村上源氏

G816:久我通光  源 師房 ― 源 顕房 ― 源 雅実 ― 久我通光 ― 久世左大夫 G822:久世左大夫



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久世広長 久世広宣
 三河国額田郡の豪族・小野十郎高広の子とされ、母が足利将軍家の臣・久世十郎藤原永次の娘だったことから久世を称した。また、高広の子は高長で、母方の姓・久世を称したともいう。広長と高長の関係ははっきりしない(同一人物とも)。徳川家康の祖父・松平清康と父の広忠2代に仕えて戦功を挙げている。天文15(1546)年10月8日死去。通称は平大夫。  室は今川家家臣の奥原経重の娘。三河国額田郡に住していた小野十郎高広の子・高長が母方の姓を称し久世家の祖となり、孫にあたる広宣が大須賀康高率いる「横須賀衆」として、渥美勝吉,坂部広勝らとともに武田勢との戦いに武勇を誇った。のちに徳川家康の直参となり、下総・上総国2500石の旗本に取り立てられた。大坂の役に従軍した。 
久世広当 久世広之

 父の跡を継いだ広当は、寛永3年(1626年)に下総国海上郡内500石を弟・広之に分与し、新田開墾により7000石余の旗本となった。
 寛永7年(1630年)7月21日、備前国岡山藩家臣・河合又五郎が渡辺源太夫を殺害し、逃亡をはかる事件が発生。旗本の安藤次右衛門正珍邸に逃れた。引渡しを巡り、広当と安部四郎五郎が仲介役となるが、同じ旗本の誼から、安藤に加担して、外様大名と旗本との確執に発展してしまう。幕府の裁定により、広当,安藤,安部は、百日間の寛永寺へ寺入りを命ぜられた。
 寛永12年(1635年)より万治3年(1660年)没するまで、鉄砲組頭となる。その間は、13000坪の間口が狭く奥行きの長い広大な抱屋敷を与えられていた。

 下総国関宿藩主。関宿藩久世家初代。元和8年(1622年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の小姓となり、寛永元年(1624年)に3代将軍・徳川家光の小姓となる。寛永3年(1626年)、父の遺領を継いだ兄・広当から下総国海上郡内500石を分与されて分家。寛永12年(1635年)に徒頭、同13年(1636年)に従五位下に叙位され大和守を名乗る。寛永15年(1638年)に小姓組番頭に任じられ、寛永18年(1641年)に4500石加増で都合5000石。正保3年(1646年)には家光に拝謁するため長崎出島から江戸に赴いたオランダ商館館長レイニール・ファン・ツムと会見している。慶安元年(1648年)に5000石加増で都合1万石となり大名に列す。
 承応2年(1653年)9月、土屋数直,牧野親成と共に4代将軍・徳川家綱の御側となる。万治2年(1659年)に5000石加増で都合1万5000石、寛文2年(1662年)に若年寄になると、さら5000石を加増され都合2万石となる。寛文3年(1663年)に老中となり従四位下に昇叙。同4年(1664年)にはさらに2万石を加増され都合4万石。寛文6年(1666年)、稲葉正則,阿部忠秋,酒井忠清と共に4老中の連名で諸国山川掟を発令している。寛文9年(1669年)にさらに1万石を加増され、都合5万石で下総国関宿城を拝領した。
 延宝7年(1679年)に死去、享年71。遺領は3男の重之が継いだ。墓所は東京都豊島区の本妙寺。 

久世重之 久世広文

 下総国関宿藩主。関宿藩久世家2代。重之一代のときに関宿藩(千葉県野田市関宿三軒家)から備中国庭瀬(岡山県岡山市北区庭瀬)ついで丹波国亀山(京都府亀岡市)さらに三河国吉田(愛知県豊橋市)へとめまぐるしく転封を続け、宝永2年(1705年)再び関宿に復帰する。
幕府では45歳のときに三河国吉田藩主時に寺社奉行に起用されたのを皮切りに、若年寄、ついで、下総国関宿藩主になってからの元禄12年(1713年)~宝永4年(1720年)には老中を務める。また、新井白石の学問の崇拝者として知られ、閣内に味方の少ない正徳の治を側面から支持し、正徳金銀鋳造の責任者を担当している。重之の死後、家督は四男の久世暉之が継ぐ。 

 嘉永6年(1853年)、第7代藩主・久世広周の長男として生まれる。文久元年(1861年)3月16日、老中・安藤信正と関係を深めるため、信正の娘との婚約を願ったものの幕府の許可が得られず、明治2年(1869年)10月23日に至って婚約を解消している。文久2年(1862年)8月16日、広周は幕政の失敗を理由に強制隠居処分によって家督を相続するが、5万8000石に減封された。さらに広周が11月20日に永蟄居処分に下されるや、さらに減封されて4万8000石となった。
 若年のため、藩政は家臣団によって行われ、農兵の徴集や天狗党の乱の鎮圧などに参加している。慶応元年(1865年)12月25日に従五位下・出雲守に叙位・任官。慶応4年(1868年)2月2日に隠岐守に遷任。
 戊辰戦争では、佐幕派として江戸城を守備したが、藩内はその主導権をめぐって佐幕派と尊王派に分裂した。佐幕派は江戸にあった広文を擁して深川に移し、これを奪取しようとする尊王派と争う有様だったが、結果、佐幕派が主導権をとる。佐幕派は万宇隊を結成するなど彰義隊と協力して新政府軍と戦ったが、敗れた広文らは下総佐倉藩を頼って逃れる。後に帰国したが謹慎を命じられた。家臣による助命の嘆願運動などもあって、明治元年(1868年)12月7日、5000石の減封と強制隠居の処分をうけ、官位剥奪などの処分で許された。
 明治2年(1869年)9月28日に罪を許され、10月13日には官位も復された。明治32年(1899年)10月に死去。

久世広民

 浦賀奉行を経て、安永4年(1775年)12月3日に第65代長崎奉行となる。安永7年(1778年)、中国人に花辺銀,人頭銭貿易を許可するなど貿易の拡大をはかった。また、広民はオランダ商館長チチングが感心するほどの開明的な人物で、長崎で入手した海外情報を懇意にしていた田沼意次にもたらせた。また、オランダ人の待遇改善などを進めた。
 天明2年(1782年)、米価が高騰し盗賊・放火が増えたため、近隣の諸侯に依頼し米を回漕してもらい米価を抑えた。天明3年(1783年)9月、江戸に戻るとき町民が、馬場郷なかには日見や矢上まで見送って報恩に謝するものもあったほど慕われていた。翌年3月12日勘定奉行となる。棄捐令の法案作成に携わり、猿屋町御貸付金会所を設置するなど、松平定信の寛政の改革で活躍をしている。海岸防備のための房総半島巡回などにも随行している。寛政4年(1792年)3月10日に関東郡代・伊奈忠尊が改易となると関東郡代を兼ねて、5人の郡代付代官を支配する。寛政6年(1794年)7月17日、ロシアの情報を得るため、江戸住みを余儀なくされた大黒屋光太夫のために新居を与えた。寛政9年(1797年)6月5日、小姓組番頭に致仕する。