清和源氏

G603:浦野重遠  源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 水野貞守 G606:水野貞守

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水野忠政 水野信元

 明応2年(1493年)、水野清忠の次男として生まれる。幼名は牛息丸。
 はじめ尾張国の緒川城を中心として知多半島北部をその支配下においたが、天文2年(1533年)、三河国刈谷に刈谷城を築いた。織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城主松平広忠、形原城主松平家広などに娘を嫁がせて、領土の保全を図った。
 天文12年(1543年)7月12日、死去。享年51。墓所は愛知県東浦町緒川字沙弥田の乾坤院

 父・忠政の死去により、その家督を継ぎ、尾張国知多郡東部および三河国碧海郡西部を領した。忠政は松平氏と共に今川氏についていたが、松平家広,松平広忠に嫁いだ姉妹が離縁されていることから、忠政の死後家督を受け継いだ当初より織田信秀への協力を明らかにしていたと考えられる。織田信長とも良好な関係を築き、信長の村木砦の攻略に協力し、後に刈谷城外や石ヶ瀬など尾張南部および西三河の国境周辺において今川・松平軍と戦ったことが後世の記録よりうかがえる。しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの際は、これに直接参加した旨の記録がない。三方ヶ原の戦いでは信長の命を受け、自軍を率い甥の家康の救援に向かった。信元は篭城戦を主張し野戦にこだわる家康と対立したが、信元の判断は結果からみて正しかったと考えられる。野戦に敗れ浜松城に逃げ戻った家康を叱責し、憔悴した家康に代わり指揮を執り夜の浜松城に松明をたき鉄砲隊を配して武田軍を威嚇をして窮地を脱した。
 今川義元の死後、永禄4年(1561年)信長と家康が同盟(清洲同盟)を結ぶ際に、その仲介役として重要な役割を務めた。しかし、天正3年12月(1576年1月)佐久間信盛の讒言により武田勝頼との内通を信長に疑われ、三河大樹寺において殺害された。戦国期の尾張,三河に於いて独特の存在感を有し、個性的な活躍をみせた武将であったが、このような非業の死を遂げることとなった。墓所は愛知県刈谷市天王町の楞厳寺
 「松平記」が記す信元殺害の原因は、秋山信友が攻略した美濃国岩村城を天正3年(1575年)に信長が囲城した際、水野領から食料の調達に応じる者があり、これを聞いた佐久間信盛が信長に対して、信元の内通を訴えたというものである。

水野忠重 水野忠胤

 兄の信元に従って共に行動しており、家康に仕えて三河一向一揆の鎮圧に戦功をあげた。
 天正3年(1575年)、信元が武田氏との内通の嫌疑をかけられ織田信長に殺害された後、水野氏の家督を継いで信長に仕え、佐久間信盛の与力となった。天正8年(1580年)、信盛が信長の勘気に触れて追放された後は、信長の嫡男・織田信忠の与力となり、武田征伐などに参戦した。
 天正10年(1582年)、本能寺の変が起こったときは信忠と共に二条城にあったが、二条城から脱出して三河国刈谷に逃げ戻った。その後は織田信雄に属し、小牧長久手の戦いで徳川軍の先導役を務めた。信雄が羽柴秀吉と講和してからは秀吉に仕える。この時期嫡男の勝成が素行不良の果てに家臣を斬り殺して出奔したので、勝成を奉公構えとした。そのため勝成は秀吉への仕官話を潰され、以後十数年にわたって西国を流浪することになった。 慶長3年(1598年)に秀吉が没すると家康に従った。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与したが、本戦直前の7月、三河池鯉鮒において酒宴を催した際、酔って口論となった加賀井重望に殺害されてしまった。なお、墓所は息子の勝成と同じ広島県福山市の賢忠寺にある。

