<藤原氏>北家 秀郷流

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田沼意次 田沼意知

 享保4年(1719年)7月27日、田沼意行の長男として江戸の田安屋敷で生まれる。幼名は龍助。父・意行は紀州藩の足軽だったが、第8代将軍の徳川吉宗に登用され小身旗本となった。意次は第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600石を継ぐ。
 延享2年(1745年)、家重の将軍の就任に伴って本丸に仕え、徐々に加増され、宝暦8年(1758年)には、美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)に関する裁判にあたらせるために、家重によって御側御用取次から1万石の大名に取り立てられた。
 宝暦11年(1761年)、家重が死去した後も世子の第10代将軍・徳川家治の信任は厚く、破竹の勢いで昇進し、明和4年(1767年)にはさらに5,000石加増、御用人から側用人へと出世し従四位下に進み2万石の相良城主となって、明和6年(1769年)には侍従にあがり老中格になる。安永元年(1772年)、相良藩5万7,000石の大名に取り立てられ、老中を兼任し、前後10回の加増で僅か600石の旗本から5万7,000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となった。
 この頃より老中首座である松平武元など意次を中心とした幕府の閣僚は、数々の幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る。悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手する等の政策を実施した。その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなった。しかし、社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために事実として贈収賄が横行した。また、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。印旛沼運河工事の失敗や明和の大火,浅間山の大噴火などの災害の勃発、疲弊した農村部に天明の飢饉と呼ばれる食糧難や疫病が生じた。意次は対策を打ち出すが、失敗し逆に事態を悪化させてしまった。その中にあって財政難に陥っていた諸藩は米価の値上がりを借金返済の機会とし、検地により年貢の取立てを厳しくしていった。それらが元による都市部の治安の悪化、一揆・打ちこわしの激化により不満が高まり、江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に贈収賄疑惑を流されるなど、次第に田沼政治への批判が集まっていく。
 外国との貿易を黒字化させて国内の金保有量を高め、さらには北方においてロシア帝国との貿易も行うとしていたほか、平賀源内などと親交を持ち、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みたが、これらの急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、天明4年(1784年)に息子で若年寄の田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺されたことを契機とし、天明6年(1786年)8月、将軍・家治が死去すると後ろ盾を失い、反田沼グループや一橋家の逆襲が始まる。
 天明6年(1786年)8月27日、反田沼派の松平定信らの陰謀によって老中を辞任させられ、雁間詰に降格された。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収されて3万7000石にされ、さらに大坂にある蔵屋敷の財産も全て没収され、さらに江戸屋敷の明け渡しも命じられた。
 田沼意次は新たに江戸の木挽町にある粗末な屋敷を与えられてそこで蟄居を命じられた。同時に田沼派として要職にあった面々もことごとく松平定信ら反田沼派によって失脚させられ、居城の相良城も明渡しを命じられ、幕府により破却された。
 田沼家の家督に関しては、長男の田沼意知はすでに死去していて、他の3人の子供は全て養子に出されていたため、孫の田沼意明が陸奥1万石に減転封のうえで家督を継ぐことを許された。同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保や間部詮房が、辞任のみで処罰は無く家禄も維持し続けたことに比べると最も苛烈な末路となった。天明8年(1788年)6月24日、死去。享年70。 

 明和3年(1766年)、19歳にして山城守に叙任。天明元年(1781年)には奏者番となり、天明3年(1783年)に世子の身分のまま若年寄となり、父の意次が主導する一連の政治を支えた。これは徳川綱吉時代に老中・大久保忠朝の子・大久保忠増が世子のまま若年寄になって以来の異例な出世である。しかし、その翌年に江戸城内において佐野政言に襲撃され、その8日後死亡した。享年35。
 江戸市民は佐野政言を賞賛して田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。 

田沼意明 田沼意正
 父・意知が天明4年(1784年)に暗殺されたため世子となり、天明7年(1787年)に家督を継いだ。ただし、祖父が松平定信の粛清を受けて失脚したため、相良から下村1万石に減封の上で移封となった。寛政5年(1793年)の定信失脚まで、領地へ下向することも許されず江戸定府とされ、将軍への拝謁や従五位下の官位任官も受けられなかった。寛政8年(1796年)に大坂定番もしくは大坂加番に任命されたが、同年24歳で死去し、後を弟で養嗣子の田沼意壱が継いだ。

 安永3年(1774年)7月27日、水野忠友と養子縁組し、その娘と結婚した。水野忠徳と名乗る。安永4年(1775年)11月15日、将軍・徳川家治に御目見した。同年閏12月11日、従五位下中務少輔に叙任した。しかし、天明6年(1786年)9月5日、父・意次の失脚により、養子縁組を解消されて田沼家に戻された。このとき、母方の姓である田代を称し田代玄蕃と名乗っている。
 文化元年(1804年)7月26日、陸奥下村藩主・田沼意定の死去により、末期養子として家督を相続。同年10月1日、将軍・徳川家斉に御目見した。同年12月16日、従五位下玄番頭に叙任した。後に内膳正に改める。文化3年(1806年)6月1日、大番頭に就任した。
 文政2年(1819年)8月8日、若年寄(西丸)に就任した。文政6年(1823年)7月8日、将軍・徳川家斉の尽力もあって、旧領である遠州相良への復帰を許された。文政8年(1825年)4月18日、側用人(西丸)となった。同年12月、従四位下に昇進する。天保5年(1834年)4月26日、病気を理由に側用人を辞任する。天保7年(1836年)4月21日、隠居し、長男・意留に家督を譲った。同年8月24日、78歳で死去した。

田沼意尊 田沼意斉

 天保11年(1840年)7月20日、父・意留の隠居により家督を相続する。その後、大坂定番に就任する。文久元年(1861年)9月14日、若年寄に就任する。元治元年(1864年)、幕府軍総督として水戸藩天狗党の乱鎮圧で功績を挙げている。慶応2年(1866年)10月4日、若年寄を解任される。
 明治元年(1868年)9月21日、上総小久保へ移封された。明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により藩知事となった。その後、洋学を取り入れた近代的な藩校創設に尽力した。同年12月24日、51歳で死去した。田沼家は、養嗣子の田沼意斉が継いだ。 

 安政2年(1855年)7月、武蔵岩槻藩主・大岡忠恕の5男として生まれる。明治2年(1869年)に小久保藩初代藩主・田沼意尊が死去したため、その養子となる。明治3年(1870年)2月22日に家督を継いで第2代藩主・小久保藩知事となった。学問を奨励し、藩校を拡大するなどの文治政策を採用している。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免職された。
 明治6年(1873年)11月、家督を田沼意尊の長女・智恵に譲って隠居し、同時に田沼氏からも離れた。没年は不明である。