<神皇系氏族>地祇系

MW01:大三輪大友主  大三輪大友主 ― ?  ― 筒井順覚 MW21:筒井順覚

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筒井順永 筒井順尊

 嘉吉元年(1441年)、長兄・順弘と次兄・成身院光宣が摂津河上五ヶ関代官職を巡って争い、順弘が敗れて行方をくらますと、相国寺僧侶だった順永は還俗、筒井氏当主となった。初め、光宣は納得しなかったが、後に和睦して共に順弘と対峙した。以降、順永は光宣と行動を共にするようになる。
 嘉吉3年(1443年)、順弘が越智家栄の力を借りて筒井城に復帰するも殺害され、代わって大乗院門跡経覚が五ヶ関を直接支配下に置こうと古市胤仙,豊田頼英,小泉重弘らが光宣・順永兄弟を打ち破り、筒井城に追い込んだが、文安2年(1445年)に光宣兄弟も反撃、経覚派の鬼薗山城を落として五ヶ関代官職を獲得、享徳3年(1454年)に両派は和解した。
 河内国守護・畠山氏のお家騒動では弥三郎を支持したため、康正元年(1455年)に弥三郎に勝利した畠山義就に攻められ、領地は没収されたが、長禄3年(1459年)に管領・細川勝元によって幕府から赦免された。これを機に順永は小泉館で小泉今力丸と小泉重栄を討ち取り、領土を取り戻した。翌年、義就が8代将軍・足利義政によって家督を弥三郎の弟・政長に替えられると、順永は政長に従い義就追討軍に参加(嶽山城の戦い)、応仁の乱で引き続き大和で義就方の越智家栄,古市胤栄らと戦ったが、文明8年(1476年)に死去、享年58。
 死後、嫡男・順尊が跡を継いだが、翌文明9年(1477年)に義就が河内を制圧すると大和も義就派が占拠、順尊は没落する。 

 当時の大和は畠山義就と畠山政長が対立した影響で国人も2派に分かれて抗争していた。筒井氏は政長派に属し、応仁の乱では順尊は父・順永と共に義就派の越智家栄,古市澄胤と大和で戦った。
 しかし、文明8年(1476年)に父が死去、翌年9月に畠山義就が河内国に下向して政長派を撃滅・制圧すると、越智家栄らも勢いづいて順尊,箸尾為国らを大和から追放、河内と大和は義就の手に入った(正式な守護は政長と興福寺だが、義就が実力で取得した)。結果、順尊ら政長派は流浪の身となった。後に十市遠清・遠相父子も大和から脱出した。
 その後は大和で度々ゲリラを仕掛けるがその度に敗北、復帰を果たせぬまま長享3年(1489年)7月22日、京都で死去。享年39。

 

筒井順賢 筒井順興

 延徳元年(1488年)から9代将軍・足利義尚の命で上京していた父・筒井順尊が翌年客死したため、順賢が家督を継ぐが、幼少のため叔父・成身院順盛が後見人となったようである。
 明応6年(1497年)、畠山尚順が細川政元・畠山義豊に反旗を翻して挙兵すると、順賢も呼応して順盛や十市遠治と共に義豊方の越智家栄・家令父子と古市澄胤を攻めて没落させた。明応8年(1499年)に得度して順賢と名乗った。
 永正2年(1505年)にそれまで抗争していた越智氏と和解、家令の娘を娶るが、翌3年(1506年)に細川政元の部将・赤沢朝経と古市澄胤の攻撃を受け没落する。これに対し、大和国人衆は筒井氏・越智氏を中心に国人一揆(大和国人一揆)を結び、朝経・澄胤に対抗した。以後も朝経の前にしばしば敗北を余儀なくされたが、永正4年(1507年)に政元が暗殺され(永正の錯乱)、朝経も丹後国で戦死すると、順賢らは巻き返しを図り、大和の細川軍を追い出して本拠地へ戻った。
 しかし、赤沢朝経の養子・長経が政元の養子・澄元の命を受けて大和へ出兵すると国人一揆は敗れて崩壊、永正5年(1508年)に前将軍・足利義稙が周防国・長門国の大内義興に擁立されて上洛すると、国人衆は再び分裂、順賢,十市遠治は足利義稙,細川高国,畠山尚順に、古市澄胤,越智家教は足利義澄,細川澄元,畠山義英に参戦した。順賢は畠山尚順の後援のもと澄胤・長経らを打ち破り、澄胤を自害に追い込み、長経を捕縛、斬首し筒井氏を再興した。古市氏との抗争はその後も継続した。
 大永元年(1521年)には順賢に代わり弟・順興が当主として活動しており、その前後に家督交代があったと推定されている。順賢はその後もしばらく存命したとされるが、詳細は不明である。

