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牧野忠成(初代) | 牧野忠成 |
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戦国武将から近世大名への過渡期の牧野一族とその家臣団を導き、譜代大名の地位を確立した。その結果、越後長岡藩の立藩を果たして、以後250年に及ぶ長岡藩政の礎を築いた。 |
寛永12年(1635年)、牧野光成の嫡男として誕生。初名は忠盛。越後国長岡藩の第2代藩主。祖父と同名を名乗ったため、長岡ではのちにこの2代藩主を後忠成公とも呼び慣わしている。寛永14年(1637年)に父・光成が早世したため、祖父・忠成の後嗣となる。寛永16年(1639年)10月、江戸城に登り初めて3代将軍家光の御目見得を受けた。 |
牧野忠辰 | 牧野忠寿 |
延宝2年(1674年)、父が死去したため家督を継いだが10歳だったため、大叔父の牧野忠清による補佐を受けた。同年には「諸士法制」十七条およびその付則「覚」11条が発布された。これにより、長岡藩士の次三男の召抱えや末期養子の制限が行われた。 |
元禄8年(1695年)、近江膳所藩主・本多康慶の六男として生まれる。宝永7年(1710年)6月、越後長岡藩主・牧野忠辰の養嗣子となり、阿波守に叙任する。享保6年(1721年)8月25日、忠辰の隠居により家督を継いだ。11月に駿河守に転任する。享保8年(1723年)9月、内桜田門番となり、9月に奏者番となった。また、翌年には幕府領の魚沼郡や古志郡などの越後国の五郡、6万4000石余りを預かる。ちなみに越後質地騒動鎮圧のために幕府は越後国内諸藩に対して越後国内の幕府領36万8000石をそれぞれ預けており、越後長岡藩も同様な理由で預かることとなった。 |
牧野忠周 | 牧野忠敬 |
享保6年(1721年)9月21日、第4代藩主・牧野忠寿の次男として江戸藩邸で生まれる。母は側室の丸山伝兵衛の娘フヂ。忠寿正室に第1子が生まれた直後の出生のためか、はじめ吉川政五郎と称し牧野姓ではなかった。 |
享保14年(1729年)6月、日向延岡藩主・牧野貞通の長男として延岡で生まれる。享保15年(1730年)に江戸幕府への嫡子届け提出により貞通の嗣子となる。 |
牧野忠利 | 牧野忠寛 |
享保19年(1734年)9月27日、日向延岡藩主・牧野貞通の8男として延岡にて生まれる。延享5年6月(1748年)、長岡藩第6代藩主で長兄である牧野忠敬が嗣子なく死去した。当時京都所司代であった実父の貞通とともに京都にいた忠利は、急遽江戸に下向して寛延元年8月(1748年)に長岡藩江戸藩邸に入り、末期養子として長岡藩主家の家督を相続した。なお、長岡藩史料の「御附録」では実年齢は15歳であるが、「内慮あって」公年を17歳と幕府に届けているため、「寛政重修諸家譜」では享保17年(1732年)出生扱いとなっている。ちなみに17歳は末期養子が原則許可される最低年齢である。 |
牧野家家譜を補足する「御附録」によると、牧野忠敬が長岡藩主家養子になった2年後の寛保元年(1741年)8月29日に、牧野忠周と側室・大原氏との長子として出生した。しかし、既に忠敬が嗣子になっていたためか、出生後は牧野氏を称さずに東彦松と称した。寛延3年(1750年)に牧野姓を賜って前年に死去した牧野貞通の猷子になり、新三郎貞通と称し、幕府には常陸笠間藩主・牧野貞通の10男で牧野貞長の弟として届け出された。宝暦5年(1755年)、公式上の兄の第7代藩主・忠利の死去により養子として跡を継いだ。実年齢15歳であったが、末期養子の禁の関係もあってか、幕府に公年を20歳と届けている。このために「寛政重修諸家譜」および「続藩翰譜」,牧野家公式記録「御家譜」では牧野貞通の子として記されている。この系図改竄は、すでに嫡子扱いになっていた忠周養子の牧野忠敬を押しのけて、幕府に嫡子届けが出ていない忠寛を嫡子に出来ないので、後年に越後長岡藩に迎えるための処置とされている。 |
牧野忠精 | 牧野忠雅 |
寛政の遺老の一人。明和3年(1766年)、父の死去により6歳で家督を相続する。高野余慶に学問を学び、家老・山本精義が補佐する。治世当初、新潟明和騒動が起こる。明和6年(1769年)に長岡城内にあった牧野忠辰を祭神する蒼柴神社の移転工事を決定して城東の山林の開拓を行い、天明元年(1781年)に完成し、社地の三官山を悠久山と改名する。 |
寛政11年(1799年)に江戸藩邸にて生まれた。4男であるが、父の息子で正室出生は長兄の忠鎮と忠雅、夭折した一女のみである。文化5年(1808年)、忠鎮が死去すると、庶出の兄・石川総親は既に下館藩主石川家を相続し、同じく庶出の兄の銀三郎も既に死去していたため、嗣子となる。
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牧野忠恭 | 牧野忠清 |
文政7年(1824年)9月1日、三河西尾藩主・松平乗寛の3男として江戸に生まれる。越後長岡藩の第10代藩主・牧野忠雅の養子となる。ちなみに次兄の牧野忠衛も三根山領主となっている。武鑑では嗣子時代の附役に小林親真(又兵衛、小林虎三郎の父)が一時期なっていたことが分かる。安政5年(1858年)10月25日、養父・忠雅の死去により、家督を継いで第11代藩主となる。 |
初め父・忠成の意向で家老・稲垣平助則茂の養嗣子となるが、牧野家に復し徳川家綱の小姓となり、慶安3年(1650年)には西城書院番士となり、蔵米300俵を給され、のちに本城書院番士となる。明暦2年(1656年)2月5日、書院番頭に昇進する。同年12月、300俵加増され、布衣を着ることを許される。万治元年閏12月18日(1659年)、兄/定成の後嗣となり遺跡を相続。それまでの600俵は収公される。万治3年(1660年)、兄の定成の菩提を弔うために小さな庵の本堂を再建し、その寺号を一山寺とした。寛文5年(1665年)、職を辞す。延宝2年(1674年〉、越後長岡藩の幼君・牧野忠辰の補佐をした。延宝6年〔1678年)、日光山門主と京に赴く。天和2年(1682年)5月29日、致仕し幽閑と号する。忠貴が跡を継いだ。葬地は芝西応寺町(東京都港区芝2丁目)の西応寺。 |
牧野忠泰 | |
五島盛保の長男。天保6年(1835年)生まれとも。安政元年(1854年)に越後三根山を領していた大身旗本・牧野忠興の養子となる。安政4年(1857年)2月、忠泰の襲封とともに義父の宗家長岡藩主牧野忠恭の願いにより、それまで6000石の家格寄合の旗本であったが、新田分5000石を加えて1万1000石に高直しされて大名となり、従五位下・伊勢守に叙任される。 |