 三河水野藩主である。徳川家康の従弟に当たる。正室は織田信長の娘。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、兄の水野勝成と共に東軍に与して美濃曽根の砦の守備や大垣城攻めで功績を挙げた。このため、三河国内で1万石を与えられた。こうして大名として三河水野藩を立藩する。
 慶長14年(1609年)9月29日、遠江浜松藩主・松平忠頼を自宅に招いて茶会を開いていたが、忠胤の与力である久米左平次と服部半八郎の両名が囲碁(もしくは武道)の勝敗をめぐって口論、そして刃傷事件にまで及んでしまったのである。この争いを見て忠頼は両名の仲裁に入ったのだが、逆にその仲裁に対し左平次が忠頼を殺害してしまったのである。さらに徳川実紀では、忠胤が伏見城番を務めていたとき、配下の番士による悪行を取り締まれなかったこともあったという。これらの理由から、10月16日に忠胤は家康より切腹を命じられた。同時に三河水野藩も改易された。子の水野勝信は兄の勝成に引き取られて養子となり、後に徳川忠長に仕えた。

水野忠守 水野守信

 初め忠義、通称は清六郎で、また織部を称した。徳川家康の生母於大の方とは父母を同じくする兄弟であり、また大名家となった岡崎-唐津-山形水野家の祖である。
 兄水野信元と共に織田信長に仕え、信元が父水野忠政の跡を継いで刈谷城主となった後は、信元に代わって緒川城主となった。信元存命中は同じ一族として行動をともにしていたと考えられるが、天正3年の信元殺害の後の所在は不明である。一族と家臣が離散する中で、信元亡き後の水野家当主として緒川の地にとどまっていたとする考えもある。天正8年(1580年)に、末弟の水野忠重が刈谷を与えられて、旧領に復した際には、忠重を惣領とし、自らは緒川城を居所としていたらしい。その後緒川城を退去したとされるが、その時期や理由は不明である。
 緒川の地を去ると同時に徳川家康に仕え、天正18年(1590年)の家康の関東移封に際して相模国玉縄城主となった。
 天正4年(1576年)生まれの子、水野忠元は幼少から徳川秀忠に仕え、はじめ相模国に采地を与えられたが、忠守はその相模・沼目郷(伊勢原市)に隠居し、慶長5年に76歳で亡くなった。墓所は愛知県東浦町の乾坤院。

 江戸時代の旗本、大目付。従五位下、河内守。兄に新七。母は、側室の北小路公頼の娘菊とも、水野信元の娘とも。
 母の菊と祖父の公頼の養育される。徳川家康に仕え、上杉征伐に従軍。旗本として3500石を賜る。慶長10年(1605年)の徳川秀忠上洛の際には供をしている。書院番を務め、元和3年(1617年)には、使番となり、寛永3年(1626年)、長崎奉行に就任。キリシタンの取締りを強化し、踏み絵を考案したのも守信といわれている。寛永5年2月2日、大坂町奉行、寛永6年2月6日より堺奉行を兼任する。寛永9年12月17日、秋山正重、柳生宗矩、井上政重とともに総目付に任じられた。これが大目付の起源である。寛永11年1500石を加増される。法名は全叟宗元。自身が開基した京の嵯峨天龍寺の塔頭永明院に葬むられる。

水野守政 水野元興

 江戸時代の旗本。寛永8年(1631年)2月15日、将軍徳川秀忠に拝謁する。寛永14年(1637年)12月8日、守信の没後に家督を継ぐ。
 万治2年(1659年)8月21日、永井直孟とともに定火消に任命され、12月28日布衣を着ることを許される。延宝元年(1673年)4月14日、持筒頭となり、延宝4年(1676年)3月4日、百人組頭となる。天和2年(1682年)4月21日、700石加増され、計5700石となる。封地は、河内国交野,丹南,錦部,近江国野洲,栗太,蒲生,甲賀の8郡。貞享2年(1685年)12月29日、大目付に就任し、従五位下伊豆守に叙任する。
 貞享4年(1687年)8月21日留守居となる。元禄元年(1688年)3月10日、罪を得て小普請に落とされ、出仕を止められる。元禄2年(1689年)6月4日許される。正徳5年(1715年)に93歳で没し、家督は養子の水野忠慎(荒尾帯刀某の子)が継いだ。

 三方ヶ原の戦いで家康の配下となった元興がこの戦いで亡くなったとされる。その子、元教の妻は水野信元の娘で、信元殺害後は尾張・知多に蟄居するが、子孫は徳川義直に仕えた後、徳川家宣の右筆、御家人を経て、明和5年(1768年)徳川家治の時代に旗本となっている。