 大永元年(1521年)、兄・順賢の跡を継いで当主となり、越智氏と和睦してその娘を娶った。同年3月、10代将軍・足利義稙が管領・細川高国と仲違いして和泉国を経て淡路島に出奔した後、10月に堺に上陸、畠山尚順,畠山義英が呼応して畠山稙長(尚順の子)と戦った時、順興は越智家栄と共に稙長側に参陣、義英軍を打ち破った。その後も稙長軍に属して義英と戦った。
 享禄元年(1528年)、柳本賢治が大和に侵攻して苦戦を強いられるが、享禄3年(1530年)に賢治が暗殺されたのも束の間、天文元年(1532年)に大和で一向一揆が発生、十市遠治や越智氏と協力して鎮圧に努めた(天文の錯乱)。
 衰退した筒井氏を再興して大和に勢力を築き、十市氏など周辺の国人領主と縁戚関係を結ぶなどして勢力を拡大していった。

 

筒井順慶 筒井定次

 筒井氏は興福寺一乗院に属する有力宗徒が武士化し、父・順昭の代には大和最大の武士団となり、筒井城を拠点に戦国大名化していた。
 天文19年(1550年)、父が病死したため、叔父の筒井順政の後見のもと、2歳で家督を継ぐこととなる。当時の大和は「大和四家」と呼ばれる筒井氏,越智氏,箸尾氏,十市氏や僧兵を擁した興福寺の勢力が強く、守護職の存在しない国であったが、永禄2年(1559年)から松永久秀が侵攻し、十市遠勝が久秀の軍門に下るなど、筒井氏にとって厳しい情勢にあった。さらに永禄7年(1564年)には叔父の順政は死去。松永久秀は、後ろ盾を無くした順慶の基盤が揺らいでいるところに奇襲を仕掛け、同11月18日、順慶は居城・筒井城を追われている(筒井城の戦い)。
 後に順慶は一族の布施左京進のいる布施氏の下で力を蓄え、離反した高田氏の居城である高田城を攻撃している。巻き返しを図る順慶は、永禄9年(1566年)になると、松永軍に対する反撃を開始し、ついに城の奪還を果たした。その後も筒井氏と松永氏の争い・和睦が繰り返されるが、天正5年(1577年)、久秀が信長に対して反旗を翻すと、信貴山城攻めの先鋒を務めた(信貴山城の戦い)。手始めに片岡城を陥落させ、続いて信貴山城へ総攻撃が行われた。10月10日、遂に城は陥落、久秀父子は切腹または焼死した。久秀の遺骸を順慶が回収し、達磨寺に手厚く葬ったとされる。
 久秀父子の滅亡もあって、天正6年(1578年)に大和平定が果たされた。同年、信長の命令により龍王山城を破却している。同年4月、播磨攻めに参戦。6月には神吉頼定が籠城する神吉城を攻撃している。帰国後の10月には、石山本願寺に呼応した吉野の一向衆徒を制圧する。天正7年(1579年)には、信長に反逆した荒木村重が篭る有岡城攻めに参加した(有岡城の戦い)。
 天正8年(1580年)8月に信長より本城とする城以外の城の破却を促す命令が出る。順慶は筒井城はじめ支城を破却し、築城した郡山城に移転した。
 天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こる。順慶は福住順弘,布施左京進,慈明寺順国,箸尾高春,島清興(左近),松倉重信ら一族、重臣を召集して評定を行った。光秀は順慶が与力で信長の傘下に入る際の仲介者で縁戚関係にもあり、武辺の多い織田軍団としては数少ない教養人同士として友人関係にもあった。そのため、光秀からは変の後に味方になるよう誘われ、順慶は辰市近隣まで派兵して陣を敷いたが、積極的には動かなかった。だが、消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力した。その後も評定を重ね、一度河内国へ軍を差し向ける方針を立てたが、結局は食料を備蓄させて篭城する動きを見せた。6月10日には、誓紙を書かせて羽柴秀吉への恭順を決意した。同日、光秀の家臣・藤田伝五郎が順慶に光秀への加勢を促すよう郡山城を訪れたが、順慶はこれを追い返している。6月11日には、順慶が郡山で切腹したという風聞を始め、流言蜚語が飛び交った。
 光秀は順慶の加勢を期待して、河内国を抑えるため洞ヶ峠に布陣し、順慶の動静を見守ったが、順慶は静観の態度を貫徹した。洞ヶ峠への布陣は、順慶への牽制・威嚇であったとも解釈されている。光秀が洞ヶ峠に出陣したことが後世歪曲されて喧伝され、順慶が洞ヶ峠で秀吉と光秀の合戦の趨勢を傍観したという、いわゆる洞ヶ峠の故事が生まれ、この「洞ヶ峠」は日和見主義の代名詞として後世用いられている。
 結局、6月13日の光秀の山崎での敗北は、18万石の順慶と12万石の細川幽斎が味方しなかったことが致命傷となった。6月14日、順慶は大和を出立して京都醍醐に向い、羽柴秀吉に拝謁した。この際、秀吉は順慶の遅い参陣を叱責した。秀吉の叱責によって順慶が体調を崩し、その話が奈良一円に伝播して人々を焦燥させた。6月27日、織田家の後継者を選別する清洲会議が実施され、順慶は他の一般武将達と共に待機している。7月11日には、秀吉への臣従の証として、養子・定次を人質として差し出している。
 光秀死後は秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵された。天正12年(1584年)頃から胃痛を訴え床に臥していたが、小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をおして伊勢・美濃へ転戦。大和に帰還して程なく36歳で病死した。 

