれて北条軍の援助を見込めなくなった景虎は、憲政を使者に立て、道満丸を人質として景勝方との和睦交渉に派遣したが、道中、四ツ屋砦付近で景勝軍の兵に憲政共々包囲され、殺害された。享年9。他の兄弟姉妹たちも同時期に死去したものと見られる。
 死後、母はその兄(弟とも)の景勝方からの降伏勧告を拒否して御館で自害し、父・景虎も小田原城への道中で家臣・堀江宗親の謀反に遭い、鮫ヶ尾城で自害した。

 弘治元年(1555年)、越後国魚沼郡上田庄の坂戸城下に上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれる。生母は上杉輝虎(上杉謙信)の実姉・仙桃院。輝虎の甥に当たる。長兄が早世したので世子となるが、永禄7年(1564年)に父・政景が溺死し、春日山城に入って叔父・上杉謙信の養子となった。永禄9年(1566年)に行われた謙信の関東出兵が初陣とされる。以降、景勝は上田衆を率いて越中の将・椎名康胤の取成や謙信旗本の吉江資堅の軍役を定めるなど、謙信政権下で重要な役割を担っていく。
 天正3年(1575年)、名を長尾顕景から上杉景勝(一説では長尾景勝)に改めると共に、謙信から弾正少弼の位を譲られた。天正6年(1578年)3月13日、謙信が死去すると、後北条氏から人質として出され謙信が養子に迎えた上杉景虎との相続争いが勃発する(御館の乱)。この相続争いで景虎嫡男・道満丸が殺害され、景虎と正室(景勝の実姉のまたは妹)・清円院も自害した。戦後処理では上田長尾が完全支配する体制を築いていく。特に御館の乱で景勝を助けて活躍した斎藤朝信に、景勝は厚く報いた。
 上杉氏は、乱の恩賞問題による北越後の新発田重家の造反や、柴田勝家率いる織田軍の越中国侵攻、さらには武田氏の滅亡によって後ろ盾を失うなど、上杉家は滅亡の危機に立たされた。しかし、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で上杉家は九死に一生を得た。ただ、謙信が一代で拡大した上杉氏の国力は著しく衰退した。
 信長の死後、信長の天下統一事業を継いだ羽柴秀吉とは好を通じ、賤ヶ岳の戦い,小牧・長久手の戦い,富山の役でも秀吉に味方し、天正14年(1586年)6月には、上洛して秀吉と会見し、養子・畠山義真(当時は上杉姓)を人質として差し出して臣従し命脈を保った。景勝は正親町天皇に拝謁して右近衛少将に任じられた。また、天正16年(1588年)6月15日に、従三位・参議に昇叙された。その後も天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵にも兵を出している。文禄3年(1594年)には権中納言となり、「越後中納言」と呼ばれた。文禄4年(1595年)、秀吉より、越後・佐渡の金銀山の支配を任せられた。同年、豊臣家五大老の一人・小早川隆景が家督を小早川秀秋に譲り隠居したため、空いた五大老に景勝が任命された。慶長3年(1598年)、秀吉の命により会津120万石に加増移封され、以後は「会津中納言」と呼ばれた。一説によると当初、秀吉は徳川家康ではなく景勝を関東管領の位置付けとして、関東に移封するつもりであったともいわれる。景勝には宇都宮12万石に減移封された蒲生氏に代わり、東北諸大名と家康の監視と牽制という重大な使命が科せられ、結果的に家康との対立は避けられないものとなる。景勝は要となる米沢城に家老の直江兼続を配置、対伊達氏最前線の白石城の甘糟景継,福島城の本庄繁長,梁川城の須田長義,東禅寺城の志駄義秀を指揮させた。
 慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、家老の直江兼続が五奉行の石田三成と懇意にあったことなどの経緯から徳川家康と対立する。同年9月、秀吉の葬儀のため上洛。慶長5年(1600年)2月になると、景勝は夏までに領内諸城の補修を命ずる。3月になると鶴ヶ城が将来手狭になると考え、会津盆地のほぼ中央に位置する神指に新城(神指城)の建築を命ずる。4月、家康から上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令が出るが、これを拒否。この召還命令は景勝を排除するための策だと見られている。この際、兼続による挑発的な返答が、家康の会津征伐を煽ったとされる。家康は大軍を率いて景勝討伐に出陣し、景勝は神指城の突貫工事を命ずるが、6月になると普請を中断して家康軍の対応にあたる。7月、討伐に向かった家康の留守中に三成らが挙兵。家康が西上すると会津から出兵し、東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦った(慶長出羽合戦)。しかし、9月15日の関ヶ原の本戦で三成ら西軍が敗れたため、12月に家康に降伏することを余儀なくされた。慶長6年(1601年)2月上旬、家康は結城秀康の取り成しで豊光寺の西笑承兌を介して兼続に音信させ、景勝の上洛陳謝を促した。景勝が兼続と共に上洛、家康に謝罪した上で上杉氏の存続は正式に許された。なお、文禄4年(1595年)、景勝夫人・菊姫と兼続夫人・お船の方は証人として伏見邸に入っていたが、両夫人は引き続き徳川の証人として、伏見邸に留め置かれた。しかし、改易は免れたものの、置賜・信夫・伊達の3郡からなる出羽米沢(30万石)藩主として減移封され、上杉家は景勝一代において北信越の大大名から出羽半国の一大名へと没落した。
 減封後は米沢藩の藩政確立に尽力した。慶長8年(1603年)2月には幕府から江戸桜田に藩邸を与えられる。慶長15年(1610年)4月には駿府で徳川家康と謁見し、同年末には江戸桜田邸に将軍秀忠が御成している。慶長19年(1614年)正月には松平忠輝の居城・高田城築城の際、伊達政宗の指揮の下で天下普請を行なった。同年10月、大坂冬の陣においては徳川方に起請文を提出し、先発した直江兼続とともに出陣する。夏の陣では京都警備を担当し八幡山に布陣した。同年5月に大阪城は落城し、米沢へ帰国する。元和7年(1621年)9月には伊達政宗,佐竹義宣とともに将軍・秀忠から饗応をうけており、翌元和8年(1622年)9月には出羽山形藩主・最上義俊の改易に際して、その居城である山形城の受け取りを務めた。元和9年(1623年)3月20日、米沢城で死去。享年69。遺骨は高野山清浄心院、遺灰と衣冠は山形県米沢市の上杉家御廟所に、それぞれ納められている。 

