元亀2年(1571年)4月に武田信玄が三河国に進攻し、足助城,浅谷城,大沼城などが陥落した(信玄の進攻は天正2(1574年)とする説もある)。このとき、親清の所領であった大代も攻め取られた。小勢であったために抗戦は難しく、親清は浜松城に逃れた。 大沼城跡や洞樹院の現地掲示板によれば、親清(松平飛騨守近清の名でも伝わる)は天正3年(1575年)に徳川方が奪回した大沼城の城主となった。親清は、初代大沼城主木村安信が創建した天台宗の神宮寺を浄土宗洞樹院に改め、菩提寺とした。 『寛政譜』によれば40歳(あるいは42歳)で死去。大沼城跡や洞樹院の現地掲示板によれば、親清は天正11年(1583年)に没し、洞樹院に葬られた。同寺には木村安信,信元父子の墓もある。 『寛政譜』では、子として松平近正のみを挙げる。近正は幼少の宗家当主松平家乗の家老を務め、陣代として大給松平家の軍勢を率いた。家康の関東入部時に上野国三ノ倉に3000石を与えられ、宗家から独立した領主となるが、慶長5年(1600年)に伏見城の戦いで戦死。近正の子の松平一生が大名に列した。子孫は17世紀半ば以降、幕末まで豊後国府内藩を治めた。 このほか、松平清成を親清の子とする説があるが、『寛政譜』では清成を親清の弟として位置づけている。
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天正11年(1583年)、父親清の没後、大沼城主となり、大給松平氏宗家に家老として仕えた。石川数正が豊臣秀吉のところへ出奔する前に誘われたが拒絶したという。天正18年(1590年)、徳川家康の関東入りの時、上野国群馬郡三蔵5500石を賜り、宗家より独立。慶長5年(1600年)、伏見城留守居となり、伏見城の戦いで、三の丸を松平家忠とともに守るが、ついに守将・鳥居元忠らとともに討死した。この功により、嫡男・一生は、加増され1万石を与えられ諸侯に列した。 |