MT26:松平親清 | 松平親氏 ― 松平乗元 ― 松平親清 ― 松平近陳 | MT27:松平近陳 | ● |
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>松平近貞 | 松平近形 |
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三河国田原藩2代藩主・三宅康雄の三男として誕生した。正徳2年(1712年)正月、先代藩主で母方のおじにあたる松平近禎の婿養子となり、享保10年(1725年)の近禎の死去により跡を継いだ。享保の大飢饉や享保17年(1732年)の虫害による大被害で藩財政は一気に悪化し、幕府から3000両の金を借用して何とかする有様であった。寛保3年(1743年)4月にも城下で大火が起こり、幕府から2000両借用するなどして藩財政は破綻した。このため、租税政策を重点において定免制度の制定や厳しい倹約令の制定、さらに商人から御用金をせしめて藩財政を再建しようとしたが、やがて失意のうちに延享2年(1745年)9月18日、家督を長男・近形に譲って隠居した。 |
はじめ家臣の津久井氏に養われて津久井桃之助と名乗った。享保13年(1728年)に実家に戻る。延享2年(1745年)9月18日、父の隠居により家督を継いだ。父の時代に破綻した藩財政を再建するため、倹約令を主とした法令を制定し、産業振興を奨励し、藩札の発行などを行なった。しかし幕府と道路問題から諍いを起こして逼塞を命じられたうえ、明和2年(1765年)には大洪水、明和6年(1769年)7月には大地震が起こって藩が大被害を受けるなど、藩政改革は失敗に終わった。 |
松平近儔 |
松平近訓 |
明和7年(1770年)7月21日、父が病気を理由に隠居したため、家督を継いで第6代藩主となった。天明6年(1786年)から天明7年(1787年)、享和元年(1801年)の虫害による大凶作をはじめ、災害や大火が相次いで藩財政は逼迫した。その一方で文武を奨励し、府内藩の文武の発展に尽力している。
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文化4年(1807年)に叔父で第7代藩主の松平近義が死去したため、その養子として家督を継ぎ、第8代藩主となる。藩政においては隠居していた父・近儔と共同して行うが、文化8年(1811年)の百姓一揆、文政元年(1818年)の銀札崩れなどで藩政は多難を極めた。このため、藩財政再建を目指して藩政改革を行おうとしたが、その方針をめぐって父と対立し、天保2年(1831年)2月24日に父の命令で養子の松平近信に家督を譲って隠居することとなった。 |
松平近説 |
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14歳で急遽藩主となったため、当初は8代藩主の近訓(隠居して閑山と称す)が後見役となった。その7年後から政務を司るようになり、藩校遊焉館や医学館(稽全館)を設置するなど、とくに学問の奨励に尽力した。 |