上杉定勝 上杉綱勝

 生母・四辻氏は定勝を生んで100日余り後に死んだため、直江兼続・お船の方夫妻が養育に当たった。慶長15年(1610年)、2代将軍・徳川秀忠に御目見した。このとき、千徳の名を授かる。
 元和9年(1623年)2月13日、江戸城に登城し将軍・秀忠に接見、従四位下に叙し侍従に任官。弾正大弼を兼任。同年5月13日、父の景勝が死去したため家督を相続する。寛永3年(1626年)8月9日、左近衛権少将に転任し、弾正大弼如元。これより先の寛永元年に将軍の計らいで鍋島勝茂の娘と婚姻し、寛永11年(1634年)、3代将軍・徳川家光の上洛に従った。寛永20年(1643年)、会津藩(加藤家)2代藩主・加藤明成の除封処理を行う。また、上杉氏の菩提寺である林泉寺と直江氏の菩提寺であった徳昌寺との僧録の地位をめぐっての争いの結果、徳昌寺を破却した。正保2年(1645年)に42歳で死去、その跡は嫡男の綱勝が継いだ。
 寛永15年(1638年)に六尺五寸一歩の三百一反制をもって、総検地を実施し貢租制度を整備。また奉行,郡代,代官などの藩政・郷村支配体制を整備し、直江支配体制から藩主直属支配体制への移行を推進する。
 江戸幕府の指令を受けて、キリシタン取締りを強化、寛永5年(1628年)に甘粕信綱を処刑するなど、領内で藩士を含む多数のキリシタンを逮捕・死罪に処し、寛永16年(1639年)に吉利支丹横目を郷村に配置した。米沢藩士に対して「他家の風をまねすることなく、万事質素律儀を作法を旨とし、衣服は小袖上下や桐袴などは無用であり、もっぱら文武忠孝に励むこと」という法令を出しており、この法令は後に上杉治憲の初入部の際の「御条目」の添書に使われている。

