清和源氏

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水野忠清 水野忠職

 三河国刈谷に生まれる。慶長5年(1600年)、父が加賀井重望に殺された後、水野氏の家督は兄の勝成が継ぎ、忠清は徳川秀忠の家臣として仕えることとなった。同7年(1602年)、上野小幡に1万石の所領を与えられて大名となり、同年、従五位下に任官し隼人正を名乗った。同10年(1605年)には書院番頭に任ぜられ、奏者番を兼ねた。
 慶長19年(1614年)からの大坂の役では冬,夏の両陣とも参戦し、元和元年(1615年)の夏の陣では敵将・大野治房を破るという大功を挙げた。この際青山忠俊と行賞をめぐって争い、謹慎を命じられたが、翌2年、徳川家康死去の寸前に謹慎を解かれ、父忠重の過去の功績と大坂の役の軍功により、三河刈谷に移封された。
 寛永9年(1632年)に2万石を加えられて三河吉田4万石に移封され、同19年(1642年)には信濃松本7万石に加増移封された。正保4年(1647年)、江戸にて死去。享年66。墓所は東京都文京区小石川の伝通院。

 寛永11年12月(1635年1月)従五位下出羽守となる。正保4年(1647年)に家督を継いで松本藩主となり、徳川家綱に謁見する。慶安2年(1649年)領内の総検地を実施した(慶安5年まで続く)。また、同年江戸城の石垣普請を務めた後、承応元年(1652年)から承応3年(1654年)、万治元年(1658年)から万治2年(1659年)、寛文元年(1661年)から寛文2年(1662年)の3期に渡って大坂城代を務めた。同7年安中藩主水野元知が改易となり、その身を預ることとなった。
 江戸において56才で死去。後を次男・忠直が継いだ。

水野忠直 水野忠恒

 万治2年(1659年)8才で徳川家綱に謁見を許される。寛文6年(1666年)従五位下中務少輔となった後、寛文8年(1668年)、忠職の死去により家督を継ぎ、以後45年にわたり藩主を務める。
 貞享3年(1686年)、年貢1俵あたりの容量を3斗から3斗5升に引き上げる決定を行い、隣の諏訪藩・高遠藩との差が大きく生じることになり(これらの藩では2斗5升)、これに反発した中萱村の多田加助を主導者とする百姓一揆貞享騒動が起きる。結果的に、一揆を主導した28名を磔および獄門により極刑に処する。獄門により処刑された人の中におしゅんという16才の少女が含まれているが、女性を処刑するのは異例。多田加助の妻が宿していた男子まで獄門に処するようにするなど(結局病死のため獄門には処せられていない)、徹底した処罰を行った。
 松平光長の改易に際して越後国高田城の守備を務め、鳥居忠則の改易時には高遠城の収公にあたった。また宝永2年(1705年)には江戸近辺の河川工事に助力した功績をもって幕府より褒賞を与えられた。
 松本において62才で死去。墓所は松本市大村の玄向寺。

 江戸日本橋浜町邸で生まれた。嫡男ではなかったため後継者としての自覚も無く、日頃から酒色に耽って、みだりに弓矢を射たり鉄砲を撃つなどの奇行がたびたび見られたと伝わる。ところが、享保8年(1723年)に兄の水野忠幹が嗣子無きまま没したため、兄の遺言により松本藩主となった。藩主になってからも相変わらず酒に溺れて狩猟ばかりし、藩政は家臣任せだったと伝わる。また、普段から気の短い性格であったともされている。
 享保10年(1725年)、大垣藩主戸田氏長の養女(戸田氏定の娘)を娶り、7月21日に婚儀を行った。征夷大将軍徳川吉宗に婚儀報告をするため、同年7月28日に江戸城に登城して報告を済ませた。その城中にて、松の廊下ですれ違った長府藩世子の毛利師就に対して、唐突に斬りかかった。師就は鞘に入ったままの刀で応戦し、忠恒の刀を打ち落とした。忠恒は近くにいた大垣新田藩主の戸田氏房により取り押さえられ、目付の長田元鄰が反撃せんとする師就を押しとどめた。
 忠恒は自身に不行跡が多く、家臣に人気が無いため、自分の領地が取り上げられて師就に与えられることになると思ったので切りつけた、と供述したが、実際には幕府側にそのような転封予定の事実は無く、乱心したとされた忠恒はその罪で改易となり、川越藩の秋元喬房の下に預けられた後、叔父の水野忠穀の江戸浜町の屋敷に移されて蟄居させられ、そのまま同屋敷で没した。享年39。

水野忠穀 水野忠友

 甥の松本藩主水野忠恒が、享保10年(1725年)7月28日、長府藩世子(後に7代藩主)の毛利師就に対して刃傷沙汰を起こし、忠恒は改易となり、川越藩にお預けとなってしまう。しかし、家名存続を願う声が強く、同年8月27日、忠穀に相続は許されたが、信濃国佐久郡において7000石の旗本として辛うじて名跡を保つこととなった。その後、江戸屋敷に忠恒を預かっている。
 元文元年(1736年)1月28日に定火消、同年10月15日に書院番頭となる。同年12月16日には従五位下出羽守に叙任している。元文4年(1739年)3月15日に大番頭となり、後に大坂城の守衛となるが、寛保2年(1742年)に36歳で死去した。
 世子の忠友は、のちに田沼意次の元で加増を受け、大名に返り咲いている。

