<藤原氏>北家 高藤流

F458:上杉輝虎  藤原高藤 ― 藤原定方 ― 藤原説孝 ― 藤原盛実 ― 上椙盛憲 ― 上杉憲顕 ― 上杉輝虎 ― 上杉治憲 F459:上杉治憲


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上杉治憲 上杉治広

 寛延4年7月20日(1751年9月9日)、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。実母が早くに亡くなったことから一時、祖母の瑞耀院(豊姫)の手元に引き取られ養育された。
 宝暦9年(1759年)、この時点で未だに嫡男の無かった重定に、我が孫ながらなかなかに賢いと、幸姫の婿養子として縁組を勧めたのが瑞耀院である。
 宝暦10年(1760年)、米沢藩主・上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り、直松に改名する。宝暦13年(1763年)より尾張出身の折衷学者・細井平洲を学問の師と仰ぎ、17歳で元服し、直丸勝興と称す。また、世子附役は香坂帯刀と蓼沼平太が勤める。江戸幕府第10代将軍・徳川家治の偏諱を賜り、治憲と改名する。明和4年(1767年)に家督を継ぐ。
 上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150~200億円)に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら初代藩主・景勝の意向に縛られ、会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった。そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。深刻な財政難は江戸の町人にも知られており、「新品の金物の金気を抜くにはどうすればいい? 「上杉」と書いた紙を金物に貼れば良い。さすれば金気は上杉と書いた紙が勝手に吸い取ってくれる」 といった洒落巷談が流行るほどである。加えて農村の疲弊や、宝暦3年(1753年)の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃した。名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。
 新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立した。また、それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った。ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果、1769年(明和6年)に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れた。天明年間には天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。また、4代藩主・綱憲が創設し、後に閉鎖されていた学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲,神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。
 安永2年6月27日(1773年8月15日)、改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴し七家騒動が勃発したが、これを退けた。これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。天明5年(1785年)に家督を前藩主・重定の実子(治憲が養子となった後に生まれた)で治憲が養子としていた治広に譲って隠居するが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移る。享和2年(1802年)、剃髪し鷹山と号する。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山からとったと言われる。
 文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去した。享年72(満70歳没)。墓所は米沢市御廟の上杉家廟所。初め、上杉神社に藩祖・謙信と共に祭神として祀られたが、明治35年(1902年)に設けられた摂社松岬神社に遷され、現在に至る。

 明和元年7月11日(1764年8月8日)に米沢に生まれる。幼少期は治憲の側近の一人の木村丈八高広が教育掛をした。天明2年(1782年)に同母兄の勝煕を差し置いて治憲の養嗣子となる。天明5年(1785年)、養父の隠居により家督を継いだ。この時、治憲が若年の治広に家督を譲ったのは、改革の抵抗勢力による反発や疲労、幕府普請の回避、徳川光圀が兄・頼重の子である綱條を後継にした例に倣って、先代重定存命中の先代実子への継承希望などがあったものと言われている。家督相続の際、治憲は治広に対して、藩は先祖から子孫へ伝えられるもの、領民は藩に属しているもの、藩・領民あっての藩主であるとの訓戒(伝国の辞)を送っている。
 家督を継いだ治広は実父・重定とともに、隠居した治憲に自身の藩政後見を要望した。このため政務については治広を前面に立てたとはいえ、実質的には治広の治績は治憲の後見によるところが大きく、治広が独自の政策を口出す機会は無かったと言われている。
 天明年間は志賀祐親が財政再建を主導するも失敗し、寛政以降は莅戸善政・政以親子が中心となって財政再建及び改革が進行し、養父の改革は治広治世中にその成果があらわれ、寛政3年(1791年)に領内の人口が9万9119人だったのが、寛政10年(1798年)には10万3721人となる。享和元年(1801年)に町在に五什組合を組織させ、相互扶助の体制を整えた。また、治世中に藩事業としては初めての用水路工事である北条郷新堰工事が黒井忠寄より行われ、黒井の発案した飯豊山穴堰工事も着手された。
 治憲の養子となった年にその長男・顕孝を世子としたが、顕孝が早逝したため、甥(勝煕の長男)の斉定を世子として隠居した。文政5年3月11日(1822年4月2日)に鷹山が死去すると、半年後の9月11日(10月25日)にその後を追うように死去した。享年59。 