 寛永15年12月22日(1639年1月25日)出生。正保2年(1645年)、父・定勝の死により藩主となる。承応2年(1653年)12月11日、従四位下に叙し、侍従に任官。播磨守を兼任。慶安2年(1649年)に江戸城石垣普請を命じられ、藩の財政は悪化の一途を辿る。治世中は開地の検地など貢租制度整備を推進した。慶安4年(1651年)に青苧検地を実施し、藩の買い上げ総額を530駄とする。また、明暦3年(1657年)には納方新帳を編成した。領内のキリシタン弾圧を強化して、幕府老中の命により一門の山浦光則らを死罪とするなどして家中は動揺した。
 媛姫とは幕府の斡旋で婚姻する。万治2年(1659年)に媛姫が19歳で死去し、継室を迎えるが、その後の寛文4年(1664年)、嗣子なく世嗣も指名しないまま急死する。本来ならば上杉氏は無嗣子断絶となるところであったが、綱勝の岳父に当たる保科正之の仲介などもあって、綱勝の妹・富子(定勝の4女)が嫁いでいた高家吉良義清和源氏の名門であり、扇谷上杉家・八条上杉家の女系子孫でもあるの長男・上杉綱憲が末期養子として綱勝の跡を継ぐことで家名存続を許された。またこの時、米沢藩の領域は信夫郡と置賜郡の一部を収公され、石高は30万石から15万石に減少されたにもかかわらず、保科正之による要請により藩士の召し放ち(リストラ)が不徹底になったため、財政難に拍車がかかることとなった。
 綱勝の死因について、吉良義央による毒殺説がある。これは綱勝の発病が妹の嫁ぎ先の吉良家を訪れた直後で、病状が悪化していることから唱えられた説で、小説や元禄赤穂事件の解説書でも取り上げられることが多い。

