清和源氏

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土方雄久 土方雄氏

 天文22年(1553年)、土方信治の子として尾張国名古屋で生まれる。母は土方俊治の娘あるいは前野長兵衞某の娘。父は織田信長に仕え、若くして討ち死した。雄久は織田信雄に仕え、その一字を拝領して、雄良、のち雄久と名乗った。
 天正4年(1576年)の三瀬の変では日置大膳亮らと共に田丸城での長野具藤ら北畠一門粛清に関わった。天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱で功を挙げた。
 天正12年(1584年)3月6日、雄久は信雄の命によって、対立している羽柴秀吉と誼を通じていたとして親秀吉派の津川義冬,岡田重孝,浅井長時を長島城に誘い出し殺害した。これを皮切りとして小牧・長久手の戦いが勃発している。天正15年(1587年)、信雄より尾張国犬山城4万5000石を与えられた。天正18年(1590年)、小田原征伐に従軍し、夜襲を行ってきた北条氏房の軍と戦い撃退している。戦後、信雄が改易された後は、豊臣秀吉の家臣として仕え、同19年(1591年)、越中国新川郡野々市1万石を与えられた(後に2万4000石まで加増)。
 慶長3年(1598年)、秀吉が死去した後は豊臣秀頼に仕えた。慶長4年(1599年)、家康の暗殺を企てたとして改易され、常陸国の佐竹義宣に預けられた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い前の会津征伐の際、小山にいた家康に召し出され、前田利長を東軍へ勧誘する使者を務めた。のち、徳川秀忠に近侍し、再び野々市に1万石の所領を与えられた(布市藩)。慶長7年(1602年)1月2日、河内守となった。
 のち越中の所領は能登国石崎ほか同国内散在所領1万石(実高1万3000石)に替地された。慶長9年(1604年)、下総国多古(田子)に5000石が加増され、陣屋は田子に移された。晩年は秀忠の御伽衆となり、秀忠は外桜田の雄久邸にたびたび御成を行った。
 慶長13年(1608年)11月12日、56歳で死去。過多な喫煙による咽頭の病気が原因と伝える。神田の吉祥寺に葬られた(のち、この寺は駒込に移る)。長男・雄氏は既に伊勢国菰野藩1万2000石を領していたため、慶長14年(1609年)2月、雄久の遺領と家督は秀忠の小姓だった次男・雄重が継承した。三重県三重郡菰野町見性寺に位牌がある。 

 文禄3年(1594年)、豊臣秀吉に仕えて伊勢国内に3000石を与えられ、豊臣秀頼の近臣となった。慶長元年(1596年)には1万石の大名として諸侯に列した。しかし、慶長4年(1599年)、秀吉没後の覇権を狙う徳川家康とその軍師・本多正信が策した幻の家康暗殺事件に父が容疑者にされると、長男の雄氏も連座で罪に問われて父と共に常陸国の佐竹義宣預かりの身とされた。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い直前に家康から罪を許されて、その後は徳川氏の家臣となる。同年、近江国内に2000石を加増され、1万2000石の大名となり、菰野藩を立藩した。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方に与し、先陣として武功を挙げた。寛永12年(1635年)3月に隠居して、長男の雄高に家督を譲った。寛永15年(1638年)6月28日、56歳で死去。
 父・雄久も雄氏とは別に越中国布市藩(のち下総国田子藩)を立藩していたが、雄氏が庶子だったため父の所領は弟で嫡子の土方雄重が継いだ。 

土方雄高 土方雄豊

 初代藩主・土方雄氏の長男。初名は雄春。江戸で生まれたが、幼い頃に菰野へ送られ、そこで育てられた。寛永9年(1632年)に将軍・徳川家光に初御目見する。寛永12年(1635年)3月に父の隠居により家督を相続する。
 馬場や焔硝倉などを設置したり、家臣団の住居を定めたり、また商工業者を集めるなどして菰野陣屋やその城下の設備をすすめ、菰野藩諸法の制定も積極的に行った。また領内に見性寺を建立して、以後ここを土方家の菩提寺とした。さまざまな面で菰野藩政の基礎を築いたといえる。幕府の仕事としては院使や朝鮮通信使の饗応役をしばしば勤めている。
 慶安4年(1651年)9月8日に死去。享年40。家督は弟・氏久の3男・雄豊が継いだ。 

