<藤原氏>南家

F007:藤原為憲  藤原武智麻呂 ― 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 蒔田維昌 F057:蒔田維昌


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蒔田広光 蒔田政勝

 はじめ織田信長、次いで豊臣秀吉に仕えた。所領は1万石であったが、後に4万石に加増されている。
 天正16年(1588年)、後陽成天皇の聚楽第行幸で功を挙げている。文禄4年(1595年)2月24日、63歳で死去し、跡を子の広定が継いだ。法号は宗古。

 主に蒔田主水正の名で知られる。諱は初めは広政で、正次ともいった。豊臣秀吉に仕えて金切裂指物使番となった。
 天正16年(1588年)4月14日の後陽成天皇の聚楽第行幸のときに供奉。関白・秀吉の牛車の左右の随身のうち、毛利民部大輔,野村肥後守,木下左京亮が左側3名、政勝,中嶋左兵衛尉,速水甲斐守が右側3名であった。
 慶長3年(1598年)8月、病床の秀吉から志津の刀,初音の加羅香,(後陽成天皇の)鏡を授けられた。慶長4年(1599年)頃、摂津・河内・和泉内で4万石を知行。慶長5年(1600年)の関ヶ原の役で西軍に与して減知。以後は大坂城の豊臣秀頼に伺候した。

蒔田広定 蒔田定正

 尾張国中島郡下津の住人・蒔田広光の次男として織津で生まれた。豊臣秀吉に仕えてその小姓頭の1人となった。
 天正18年(1590年)7月、北条氏政・氏照兄弟が小田原城を出て自害した時、広定は秀吉の小姓の身であったが、石川貞清,榊原康政らと共に検使役を務めた。同19年(1591年)8月9日、鼻紙料の名目で河内国大県郡大平寺村で104石の知行を与えられた。
 文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵では、秀吉の旗本の後備衆の1つとして200人を出して、肥前名護屋城に駐屯し、東二の丸を守備した。
 文禄3年(1594年)、伏見城普請に参加。翌年に父の広光が死去したため家督を継いで、河内・伊勢・備中にあった所領の1万16石を領した。本拠は雲出(現三重県津市雲出)。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に与して伊勢口や大坂本町筋橋の警固をした後、占領された伊勢安濃津城に駐屯した。関ヶ原本戦で西軍が敗北すると、高野山に逃れて蟄居し、所領は没収されて改易となった。しかし岳父の大島光義や、浅野長政・幸長親子の尽力もあって、罪を許されて所領安堵されることになり、備中賀陽郡・窪屋郡・浅口郡,河内大県郡,山城久世郡,摂津豊島郡・八部郡の七郡の内に1万石を与えられて、備中浅尾1万石に転封されて浅尾藩を立藩した。
 慶長7年(1602年)、剣術の師・柳生宗厳から印可状を与えられた。慶長19年(1614年),20年(1615年)の大坂の陣に従軍。閏6月に徳川秀忠の凱旋に供奉して江戸に向かう。元和2年(1616年)頃、秀忠の御伽衆となった。元和9年(1623年),寛永3年(1626年)の秀忠・家光の上洛に供奉した。
 寛永13年(1636年)に死去したが、享年62あるいは66という。

 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では父と共に参戦する。後に相模国内で500石、さらに甲斐国内などで800石を与えられ、寛永11年(1634年)5月には御使番、同年8月には大坂目付となった。
 寛永13年(1636年)、父の死去により家督を継ぐが、このときに父の遺言で3000石を弟の長広(三須田蒔田家)に分与したため、定正は8316石の旗本となった。
 その後、駿府目付や池田光仲の目付などを務める。寛永17年(1640年)12月29日、因幡国から帰国中の近江国草津にて死去した。享年50。

蒔田定行 蒔田定則

 寛永18年(1640年)11月22日、父の死後、遺領のうち7016石を相続し、弟・定則に1300石を分与した。
 正保元年(1644年)4月24日、甲府城番となる。正保3年(1646年)10月、台徳院霊廟の普請を命ぜられ、慶安元年(1648年)10月には江戸城西の丸の普請を命ぜられる。承応元年(1652年)、旗本・斉藤利意と共に下総国下館城在番となる。寛文2年(1662年)2月8日、定火消に任命され、駿河台土手に火消屋敷を与えられた。12月27日には布衣を許される。延宝3年(1675年)3月10日、持弓頭に転向。延宝5年(1677年)4月14日、百人組頭となる。天和2年(1682年)4月21日、上野国勢多,新田,山田郡内に700石の加増を受け7716余石となる。
 元禄2年(1689年)12月29日に職を辞した。翌元禄3年(1690年)に死去、享年71。家督は婿養子・定矩が継いだ。 

 寛永18年(1641年)11月22日、父の遺領から相模国大住郡・甲斐国山梨郡の1300石を分与される。正保4年(1647年)12月25日に小姓組に列し、万治元年(1658年)閏12月19日に進物番となる。寛文2年(1662年)2月15日、水野重勝と共に仙台へ赴いて目付代を務める。寛文3年(1663年)11月25日、使番に転じる。寛文6年(1666年)9月7日、徳島藩を継いだ蜂須賀綱通が幼年のため阿波国に赴いて国政を監視し、寛文9年(1669年)3月28日には関宿城の引き渡し役となり、久世広之に城を引き渡した。寛文11年(1671年)5月6日に仰せにより武蔵国・相模国・上野国・下野国を巡見し、天和元年(1681年)7月12日に越後国高田城に赴いて目付代を務めた。
 天和2年(1682年)4月21日、上野国邑楽郡・山田郡・下野国梁田郡で500石を与えられ、合計1800石を領する。貞享元年(1684年)8月21日、職を辞して寄合に列する。元禄6年(1693年)11月20日死去。

蒔田広孝

 嘉永2年(1849年)、旗本・蒔田広袢(御書院番)の嫡男として生まれる。安政4年(1857年)5月22日、寄合旗本・蒔田広運(7700石)の養子となり、安政5年(1858年)8月に家督を相続する。文久3年(1863年)9月23日、将軍・徳川家茂に拝謁する。同年11月24日、江戸市中警護の功による禄高直しによって1万石の諸侯に列した。菊の間詰めの定府大名となった。元治元年(1864年)1月17日、従五位下・相模守に叙任する。
 元治元年4月26日、京都見廻役に就任する。見廻組200人の兵を率い、京都の警備を担うことになり、禁門の変で活躍する。慶応元年(1865年)5月、幕府に対し長州征伐への従軍を願うものの、認められなかった。慶応2年(1866年)4月12日、第二奇兵隊を脱走した立石孫一郎ら長州浪士100余名により、浅尾陣屋は倉敷代官所と共に襲撃され灰燼に帰した(倉敷浅尾騒動)。そのため、同年4月14日、幕府から一時的に帰藩する許可を得る。慶応3年6月6日、京都見廻役を退任する。慶応4年(1868年)2月13日、上洛し、恭順の姿勢を示す。備中国内の旧幕領の管理を命じられる。戊辰戦争では新政府に与して岡山藩と行動を共にしている。
 明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還で知藩事となる。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官となって東京へ移った。明治14年、秋田県御用掛となる。同年、秋田県由利郡長に就任する。明治17年(1884年)に子爵に叙される。明治30年(1897年)、第3代浅尾村長、明治41年(1908年)5月には初代総社町長となる。大正7年(1918年)に死去、享年70。