上杉綱憲 上杉吉憲

 高家肝煎・吉良義央の長男として誕生する。正室の縁により徳川吉宗は義弟にあたる。
 寛文4年(1664年)閏5月10日、米沢藩第3代藩主・上杉綱勝が嗣子の無いままに急死した。米沢藩は無嗣断絶により改易されるべきところを保科正之の計らいにより、高家・吉良義央(扇谷上杉家の上杉氏定の血を引く)と正室・富子(綱勝の妹)との間に生まれたばかりの子、三之助を末期養子にすることで存続を許された。吉良三之助は上杉喜平次景倫と改名し、6月5日に正式に上杉家の当主となった。時に2歳。竹俣義秀,中条知資らの補佐を受ける。しかし、末期養子による相続の代償として30万石の所領を15万石に半減され、信夫郡と伊達郡を削られて、藩領は置賜郡のみとなった。このため上杉家は以後、深刻な財政逼迫に悩まされることとなる。
 寛文8年(1668年)8月25日、喜平次自身が初めて将軍に御目見する。延宝3年(1675年)11月23日、将軍家綱の御前で元服し、家綱の偏諱をうけて綱憲と改名し、従四位下侍従弾正大弼に叙任した。
 延宝6年(1678年)、紀州藩主・徳川光貞の娘である栄姫と結婚する。延宝7年(1679年)4月21日、初めて封地の米沢に入部を許される。元禄2年(1689年)11月、実家の吉良家に後継者がいなくなっていたことから、次男の上杉春千代(のちの吉良義周)を父・義央の養子に出す。こうした二重三重の縁により、吉良家と上杉家の親密な関係は続いた。
藩政では、教学振興や風俗統制,役職整備,歴史編纂といった文治政治に力を入れている。このため、七家騒動で千坂高敦らが上杉治憲らの改革を批判する際、「風俗もよく、政治もよし」と綱憲の治世を評価している。風紀取締りには厳罰を持って対処し、治世中は家事不正による譜代家臣の追放が多く、天和3年(1683年)に領内に博打した者を死罪とする法令を出す。その一方で塩野毘沙門堂や禅林寺(後の法泉寺)の文殊堂などの社寺大修理、学問所や米沢城本丸御書院,二の丸御舞台,麻布中屋敷新築などの建設事業や、参勤交代を華美にし、豪華な能遊びを行うといった奢侈により、所領削減により減収した藩財政を悪化させた。このため、藩の軍用貯金を一般財政に流用することとなる。さらにこの財政状況で吉良家を援助しているため当然非難の的となり、綱憲は家臣から必ずしも熱心な支持を得られていなかった。
 元禄14年(1701年)3月14日には、江戸城内で吉良義央が赤穂藩主浅野長矩に傷つけられる事件が起こり、事件後に綱憲は生母・富子を屋敷へ引き取っている。翌15年(1702年)12月14日に赤穂浪士による吉良邸討ち入りが起こった。この日に綱憲を止めたのは家臣ではなく、幕府老中からの出兵差止め命令を綱憲に伝えるべく上杉邸に赴いた、縁戚の高家・畠山義寧であった。討ち入り事件は、綱憲一人にとっては大事な故家の危機ではあっても、藩士にとっては他家の不始末と受けとめられたに過ぎなかった。結局、自藩を断絶の危機へと追い込む行動には誰も賛成していなかったため、出兵しないのは“自発的な行動”と外部からは見られるほど、幕令は藩士たちには当然なものとして受け入れられたと言われている。
 元禄16年(1703年)8月21日、病のため隠居し、嫡男の吉憲に家督を譲った。その後の9月14日、将軍徳川綱吉に来国俊の脇差および牧渓筆の双幅を、御台所・鷹司信子に二条為氏筆の『古今和歌集』を、将軍生母・桂昌院に二条為重筆の『古今和歌集』をそれぞれ献上している。翌宝永元年(1704年)6月2日に死去。享年42。国許の米沢御廟に葬られた。
 その後、上杉家の財政逼迫は深刻化し、建て直しは曾孫に当たる上杉鷹山の藩政改革を待つことになる。 

 庶子ではあったが、父と正室・栄姫に間に嫡子がなかったので、その養子となり喜平次と改名し、正式に世子となった。元禄11年(1698年)11月28日、元服し従四位下民部大輔に叙任。将軍・徳川綱吉の偏諱を受け吉憲を名乗る。元禄16年(1703年)8月21日、父の隠居により家督を継ぐ。同日、侍従兼任。
 宝永元年9月(1704年9月)、家督相続早々に江戸幕府より江戸城半蔵門・清水門の石垣普請を命じられた。宝永2年(1705年)に米沢に初入部、またこの年に片山元僑を藩に招く。享保4年(1719年)には弟・勝周に1万石を分与して支藩である米沢新田藩を立藩させた。幕命の石垣普請などもあって藩財政の窮乏が進み、参勤交代の費用にすら事欠く有様で、享保5年(1720年)の参勤交代の際には藩士の俸禄100石中の300文、人別銭100文を徴収して江戸への路費に充てる始末であった。また藩士も窮乏し、正徳年間には既に中級武士の馬廻組の中に家財を売って、細工物をして生計を立てる者も多くなる。
 享保7年(1722年)、39歳で死去した。跡を長男・宗憲が継いだ。 

