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| 久世広長 | 久世広宣 |
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| 三河国額田郡の豪族・小野十郎高広の子とされ、母が足利将軍家の臣・久世十郎藤原永次の娘だったことから久世を称した。また、高広の子は高長で、母方の姓・久世を称したともいう。広長と高長の関係ははっきりしない(同一人物とも)。徳川家康の祖父・松平清康と父の広忠2代に仕えて戦功を挙げている。天文15(1546)年10月8日死去。通称は平大夫。 | 室は今川家家臣の奥原経重の娘。三河国額田郡に住していた小野十郎高広の子・高長が母方の姓を称し久世家の祖となり、孫にあたる広宣が大須賀康高率いる「横須賀衆」として、渥美勝吉,坂部広勝らとともに武田勢との戦いに武勇を誇った。のちに徳川家康の直参となり、下総・上総国2500石の旗本に取り立てられた。大坂の役に従軍した。 |
| 久世広当 | 久世広之 |
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父の跡を継いだ広当は、寛永3年(1626年)に下総国海上郡内500石を弟・広之に分与し、新田開墾により7000石余の旗本となった。 |
下総国関宿藩主。関宿藩久世家初代。元和8年(1622年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の小姓となり、寛永元年(1624年)に3代将軍・徳川家光の小姓となる。寛永3年(1626年)、父の遺領を継いだ兄・広当から下総国海上郡内500石を分与されて分家。寛永12年(1635年)に徒頭、同13年(1636年)に従五位下に叙位され大和守を名乗る。寛永15年(1638年)に小姓組番頭に任じられ、寛永18年(1641年)に4500石加増で都合5000石。正保3年(1646年)には家光に拝謁するため長崎出島から江戸に赴いたオランダ商館館長レイニール・ファン・ツムと会見している。慶安元年(1648年)に5000石加増で都合1万石となり大名に列す。 |
| 久世重之 | 久世広文 |
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下総国関宿藩主。関宿藩久世家2代。重之一代のときに関宿藩(千葉県野田市関宿三軒家)から備中国庭瀬(岡山県岡山市北区庭瀬)ついで丹波国亀山(京都府亀岡市)さらに三河国吉田(愛知県豊橋市)へとめまぐるしく転封を続け、宝永2年(1705年)再び関宿に復帰する。 |
嘉永6年(1853年)、第7代藩主・久世広周の長男として生まれる。文久元年(1861年)3月16日、老中・安藤信正と関係を深めるため、信正の娘との婚約を願ったものの幕府の許可が得られず、明治2年(1869年)10月23日に至って婚約を解消している。文久2年(1862年)8月16日、広周は幕政の失敗を理由に強制隠居処分によって家督を相続するが、5万8000石に減封された。さらに広周が11月20日に永蟄居処分に下されるや、さらに減封されて4万8000石となった。 |
| 久世広民 | |
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浦賀奉行を経て、安永4年(1775年)12月3日に第65代長崎奉行となる。安永7年(1778年)、中国人に花辺銀,人頭銭貿易を許可するなど貿易の拡大をはかった。また、広民はオランダ商館長チチングが感心するほどの開明的な人物で、長崎で入手した海外情報を懇意にしていた田沼意次にもたらせた。また、オランダ人の待遇改善などを進めた。 |