 織田信長の死後は豊臣秀吉の家臣となり、大坂城へ人質として赴いた。天正12年(1584年)、順慶の死により家督を相続した。同年、小牧・長久手の戦いに参戦、この戦いで定次の家臣・松倉重信が奮戦し、戦功を称えられ右近大夫に叙任された。天正13年(1585年)の紀州征伐では堀秀政などと共に千石堀城を攻めた。同年の四国攻めにおいては、中村一氏や蜂須賀正勝と共に先鋒に任じられ、東条関之兵衛が籠城する木津城を攻撃する。
 天正13年(1585年)閏8月、秀吉の領国内の大規模な国替えにより大和国には秀吉の弟・羽柴秀長が入国し、代わって定次は領国を大和国から伊賀国上野に移封された。伊賀移封に伴い、定次は伊賀上野城を築城した。
 天正14年(1586年)、灌漑用水を巡って中坊秀祐と島左近の間で争いが起こり、定次が秀祐に有利な裁定を下したため、憤慨した左近が筒井家を去るという事件が起こる。筒井家を去った左近は石田三成に仕えた。松倉重政,森好高,布施慶春といった有力家臣達も前後して筒井家を去っている。
 天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590年)の小田原征伐では韮山城攻めに参加した。天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも手勢3,000を率いて出陣し、肥前名護屋に詰めて、朝鮮に渡航していない。朝鮮の役の最中、名護屋で酒色に溺れ、中坊秀祐を憂慮させた。定次は病を得、秀吉の承諾を得て城詰の途中で伊賀国へ帰国している。
 関ヶ原の戦いでは東軍に与した。定次は同腹の兄弟・筒井玄蕃允を城に残して会津征伐へ向かったが、その間に城を西軍方の新庄直頼・直定父子に奪われた。玄蕃允は敵兵に恐れをなし開城して高野山へ逃げた。この出来事は徳川家康の耳に入り、定次は引き返して多羅尾口から伊賀国に入った。新庄父子は勝ち目がないことを悟り、定次の嫡男を人質に和睦し、島ヶ原で開放した。その後、定次は関ヶ原に駆けつけた。戦後、家康から所領を安堵され、新庄父子は改易された。
 慶長8年(1603年)、家康が江戸に幕府を開くと、筒井氏は伊賀一国を支配する国持大名となり、定次は伊賀守に叙任されたが、慶長13年(1608年)、定次の重臣の中坊秀祐が定次の悪政や鹿狩での倦怠などの不行状を訴え、定次は幕命により改易となり、ここに大名としての筒井氏は滅亡した(筒井騒動)。定次は改易された後、鳥居忠政のもとに預けられる。
 慶長20年(1615年)3月5日、大坂冬の陣にて豊臣氏に内通したという理由により、嫡男・筒井順定と共に自害を命じられた。享年54。切腹を賜った経緯について、大坂冬の陣の際、城中から放たれた矢の一つに筒井家で使われていたものがあり、その矢が内応の示唆を疑わせ、自害を命じられたとされる。自害した定次父子の遺骸を伝香寺の住職が大安寺に葬り、伝香寺に石塔を建立したと伝える。 

