| MT22:松平乗元 | 松平親氏 ― 松平乗元 ― 松平親清 | MT26:松平親清 | 

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| 松平親清 | 松平近正 | 
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|  元亀2年(1571年)4月に武田信玄が三河国に進攻し、足助城,浅谷城,大沼城などが陥落した(信玄の進攻は天正2(1574年)とする説もある)。このとき、親清の所領であった大代も攻め取られた。小勢であったために抗戦は難しく、親清は浜松城に逃れた。 | 天正11年(1583年)、父親清の没後、大沼城主となり、大給松平氏宗家に家老として仕えた。石川数正が豊臣秀吉のところへ出奔する前に誘われたが拒絶したという。天正18年(1590年)、徳川家康の関東入りの時、上野国群馬郡三蔵5500石を賜り、宗家より独立。慶長5年(1600年)、伏見城留守居となり、伏見城の戦いで、三の丸を松平家忠とともに守るが、ついに守将・鳥居元忠らとともに討死した。この功により、嫡男・一生は、加増され1万石を与えられ諸侯に列した。 | 
| 松平忠昭 | |
|  丹波亀山藩の第2代藩主,豊後亀川藩主,豊後中都留藩主,豊後高松藩主,豊後府内藩初代藩主。一生系大給松平家3代。 |