 寛永15年(1638年)、京都に生まれた。 慶安3年(1650年)5月11日に伯父にあたる第2代菰野藩主・土方雄高の娘と結婚してその養子に入った。慶安4年(1651年)9月に雄高が死去したため、承応元年(1652年)2月8日に家督を相続し、15歳にして第3代菰野藩主となった。寛文元年(1661年)12月13日にはじめて将軍徳川家綱に拝謁。28日に従五位下・備中守に叙任した。寛文2年(1662年)4月にはじめて領地菰野に入った。寛文3年(1663年)12月には江戸で火消し大名としての活躍し、将軍家綱からも表彰された。延宝7年(1679年)、官職を市正に改めた。延宝8年(1680年)に鳥羽藩主・内藤忠勝が刃傷事件のために改易に処された際には、雄豊が鳥羽城受け取り役に命じられ、志摩国鳥羽へ赴いた。
 天和3年(1683年)には院使饗応役を命じられているが、このとき赤穂藩主・浅野長矩が相方の勅使饗応役をつとめていた。指南役は吉良義央であった。この時に浅野と土方は親しくなったようで、浅野長矩の養子・浅野長広(長矩の実弟)は、土方雄豊の養女(雄豊の長男・豊高の娘)と縁組することになる。
 宝永2年(1705年)7月31日に死去。享年68。菰野の見性寺に葬られた。家督は長男・豊高が父に先立って死んでいたため、孫(豊高の長男)の土方豊義が継いだ。

土方雄年 土方義苗

 寛延4年(1751年)9月4日、第6代藩主・土方雄端の長男として生まれる。宝暦8年(1758年)、父の死去により後を継いで藩主となる。ところが、幼少のために政務が執れず、そのために家老や重臣らの中でも奸臣によって悪政が敷かれたといわれている。
 やがて成長すると、藩政の実権を取り戻すために緩んだ綱紀の引き締めを図る。家老を蟄居させ、重臣連中を追放、強制的に隠居させるなどして、藩政の実権を掌握したのである。さらに藩財政再建のために藩政改革を行うが、大坂や駿府の加番勤務、藩内における凶作などの天災から、藩財政は悪化の一途をたどった。
 このため、藩財政再建の打開策として、実子の土方義著を廃嫡して、当時幕府で権勢を誇っていた老中・田沼意次の6男・土方雄貞を養子として迎え、さらに継室に田沼意次の養女を迎えるなどして幕府との関係強化、並びにその後ろ盾による財政援助を得ようとした。しかしこれにより幕府に対する出費がさらに増大することとなり、さらなる財政難を招いてしまった。
 安永9年(1780年)10月8日、養子の雄貞に家督を譲って隠居する。しかし、なおも藩政の実権を掌握し、天明2年(1782年)に雄貞が早世すると、次の藩主は一族の土方義苗に継がせ、義苗が幼少であったことからなおも藩政を主導した。そして大大名並の派手な生活を送ったという。特に相撲好きで、度重なるほど相撲を興行して、寛政の改革で倹約令が施行されても、それを無視して派手な生活を送り、藩の借金を9800両にまで膨らませたとまでいわれている。
 寛政7年(1795年)7月20日に死去。享年45。

 

 安永7年(1778年)5月7日、第6代藩主・土方雄端の3男・木下俊直の次男として、江戸愛宕下の菰野藩上屋敷で生まれる。父が豊後日出藩木下氏分家の5000石の旗本家の養子になるとそれに従う。天明2年(1782年)12月19日、菰野藩で第8代藩主・雄貞(田沼意次の子であり、土方家の養子)の死去により、その末期養子として家督を継いだ。ただし幼少のため、藩政は隠居していた第7代藩主で伯父の雄年によって執り行なわれた。田沼家との血縁は、義苗の室に田沼意知の養女(意次の甥田沼意致の女)を迎えることで維持された。寛政8年(1796年)8月15日、将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月19日、従五位下・大和守に叙任する。
 寛政7年(1795年)、雄年が死去すると、藩政を主導する。雄年が生前に派手な生活を送って借金が重なり、藩財政が破綻寸前となっていたため、義苗はまず財政改革に乗り出した。臨時準備積立法を制定して年間225俵の米を1割2分の利子で13年間に1500両も積み立てた。さらに質素倹約や経費節減,灌漑工事,産業開発などを積極的に行った。特に倹約は厳しく取り締まり、その結果12年間で9800両の借金を1400両にまで削減したと言われている。こうした一連の緊縮財政政策により、財政再建は成功した。
 さらに民政においては、減税政策や目安箱設置による優秀な意見の採用を行い、教育面では学問を奨励して、後の藩校・修文館の前身となる私塾・麗沢書院の設立を行って人材の育成に努めた。
 天保6年(1835年)1月、長男の雄興に家督を譲って隠居する。しかし、その雄興が天保9年(1838年)に早世すると、孫の雄嘉に家督を継がせて、自らは藩政の実権を弘化2年(1845年)6月28日に死去するまで握り続けた。享年68。
 菰野藩中興の名君といわれている。 