 水野家は水野忠恒(忠友の従兄)が刃傷事件を起こしたことで改易され、家督は忠恒の叔父・忠穀に相続は許されたものの、大名の身分を剥奪され、信濃佐久郡7000石の旗本として辛うじて名跡を保っていた。
 忠友は父死去に伴い12歳で家督を相続し、家治小姓,小姓組番頭格,御側衆を経て、若年寄となり、明和2年(1765年)に加増を受け都合1万3000石になり、三河大浜に城地を与えられ、再び大名に復活する。更に駿河沼津に移り最終的に3万石となる。
 幕府では一貫して田沼意次の重商主義政策を支え、若年寄,側用人,勝手掛老中格を経て正式な老中になる。天明6年(1786年)、意次失脚と同時に、忠徳と名乗らせ養嗣子としていた意次の子息を廃嫡とし、かわりに分家旗本の水野忠成を養嗣子としたが、遅きに失した感は否めず、松平定信の指令で免職の憂き目にあう。
 10年後の寛政9年(1797年)に再び老中(西丸付)に返り咲き、在職中の享和2年(1802年)9月19日に死去した。後を養嗣子の水野忠成が継いだ。

水野忠徳 水野忠成

 田沼意次の四男で、初代から3代の下村藩主の叔父に当たる。
 安永3年(1774年)7月27日、老中水野忠友と養子縁組し、その娘と結婚して水野忠徳と名乗る。安永4年(1775年)閏12月11日、従五位下中務少輔に叙任された。しかし、天明6年(1786年)9月5日、実父・意次の失脚により、養子縁組を解消されて田沼家に戻された。このとき、母方の姓である田代を称し、田代玄蕃と名乗っている。

 安永7年(1778年)水野忠隣の末期養子となり、忠隣の養女を娶って旗本2,000石・水野家を相続。吉太郎と称する。10代将軍徳川家治に仕え、小納戸役,小姓を歴任、天明5年(1785年)に従五位下大和守に任官。翌年、沼津藩主水野忠友の養子となり、その娘と再婚する。享和2年(1802年)忠友の死により、沼津藩を相続し奏者番に任命された。翌年には寺社奉行を兼務。以後、若年寄,側用人を歴任し、11代将軍徳川家斉の側近として擡頭する。
 文化14年(1817年)、いわゆる「寛政の遺老」(寛政の改革を主導した松平定信を後継した老中)松平信明の死を受けて、老中首座として就任。義父・水野忠友は松平定信と対立した田沼意次派の人間であり、忠成もその人脈に連なる。忠成は、家斉から政治を委任されて幕政の責任者となったが、その間は田沼時代をはるかに上回る空前の賄賂政治が横行したとされる。庶民に「水野出て元の田沼となりにけり」と揶揄された。彼の執政時期は、爛熟した化政文化の全盛期であり、将軍職を退いた家斉が放漫な浪費を続けた大御所時代とも称された大量消費時代でもあった。家斉や、その実父の徳川治済(一橋徳川家当主)に取り入ることや、子だくさんであった家斉の子の諸大名家への養子縁組の斡旋、のちに天保の改革を行う同族水野氏の水野忠邦の登用などが実績として知られる。忠成は主君家斉の放埒を諫めることもなく、収賄と身びいきによる政治を行った政治家として、総じて後世の評価は低い。天保5年(1834年)2月、73歳で死去。3男・忠義が後を継いだ。

水野忠寛 水野忠敬

 文化12年(1815年)11月4日に家督を継いで旗本となる。天保12年(1841年)11月11日から江戸城西の丸に出仕し、天保14年(1843年)12月16日に従四位下、河内守に叙任する。弘化3年(1846年)8月12日に小姓頭取に任じられた。
 安政5年(1858年)に本家の第5代藩主である水野忠良が死去したため、その家督を継いで藩主となる。折しも幕府では第13代将軍・徳川家定の後継者をめぐって井伊直弼と徳川斉昭が対立していたが、忠寛は直弼に協力して徳川家茂擁立に貢献した。そのため、安政5年(1858年)10月9日には奏者番に任じられ、10月26日に出羽守に転任となった。安政6年(1859年)3月9日には側用人に任じられ、4月には下田の警備を免除されるなど、直弼から並々ならぬ恩恵を受けている。
 しかし桜田門外の変で直弼が暗殺され、さらに直弼によって追放されていた一橋派が幕政に復帰すると、直弼与党であるとして文久2年(1862年)5月29日、全ての職を辞職に追い込まれ、閏8月20日には養子の水野忠誠に家督を譲って隠居することとなった。明治7年(1874年)1月5日に死去。享年68。

  慶応2年(1866年)に本家の第7代藩主・水野忠誠が死去したため、その養子として家督を継いで藩主となる。慶応3年(1867年)4月4日に出羽守に叙任し、江戸城大手門番を務めた。慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では新政府に協力した。
 同年7月、徳川家達が東海に入ってきたため、上総菊間藩に移封となる。明治2年(1869年)3月4日に羽後守に転任する。6月19日には版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官となった。明治40年(1907年)8月17日に死去。享年57。