上杉顕季 上杉斉定

 安永5年(1776年)、米沢城で生まれる。天明2年10月7日(1782年11月11日)に父の養嗣子である治広の養子に定められ、諱を「顕孝」とされる。天明3年(1783年)3月には土佐藩主・山内豊雍の娘・采姫(米とも)と婚約する。天明5年(1785年)に実父が隠居し、米沢藩主嗣子となり、若殿様と称される。同年9月22日に米沢城の三の丸に実父の隠居所である餐霞館が完成すると、実父,実母とともに移る。後に江戸に移る。また、実父同様に細井平洲が師範となる。莅戸善政の子・莅戸政以が寛政元年(1789年)に顕孝の用人、寛政2年(1790年)からは傳役を務める。また、服部正相が学問相手となる。しかし、家督相続前の寛政6年(1794年)、疱瘡にかかって江戸藩邸にて19歳で死去した。
 鷹山が世子・顕孝に藩主としての心構えを「為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは、人の為さぬなりけり」の一言で示した。実子を失った鷹山は悲しむことはかりしれず、顕孝の遺骸が米沢城に着いたとき、「十年余り見しその夢はさめにけり軒端に伝う松風の声」と一首の悲しみの歌を捧げた。 

 実父・勝煕は第8代藩主・重定の長男で、寛政6年(1794年)、治広の養嗣子・顕孝の死去を受け、代わって養嗣子として指名される。義理の祖父である第9代藩主・治憲(鷹山)の隠居所である米沢城三の丸の餐霞館に引き取られて治憲に養育され、起床をともにした。治憲は養孫の世話と教育を特に気にかけ、夜間の小用の世話も自ら行ったといい、また郊外の農村を共に歩いて教え諭した。
 享和2年(1802年)に喜平治と改名する。文化3年(1806年)には斉定の世子教育のため、治憲により江戸幕府儒官の古賀精里(弥助)が招かれる。元服した翌年の文化6年(1809年)4月、治広の娘と結婚し、文化7年(1810年)5月には江戸より帰国し再び治憲と起床して藩主教育を受け、文化9年(1812年)9月7日の治広の隠居により家督を継いだ。
 この頃の米沢藩では名君・上杉治憲(鷹山)の治世により藩政と藩財政が再建されていたが、鷹山の死の翌年の文政5年(1823年)蔵元への借財は全て償還され、斉定は藩政基盤を確立させた。また、大石綱豊を執政として藩政を担わせ、先代からの懸案である飯豊山灌漑穴堰も文政元年(1818年)に完成させた。天保の飢饉が起こったときには、天明の飢饉の鷹山の施策を範に、藩主自ら粥を食し、さらに百姓に対しても米を支給するなどして、一人の餓死者も出さなかったという手腕を見せた。天保2年(1831年)には藩士からの借り上げを中止して、50石以下の下級武士に手当金を与えた。天保10年(1839年)2月2日に死去。享年52。跡を長男の斉憲が継いだ。 

上杉斉憲 上杉茂憲

 文政3年(1820年)5月10日、出羽米沢藩主・上杉斉定の長男として生まれる。天保7年(1836年)10月23日、従四位下侍従兼式部大輔に叙任。天保10年(1839年)4月3日、家督を継ぐ。同年同月11日、弾正大弼に転任。侍従如元。安政3年(1856年)に海外防備による出費のために藩士の知行借り上げを復活。同年12月16日、左近衛権少将を兼任。侍従を去る。
 安政6年(1859年)には種痘を藩内に推奨した。文久3年(1863年)には徳川家茂の京都上洛に御供して二条城警護にあたり、9月22日、左近衛権中将に転任。弾正大弼如元。元治元年(1864年)5月1日、従四位上に昇叙。左近衛権中将兼弾正大弼如元。藩政改革に努め、軍隊の洋式訓練方法を取り入れるなど、藩政に大きな成功を収め、慶応2年(1866年)にはこの功績を賞され3万石の加増を受けている。上杉家の領地が増やされるのは実に2世紀半ぶりのことで、豊臣政権時代に越後から会津に加増転封になって以来のことである。この一事が非常な喜びとなったか、かつての名君・上杉治憲(鷹山)に次ぐ名君とまで呼ばれた。開明的な人物で、開国にも積極的だったという。 慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起きて会津藩と共に米沢藩も討伐の対象とされたが、当初は斉憲は新政府の意向に従って恭順を考えていた。しかし、その嘆願を望んで送った書状を新政府に握りつぶされたため、これに怒って仙台藩と共に奥羽越列藩同盟の盟主となり、新政府軍と戦った。米沢軍は一時は新政府軍を圧倒し、新潟港を奪い返すまでに至ったが、慶応4年(1868年)5月に新発田藩の寝返りもあって新政府軍の猛攻を受け敗走する。
 その後、旗色が悪くなったため、やむなく新政府軍に降伏した。そして、それまで味方であった会津と庄内に兵を送ったため、「裏切り者」と称された。明治維新後、奥羽越列藩同盟の盟主であったことを咎められて、領地を14万石に削減されてしまった。また、明治元年12月7日、家督を長男・茂憲に譲り隠居した。慶応4年8月3日、解官。明治2年(1869年)9月28日、従五位に叙位。明治22年(1889年)5月20日、死去。享年70(満68歳没)。 

