FU09:田沼重綱 | 藤原兼光 ― 足利成行 ― 戸矢子有綱 ― 佐野基綱 ― 佐野成綱 ― 佐野重長 ― 田沼重綱 ― 田沼意次 | FU10:田沼意次 |
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田沼意次 | 田沼意知 |
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享保4年(1719年)7月27日、田沼意行の長男として江戸の田安屋敷で生まれる。幼名は龍助。父・意行は紀州藩の足軽だったが、第8代将軍の徳川吉宗に登用され小身旗本となった。意次は第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600石を継ぐ。 |
明和3年(1766年)、19歳にして山城守に叙任。天明元年(1781年)には奏者番となり、天明3年(1783年)に世子の身分のまま若年寄となり、父の意次が主導する一連の政治を支えた。これは徳川綱吉時代に老中・大久保忠朝の子・大久保忠増が世子のまま若年寄になって以来の異例な出世である。しかし、その翌年に江戸城内において佐野政言に襲撃され、その8日後死亡した。享年35。 |
田沼意明 | 田沼意正 |
父・意知が天明4年(1784年)に暗殺されたため世子となり、天明7年(1787年)に家督を継いだ。ただし、祖父が松平定信の粛清を受けて失脚したため、相良から下村1万石に減封の上で移封となった。寛政5年(1793年)の定信失脚まで、領地へ下向することも許されず江戸定府とされ、将軍への拝謁や従五位下の官位任官も受けられなかった。寛政8年(1796年)に大坂定番もしくは大坂加番に任命されたが、同年24歳で死去し、後を弟で養嗣子の田沼意壱が継いだ。 |
安永3年(1774年)7月27日、水野忠友と養子縁組し、その娘と結婚した。水野忠徳と名乗る。安永4年(1775年)11月15日、将軍・徳川家治に御目見した。同年閏12月11日、従五位下中務少輔に叙任した。しかし、天明6年(1786年)9月5日、父・意次の失脚により、養子縁組を解消されて田沼家に戻された。このとき、母方の姓である田代を称し田代玄蕃と名乗っている。 |
田沼意尊 | 田沼意斉 |
天保11年(1840年)7月20日、父・意留の隠居により家督を相続する。その後、大坂定番に就任する。文久元年(1861年)9月14日、若年寄に就任する。元治元年(1864年)、幕府軍総督として水戸藩天狗党の乱鎮圧で功績を挙げている。慶応2年(1866年)10月4日、若年寄を解任される。 |
安政2年(1855年)7月、武蔵岩槻藩主・大岡忠恕の5男として生まれる。明治2年(1869年)に小久保藩初代藩主・田沼意尊が死去したため、その養子となる。明治3年(1870年)2月22日に家督を継いで第2代藩主・小久保藩知事となった。学問を奨励し、藩校を拡大するなどの文治政策を採用している。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免職された。 |