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土方雄久 | 土方雄氏 |
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天文22年(1553年)、土方信治の子として尾張国名古屋で生まれる。母は土方俊治の娘あるいは前野長兵衞某の娘。父は織田信長に仕え、若くして討ち死した。雄久は織田信雄に仕え、その一字を拝領して、雄良、のち雄久と名乗った。 |
文禄3年(1594年)、豊臣秀吉に仕えて伊勢国内に3000石を与えられ、豊臣秀頼の近臣となった。慶長元年(1596年)には1万石の大名として諸侯に列した。しかし、慶長4年(1599年)、秀吉没後の覇権を狙う徳川家康とその軍師・本多正信が策した幻の家康暗殺事件に父が容疑者にされると、長男の雄氏も連座で罪に問われて父と共に常陸国の佐竹義宣預かりの身とされた。 |
土方雄高 | 土方雄豊 |
初代藩主・土方雄氏の長男。初名は雄春。江戸で生まれたが、幼い頃に菰野へ送られ、そこで育てられた。寛永9年(1632年)に将軍・徳川家光に初御目見する。寛永12年(1635年)3月に父の隠居により家督を相続する。 |
寛永15年(1638年)、京都に生まれた。 慶安3年(1650年)5月11日に伯父にあたる第2代菰野藩主・土方雄高の娘と結婚してその養子に入った。慶安4年(1651年)9月に雄高が死去したため、承応元年(1652年)2月8日に家督を相続し、15歳にして第3代菰野藩主となった。寛文元年(1661年)12月13日にはじめて将軍徳川家綱に拝謁。28日に従五位下・備中守に叙任した。寛文2年(1662年)4月にはじめて領地菰野に入った。寛文3年(1663年)12月には江戸で火消し大名としての活躍し、将軍家綱からも表彰された。延宝7年(1679年)、官職を市正に改めた。延宝8年(1680年)に鳥羽藩主・内藤忠勝が刃傷事件のために改易に処された際には、雄豊が鳥羽城受け取り役に命じられ、志摩国鳥羽へ赴いた。 |
土方雄年 | 土方義苗 |
寛延4年(1751年)9月4日、第6代藩主・土方雄端の長男として生まれる。宝暦8年(1758年)、父の死去により後を継いで藩主となる。ところが、幼少のために政務が執れず、そのために家老や重臣らの中でも奸臣によって悪政が敷かれたといわれている。
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安永7年(1778年)5月7日、第6代藩主・土方雄端の3男・木下俊直の次男として、江戸愛宕下の菰野藩上屋敷で生まれる。父が豊後日出藩木下氏分家の5000石の旗本家の養子になるとそれに従う。天明2年(1782年)12月19日、菰野藩で第8代藩主・雄貞(田沼意次の子であり、土方家の養子)の死去により、その末期養子として家督を継いだ。ただし幼少のため、藩政は隠居していた第7代藩主で伯父の雄年によって執り行なわれた。田沼家との血縁は、義苗の室に田沼意知の養女(意次の甥田沼意致の女)を迎えることで維持された。寛政8年(1796年)8月15日、将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月19日、従五位下・大和守に叙任する。 |
土方雄永 | 土方雄志 |
嘉永4年(1851年)3月21日、第11代藩主・雄嘉の長男として生まれる。安政5年(1858年)10月19日、父の死去により、家督を継いだ。しかし、父同様に病弱の上、幼少であったため、大叔父の土方義行が引き続いて補佐した。幕末期、はじめ菰野藩は佐幕派,尊王派で分裂して争った。慶応4年(1868年)2月27日、上洛して新政府の支持姿勢を明らかにした。その後、戊辰戦争では新政府の東征軍に協力している。
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安政3年(1856年)8月2日、第10代藩主・土方雄興の娘婿に当たる土方久己の長男として生まれる。久己(半三郎)は、菰野藩の分家近江の部田1千石の旗本。明治3年(1870年)8月22日、5歳違いの従兄の第12代藩主・雄永の養子となり、同年9月17日、病弱な雄永は隠居し、雄志が家督を相続する。同日、従五位に叙任し、知藩事に就任した。 |
土方雄重 | 土方雄隆 |
土方雄久の次男。2代将軍・徳川秀忠の小姓を勤めていた。 |
寛永19年(1642年)、第2代藩主・雄次の次男として生まれる。万治2年(1659年)に徳川家綱と拝謁し、延宝7年(1679年)11月27日の父の隠居により後を継ぐ。このとき、弟の雄賀に2,000石を分与したため、1万8,000石となる。同時に従五位下・山城守に叙任し、天和元年(1681年)に伊賀守に叙任する。 |