土方雄永 土方雄志

 嘉永4年(1851年)3月21日、第11代藩主・雄嘉の長男として生まれる。安政5年(1858年)10月19日、父の死去により、家督を継いだ。しかし、父同様に病弱の上、幼少であったため、大叔父の土方義行が引き続いて補佐した。幕末期、はじめ菰野藩は佐幕派,尊王派で分裂して争った。慶応4年(1868年)2月27日、上洛して新政府の支持姿勢を明らかにした。その後、戊辰戦争では新政府の東征軍に協力している。
 明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還で藩知事となる。しかし病気のため、明治3年(1870年)9月17日、家督を養子の雄志に譲って隠居した。明治4年(1871年)10月15日、東京へ移る。
 明治27年(1884年)5月10日に死去した。享年34。

 

 安政3年(1856年)8月2日、第10代藩主・土方雄興の娘婿に当たる土方久己の長男として生まれる。久己(半三郎)は、菰野藩の分家近江の部田1千石の旗本。明治3年(1870年)8月22日、5歳違いの従兄の第12代藩主・雄永の養子となり、同年9月17日、病弱な雄永は隠居し、雄志が家督を相続する。同日、従五位に叙任し、知藩事に就任した。
 明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で藩知事を解任された。同年10月15日、東京へ移り、同年11月、英学を学ぶために慶應義塾に入学する。明治11年、工部省御用掛となった。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。貴族院子爵議員を明治23年(1890年)7月10日から同30年(1897年)7月10日まで在任。明治32年(1899年)、台湾総督府樟脳局書記などを務める。その後、再度、貴族院議員を大正7年(1918年)7月10日から大正14年(1925年)7月10月まで務める。
 大正14年(1925年)11月、甥で養子の雄武に家督を譲って隠居する。雄武の実父・土方久徴は雄志の14歳下の実弟で日本銀行第12代総裁。昭和6年(1931年)4月24日に死去した。享年76。
 雄武は戦後没落し、旧華族としては、蜂須賀氏,松浦董子と並び斜陽華族として有名である。 

土方雄重 土方雄隆

 土方雄久の次男。2代将軍・徳川秀忠の小姓を勤めていた。
 慶長13年(1608年)、父が死去すると家督は長兄・雄氏が継いだが、既に伊勢国菰野の大名として独立していたため、父の旧領の下総田子1万5000石は雄重が継ぐこととなった。
 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では酒井忠世の軍に属して功を挙げた。その功績により、陸奥国菊多郡1万石,能登国内に1万石の合計2万石の所領に加増移封され、窪田藩初代藩主となった。
 寛永3年(1626年)、徳川家光の上洛に従った。寛永5年(1628年)12月、37歳で死去した。

 寛永19年(1642年)、第2代藩主・雄次の次男として生まれる。万治2年(1659年)に徳川家綱と拝謁し、延宝7年(1679年)11月27日の父の隠居により後を継ぐ。このとき、弟の雄賀に2,000石を分与したため、1万8,000石となる。同時に従五位下・山城守に叙任し、天和元年(1681年)に伊賀守に叙任する。
 天和2年(1682年)、雄隆が帰国したときに家督問題が起こった。雄隆が次男でありながら家督を継げたのは、兄の雄信が病弱だったからである。しかし雄隆は子が無かった。このため、弟の貞辰を養子として後を継がせようとしたが、貞辰が家臣の林家に養子に入ったこともあり、家臣団は本来なら後を継いでいた雄信の子・土方内匠に後を継がせるように言い始めた。貞享元年(1684年)、雄隆はこれを受け入れて、内匠を養子にするために伴って参府した。しかし、家臣団が両派に分かれて対立し、貞辰は自分こそが家督を継ぐべきと幕府に盛んに運動する。おまけに雄隆の側室射殺事件まで起こす有様となり、これを知った幕府によって藩政が良くないとして貞享元年(1684年)7月22日、窪田藩は改易となり、藩主・雄隆は越後村上藩の榊原政邦預かりとなった。
 貞辰は伊勢久居藩の藤堂高通預かりとなり、内匠は八丈島へ流罪となった。家臣の多くや、騒動の仲裁を受けたがそのまま放置した筑後松崎藩主・有馬豊祐も連座して処罰された。
 元禄4年(1691年)に配所で死去。享年50。
 弟・雄賀に改易の4日後、兄の財産と江戸藩邸備蓄金5万両が与えられた。子孫は1,700石の旗本として存続する。