筒井定慶 筒井慶之

 筒井氏から福住氏に入った福住順弘の次男・正次として生まれた。母は伯父にあたる筒井順昭の次女。兄の順元は福住本家を継いだとされるが、消息が不明である。弟に慶之および順斎がいるが、この二人は同一人物かもしれず、慶之が後に順斎を名乗った可能性がある。
 福住氏においては主殿助を名乗り、興福寺勧学院に学んだと伝わる。定慶の名は興福寺関係者によく見られるので、もとは僧侶としての号であったかもしれない。のち筒井氏内衆の一員となり、おそらく元亀元年(1570年)頃から戦場にも出陣したらしい。東山内衆は殆どが福住氏の与力であった。のちに従兄の筒井順慶の養子となって筒井主殿助を名乗る。この時は弟の慶之も同様に養子になったとされる。慈明寺順国(福住順弘の弟)の子・定次が順慶の養子となると、定次に後継者の位置を譲った。
 筒井順慶の没後は豊臣秀長に仕えたが、 秀長が病で死去し、その子の秀保も急死し、大和羽柴家が断絶した後は徳川家康についた。筒井順慶の死後に筒井家を継いでいた従兄の筒井定次が慶長13年(1608年)に改易となると、家康の協力もあり筒井家を相続、郡山城1万石を領し、名を筒井定慶に改めた。
 慶長20年(1615年)4月には、大坂夏の陣が勃発。豊臣方からこちらに付くようにとの誘いがあったが、これを断った。やがて豊臣方の大野治房軍が来襲、郡山城を包囲し城下町に放火した(郡山城の戦い)。大野勢が2,000余だったのに対し定慶の手元には与力36騎があるのみで、定慶は敵わずと見て城を放棄、福住に落ち延びた。のちに逃亡を恥じて切腹したと伝わるが、自害と称して福住村に逼塞したとも伝えられる。伝承では、定慶かその子が隠棲し、その後、尾張国に行ったと言われるが、確証は無い。
 定慶の死(または逼塞隠棲)により、大名としての筒井氏は断絶した。だが弟・慶之(順斎?)の子孫が1,000石の旗本となった。幕末に日露和親条約の交渉を行った筒井政憲はその末裔であるという(養子のため直接の血の繋がりは無い)。筒井順慶の養子については諸説があって一定せず、福住氏の系図も混乱して実態がよく分からない。 

 2人の兄・定慶,順斎と共に従兄の筒井順慶の養子となるが、順慶死後の跡は同じく養子で従兄の定次が継いだ。その後、定次は豊臣方との内通疑惑により徳川家康に切腹を命じられ、長兄の定慶が当主となった。
 しかし、慶長20年(1615年)、豊臣軍の大野治房の襲撃によって大和郡山城は落城した。兄は福住に逃れ、その後自害した。慶之は奈良に逃れたが、こちらも自害した。慶之の亡骸は自毫寺に葬られた。 