上杉重定 上杉勝熙

 享保19年(1734年)5月13日に長兄・宗憲、延享3年(1746年)8月12日に次兄・宗房、と2代の藩主が相次いで嗣子なくして死去し、三兄の貞千代(畠山義紀)はすでに高家旗本・畠山家を継いでいたため、延享3年9月26日に家督を相続した。同年12月5日に元服し、将軍・徳川家重の偏諱を授かり重定と名乗り、従四位下侍従大炊頭に叙任した。
 米沢藩では減封が相次ぎ、4代綱憲の末期養子としての襲封を認める代償に15万石にまでなっていた。にもかかわらず、藩士召し放ちを行なわなかったこともあり、藩財政は極めて劣悪であった。寛延3年(1750年)以降から、それまで臨時的に行っていた藩士からの半知借り上げが常道化する。宝暦3年(1753年)に村山郡の預領を替えて、越後国岩船郡に割替となる。その一方、東叡山寛永寺中堂普請手伝いを幕府より命じられて工事費5万7千4百両を費やした。加えて宝暦5年(1755年)には藩内を大凶作が襲い、凶作被害損毛高7万5千8百20石余りとなり、城下で原方衆に煽動された百姓による富商宅の打ちこわし事件も発生する。また宝暦10年(1760年)に青苧騒動が起こる。
 藩政は藩主・重定の信任を得ていた奉行筆頭の清野内膳秀佑が、清野が引退後は与板組出身の側近で、後に郡代所頭取兼小姓頭となる森平右衛門利真らによって牛耳られていたが、領民の反発を買って宝暦13年(1763年)に森平右衛門は竹俣当綱に呼び出されて刺殺され、その一派は粛清された。それでも藩財政の苦しさは変わらず、宝暦10年に竹俣の出した進言に従い、尾張藩を通して、幕府に藩土返上の上、領主を辞めるということを相談し、宝暦14年1月(1764年)にはこれを諌められ取り下げている。
 このような財政逼迫の情況の中、宝暦9年に日向国高鍋藩藩主・秋月種美の次男・松三郎を養子とする内約を結び、宝暦10年に実子が生まれたのにかかわらず養嗣子として迎えた。これが上杉治憲(鷹山)である。また、藩医の藁科松伯の薦めにより細井平州を招き、明和元年には治憲とともに講義を受ける。明和4年(1767年)4月24日、多病を理由に治憲に家督を譲って隠居した。そして、森平右衛門を斬殺した竹俣当綱らを重用した名君・鷹山の改革により米沢藩は再建されることとなる。
 隠居後は米沢に移り、隠居所の南山館で暮らしていたが、天明3年(1783年)に南山館が焼失すると天明5年(1785年)に偕楽館を新築してそこに移る。この隠居所の火災と新築は、天明の飢饉や治憲の隠居所建設と重なったこともあり、藩財政に打撃を与えた。寛政10年(1798年)に死去した。 

 上杉重定の長男として米沢にて誕生するが、庶子であったため、誕生したその年に10歳年上の治憲が上杉氏の養子になった。このため、治憲の養弟と『寛政重修諸家譜』では扱われている。
 勝煕は文化4年(1807年)まで生存していたが、天明2年(1782年)に治憲は勝煕ではなく、勝煕の同母弟である勝意(後の治広)を養子とし、勝煕が米沢藩主になることはなかった。しかし、治憲の実子である顕孝と寛之助、治広の子の久千代が早世してともに男系が絶えたのと対照的に、勝煕の子である斉定や勝義が米沢藩主や支藩の米沢新田藩主を継ぎ、以後、この両家は廃藩置県の後に至るまで勝煕の血筋で続くこととなる。


上杉勝周 上杉勝承

 出羽国米沢新田藩の初代藩主。元禄9年(1696年)、米沢藩の第4代藩主・上杉綱憲の4男として誕生した。
 享保4年(1719年)、兄・吉憲から1万石を分与されて米沢新田藩を立藩。米沢新田藩の江戸藩邸(上屋敷)が麻布にあったため「麻布様」と呼ばれた。なお、米沢新田藩の江戸藩邸は宗家米沢藩の中屋敷の一部を与えられたものである。また、藩主は支侯とも呼ばれた。享保7年(1722年)に兄が死去して幼年の宗憲が家督を継ぐと、その後見役を務めた。享保8年(1723年)に鍛冶橋門番や駿府加番を勤める。延享4年(1747年)7月2日、死去。 