 斉憲の庶子であったが、生まれてまもなく嗣子として指名された。傳役は樋口伊織や松本彦左衛門が勤める。1860年(万延元年)10月に従四位下侍従に叙任。
 1868年(慶応4年/明治元年)、戊辰戦争が始まると、父と共に奥羽越列藩同盟に与して新政府軍と戦ったが、敗れて降伏した。このとき、父が処罰として藩主の地位を退くことを余儀なくされたため、同年12月18日に家督を継いだ。しかし藩の実権は父が掌握しており、茂憲には活躍の場がほとんど無かった。江戸や京都から長文の報告書を送り、これに斉憲が朱筆の書き込みを入れて返している。このような形で父から政治教育を受けた。
 1869年(明治2年)、版籍奉還により米沢藩知事となる。旧藩士らに旧藩の囲金や上杉家の備金などから十万両余を分与。1871年(明治4年)の廃藩置県により東京に移住した。その後、イギリスに自費で留学し、帰国後の1881年(明治14年)5月には沖縄県令となる。沖縄県令への赴任に当たって書記官として補佐したのは旧臣の池田成章(池田成彬の父)で、在任中の施策には成章の具申の影響も大きい。県の現況を把握するため、当時の交通事情の中ほぼ全島を視察し、直に住民から実状を聞きとっている。視察時の記録をまとめた『上杉県令巡回日誌』は、当時の沖縄全県の世情・風俗を知る上での重要な史料である。産業発展には人材育成が要として、1882年に謝花昇,太田朝敷ら5人の第1回県費留学生を東京に留学させた。各学校への私費での奨学金や文具の寄付も数多い。沖縄県は旧王族,士族層の不満を抑える目的で琉球時代からの旧慣温存が政府方針となっていた(清国との琉球帰属問題が完全に解決するのは日清戦争後である)。本島視察で、士族である地方役人の怠慢と恣意的な税徴収で私服を肥やす姿を目の当たりにし、これを打破するため上京し上申書を提出した。その熱意が政府高官の一部を動かし、尾崎三良が政府視察官として派遣される。しかし、尾崎三良の政府への報告は「上杉県令が民心を惑わしている」というものだったため、在職2年で県令を解任される。しかし、池田成章の回想録『過越方の記』では、県令としての態度は精励そのもので、地方視察には熱心に質問を続け、直接住民の家を訪ねて聞き取りを行い、休日も休まず那覇裁判所の法律刑法勉強会に参加した、という。離任時には1500円の私財を奨学資金として県に提供した。また、沖縄で生まれた娘を琉と名づけている。
 茂憲は、明治の政治家に求められた個人的な実務能力の持ち主ではなく、その徳と見識で、部下が全力を発揮できる環境を整える、江戸時代的名君であったといえる。
 1883年(明治16年)には元老院議官、翌年には伯爵となった。1896年(明治29年)には米沢に移住し、米沢の養蚕製糸織物の改良に尽力した。米沢や沖縄での投資、奨学金には私財を惜しまなかったが、家計は潤沢とはいえなかった。宮中での参賀や観桜会には夫人を伴うのが礼儀であったが、婦人用大礼服は大変に高額であり会費・交際費も大きく、費用を捻出することができずに招待を断り続けていた。多年の欠礼でついに決意して、1902年(明治35年)の新年参内にあわせ夫人礼装をしつらえた。日本橋白木屋洋服店の領収書には1028円81銭とあり、同家服飾費の2年半分である。兼夫人は終生これ一着で済ましている。
 1919年(大正8年)4月18日に死去。享年76。墓所は東京都港区白金の興禅寺。歴代の米沢藩主は米沢市の上杉家廟所(国の史跡)に祀られていたが、明治以降に死去した斉憲からは東京に墓所がある。しかし茂憲のみは沖縄県民有志により、歴代藩主廟に並んで記念碑が建立されている。
 宇宙工学者の上杉邦憲は茂憲の曾孫、元代議士の亀井久興(元国民新党幹事長)も曾孫(茂憲の5女・亀井久の孫)である。