清和源氏

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水野忠増 水野忠定

 寛永18年(1641年)徳川家綱附きの小姓となる。慶安3年(1650年)には西の丸の徒頭に転任し廩米500俵を与えられ、儀式の際に布衣(無紋の狩衣)の着用を許される。明暦3年(1657年)小姓組番頭となり従五位下に任官し周防守を名乗る。万治2年(1659年)に兄の忠職から俵米5,000石を分知され、寛文4年(1664年)同国筑摩郡2200石,安曇郡2800石に替地となる。
 寛文元年(1661年)に書院番頭、寛文4年(1664年)に大番頭となるが、寛文11年(1671年)9月、黒書院への出御がたびたび遅れる件について改善を促されたが聞かず、発言も不遜であるとして大番頭を解任させられ、閉門となった。寛文12年(1672年)12月、赦免されて寄合に列する。延宝6年(1678年)、大番頭に復帰。天和2年(1682年)には幕府から丹波国氷上郡2000石を加増され、知行が7000石となる。元禄5年(1692年)には奥詰に任ぜられる。元禄7年(1694年)に江戸で没し、小石川伝通院に葬られる。長男の水野忠位が家督を相続する

 安房北条藩の初代藩主。忠位系水野家2代。伊勢桑名藩主・松平定重の九男。官位は従五位下、壱岐守。幼名は吉之助。
 正徳2年(1712年)5月、忠位の婿養子となり、同年12月に叙任する。正徳3年(1713年)9月16日、家督を継ぐ。享保4年(1719年)10月、大番頭となる。享保8年(1723年)3月に若年寄となり、無城大名となった。享保18年(1733年)6月、丹波国内で3000石を加増され、知行高が1万5000石となる。延享2年(1745年)9月からは徳川家重付の若年寄となる。
 延享5年(1748年)6月26日、58歳で死去し、後を次男の忠見が継いだ。墓所は東京都文京区小石川の伝通院。

水野忠順

 天保13年(1842年)、父の死去により家督を継いで第3代藩主となり、6月17日に壱岐守に遷任する。
 嘉永元年(1848年)に奏者番に任じられる。嘉永7年(1854年)1月に周防守に遷任し、文久2年(1862年)3月に肥前守に遷任する。藩政では困窮者救済のために米を与えたり、学問を奨励して藩校・修来館を創設している。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に恭順する。しかし4月、鶴牧藩内の市原郡五井村で五井村戦争が起こる。この不手際から明治元年(1868年)10月、安房国長狭や上総国夷隅,市原,埴生,長柄,山辺などの所領を上知され、代わって上総国市原,望陀両郡に新たな所領を与えられた。
 明治2年(1869年)の版籍奉還で鶴牧藩知事に任じられる。そして忠順は官制・軍制改革を主とした藩政改革を行なったが、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免官された。後に子爵となる。明治17年(1884年)12月9日に死去。享年61。