 延享4年(1747年)、父の死去により13歳で家督を継いだ。幕府においては駿府加番を務め、藩政においては財政窮乏のために厳しい倹約令を出すと共に、産業の振興に努めた。宝暦6年(1756年)に米沢に初入国する。本藩の藩主・上杉重定は奢侈に耽り、政治に無関心で、近臣の森利真が権勢を振るって藩政が混乱し、宝暦12年(1762年)・同13年(1763年)に米沢藩の政治混乱を幕府に訴える箱訴まで行われ、幕閣の話題に上るまでにいたった。このために勝承は、宝暦13年12月に尾張藩家老に、重定の義兄弟である藩主・徳川宗睦に翌年の参府中、重定の引退勧告を働きかけるように頼んでいる。
 明和4年(1767年)に重定が隠居し、養嗣子の治憲(鷹山)が家督相続すると、治憲や米沢藩江戸家老の色部照長とともに、白子神社に大倹実行の誓詞を奉納する。天明5年(1785年)6月10日に死去した。享年51。弟は生存していたが、既に旗本・金田家を相続していたこともあり、跡を養嗣子の勝定(重定の3男)が継いだ。

山浦景国 山浦高国

 天文22年(1553年)、父と供に武田信玄に追われて上杉謙信(当時は長尾景虎)を頼ってその猶子となり、謙信の養女を娶る。女系ではあるが上杉重房の血をひいていたので、後に上杉氏の一門である山浦上杉家(当時断絶していた)を継いで山浦国清と名乗る。初め、客将として謙信に仕え、川中島の戦いや越中の戦いなど、謙信に従って各地を転戦。謙信死後は上杉景勝に仕えて御館の乱の功績により、景勝から一字を与えられて山浦景国と名乗ることを許された。
 天正10年(1582年)には、海津城主となり父の旧領を回復する。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めでは上杉軍の先鋒を務めて活躍する。
 慶長3年(1598年)、景勝の会津移封に従って塩之森城代となり、慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いにも参陣したといわれているが、以後の消息は不明である。勇猛な武将であったと言われている。山浦家は後に、景勝側室の実家四辻家出身の山浦光則が家名を継いだ。 

 元亀2年(1571年)、会田清幸の子として生まれる。母は村上義清の長女。20歳の頃、上杉景勝の家臣となっていた村上国清の息子・織部の陣代となる。上杉家の会津移封にも従ったが、のちに村上家を出て大坂に移り、大坂の陣が起こると大坂城に入る。
 陣後は丹波保津村に隠遁し、山伏となって本覚と号した。その後、信濃に移って村上家の旧臣に養われていたが、水戸徳川家に招かれ500石で家臣となる。のちに息子の村上高清に家督を譲ると、再び保津村に戻り、万治2年(1659年)3月17日に死亡した。
 高国の子孫は丹波で栄えたと伝わる。 

山浦光則

 猪熊季光(上杉定勝生母で上杉景勝側室・四辻氏の兄弟)の次子として生まれる。キリシタンであった光則は寛永11年(1635年)、迫害を避けて妻子と共に京都から逃れ、従兄の定勝を頼って米沢へ身を寄せた。これは父方の血縁と同時に、米沢藩におけるキリシタン弾圧が、景勝時代から他藩と比べて軽いものだったことが起因であると言われる。
 光則は定勝の計らいにより山浦景国の跡を受け、上杉家一門の山浦上杉家を継ぎ、身柄を安堵された。しかし、定勝の死後、幕府の厳命を受けた上杉綱勝によって、承応2年(1653年)12月に伯母・四辻氏が葬られている米沢極楽寺境内で斬首された。遺体は四辻氏の墓の隣に葬られたといわれる。
 光則の妻子は免罪され、息子2人は僧侶(長男はのちに法音寺住職)となり、娘3人(長女は夭折)のうち次女は綱勝生母・生善院(近衛家家司・斉藤本盛娘)の侍女を経て上杉家臣林家に、三女は米沢長命寺住職にそれぞれ嫁いだ。
 現在、四辻氏の墓とされている上杉家側室の墓の側に光則の供養塔が建立されている。