G603:浦野重遠 | 源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 水野貞守 | G606:水野貞守 |
リンク | G607・G608・G610・G611 |
水野忠政 | 水野信元 |
---|---|
明応2年(1493年)、水野清忠の次男として生まれる。幼名は牛息丸。 |
父・忠政の死去により、その家督を継ぎ、尾張国知多郡東部および三河国碧海郡西部を領した。忠政は松平氏と共に今川氏についていたが、松平家広,松平広忠に嫁いだ姉妹が離縁されていることから、忠政の死後家督を受け継いだ当初より織田信秀への協力を明らかにしていたと考えられる。織田信長とも良好な関係を築き、信長の村木砦の攻略に協力し、後に刈谷城外や石ヶ瀬など尾張南部および西三河の国境周辺において今川・松平軍と戦ったことが後世の記録よりうかがえる。しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの際は、これに直接参加した旨の記録がない。三方ヶ原の戦いでは信長の命を受け、自軍を率い甥の家康の救援に向かった。信元は篭城戦を主張し野戦にこだわる家康と対立したが、信元の判断は結果からみて正しかったと考えられる。野戦に敗れ浜松城に逃げ戻った家康を叱責し、憔悴した家康に代わり指揮を執り夜の浜松城に松明をたき鉄砲隊を配して武田軍を威嚇をして窮地を脱した。 |
水野忠重 |
水野忠胤 |
兄の信元に従って共に行動しており、家康に仕えて三河一向一揆の鎮圧に戦功をあげた。 |
三河水野藩主である。徳川家康の従弟に当たる。正室は織田信長の娘。 |
水野忠守 |
水野守信 |
初め忠義、通称は清六郎で、また織部を称した。徳川家康の生母於大の方とは父母を同じくする兄弟であり、また大名家となった岡崎-唐津-山形水野家の祖である。 |
江戸時代の旗本、大目付。従五位下、河内守。兄に新七。母は、側室の北小路公頼の娘菊とも、水野信元の娘とも。 |
水野守政 |
水野元興 |
江戸時代の旗本。寛永8年(1631年)2月15日、将軍徳川秀忠に拝謁する。寛永14年(1637年)12月8日、守信の没後に家督を継ぐ。 |
三方ヶ原の戦いで家康の配下となった元興がこの戦いで亡くなったとされる。その子、元教の妻は水野信元の娘で、信元殺害後は尾張・知多に蟄居するが、子孫は徳川義直に仕えた後、徳川家宣の右筆、御家人を経て、明和5年(1768年)徳川家治の時代に旗本となっている。 |