筒井順斎 筒井政憲

 兄や弟と同じく従兄に当たる筒井順慶の養子になるが、跡を継ぐことはなかった。後継の従兄・筒井定次は徳川家康の命により切腹した。その後、大和郡山城1万石を家康から与えられた兄・定慶は、大坂の陣で豊臣軍に敗れ逃亡、その後、福住で切腹した。慶之も奈良で切腹した。
 だが、徳川家康に仕えていた順斎は福住に領地を与えられて、家名を存続させた。
 福住順弘の2男として生まれたという。母は筒井順昭の娘で、順斎(慶之と同一人物とも)は筒井順慶の養子になったとされる。
 徳川家康に仕え、大和国福住で5,000石を領した。数々の功を上げ、家康の妹・市場姫を妻とし、粉粧料として武蔵国足立郡に1,000石を得た。
 慶長5年(1600年)の上杉征伐に従軍。下野国小山で石田三成挙兵の報が入った際、大和に向かい筒井定次,柳生宗厳と示し合わせて忠節を励むよう命じられる。
 慶長10年(1605年)9月より伏見城西御門の番を務めた。『慶長郷帳』には山辺郡内の領主として「筒井紀伊守」の名があり、順斎を指すとみられる。
 慶長15年(1610年)8月3日、死去。享年60、または64ともいう。 

 江戸時代後期の旗本。通称は右馬助,佐次右衛門。官位は伊賀守,和泉守,紀伊守,肥前守。
 旗本・久世三四郎広景の次男として誕生。母は旗本内藤信庸の娘。戦国大名の末裔である旗本筒井家(1000石)を継いだ。子に政循,下曽根信敦がいる。下曽根信之は孫。
 柴野栗山に学問を学び、昌平坂学問所で頭角を顕わす。目付,長崎奉行を経て、文政4年(1821年)より南町奉行を20年間務めた。文政11年(1828年)、シーボルト事件が起こった際には、大目付・村上大和守,目付・本目帯刀と共に高橋景保を捕縛、尋問した。近藤富蔵の殺人事件や河内山宗春を裁いたのも政憲であった。
 天保年間は、但馬国出石藩のお家騒動・仙石騒動に巻き込まれ町奉行を免職の上、西丸留守居役に左遷された。左遷の背後には水野忠邦の暗躍があったという。さらに弘化2年(1845年)には、町奉行在任中の与力・仁杉五郎左衛門の市中米買付に関係する不正が暴露され、当時の責任者として責任を問われ、留守居役を免ぜられ、小普請に左遷される。ただ、学問に優れた政憲はこの間も御儒役として大学頭・林復斎に代わり12代将軍・徳川家慶に進講するなどし、2年後には老中・阿部正弘の命で西丸留守居役に復職となる。幕政にも関与しており、弘化3年(1846年)にフランス艦隊が琉球に来航、貿易を求めた事件で解決のために幕府と薩摩藩主・島津斉興・斉彬父子との折衝を行い、阿部から異国船打払令の復活の是非についての諮問を受けたり、株仲間の再興を提言したりしている。
 嘉永6年(1853年)にはロシアのプチャーチンが国書を携えて長崎に来航し、樺太・千島の日露国境確定と交易開始の要望を日本に呈した。幕府は政憲と川路聖謨を交渉全権代表に任命して長崎に派遣。併せて、西丸留守居役では重みにかけるとして儒役はそのまま、幕府内の席次を大目付格に昇叙となる。長崎での日露交渉は不調に終わり、ロシア側も船舶が故障したことやクリミア戦争発生で一時日本を離れたが、安政元年(1854年)には下田に再来日した。幕府は交渉委員を長崎同様に政憲,川路とし、補佐役として下田奉行・伊沢政義,目付・松本十郎兵衛,勘定吟味役・村垣範正,儒者・古賀謹一郎をつけた。 交渉は無事妥結し、開港関係は日米和親条約を骨子とし、千島列島の国境を択捉島,ウルップ島(得撫島)間と定め、ロシア船の下田・箱館(現、函館)への寄港、薪水食糧の供給を決めた。この時の交渉で、樺太では1852年以前からの日本人(大和民族・アイヌ民族)の居住地は日本領とされたが、国境は未定であった。これが、後に日本人の居住地にまでロシア人が侵入する原因となる。
 安政6年6月8日(1859年7月7日)、死去。享年82。墓所は東京都新宿区の日蓮宗常円寺にあり、新宿区の史跡に指定されている。
 子の信敦は講武所の砲術師範になったが、孫の信之は長崎海軍伝習所へ赴任、江戸へ戻って同じく講武所の砲術師範に任命されたため、父子は混同されて信之は信敦の別名とされている。