徳川吉宗の側衆であった父・意行の次男として生まれる。吉宗が幕政を主導するために引き入れた紀州系幕臣としては第2世代に当たる。1732年(享保17年)に徳川宗尹の小姓となる。1736年(元文元年)に200俵取りとなり、後の御三卿の一つとなる一橋家に死去まで仕えることとなる。1746年(延享3年)、一橋家附切となる。1759年(宝暦9年)に知行500石となり、2月9日には一橋家の家老に昇進、従五位下・能登守に叙任した。1770年(明和7年)に300石を加増され、800石の旗本となった。意誠が長く勤めた一橋家家老職には、1779年(安永7年)7月28日に子の意致が目付から就任している。 田沼時代に権勢を誇った田沼意次の弟であり、意誠と子の意致はともに一橋家家老を歴任した。薩摩藩は1762年(宝暦12年)2月に焼失した江戸上屋敷再建のために、幕府より拝借金を得ようとしたが、この時には意誠を通じて一橋家へ工作を行った。仙台藩の伊達重村が中将への昇進工作をした時に1765年(明和2年)6月30日に重村の側役・古田良智が田沼意次の用人・井上寛司に面会したときにも意誠が仲介を依頼されていた。1770年(明和7年)に福井藩に対して大坂の大名貸し商人15軒から貸付が行われた件(目標の3万両は達成できず)は大坂町奉行所の強い斡旋があり、これは福井藩が一橋家へ運動を行った結果であり、意次に通じる弟意誠のパイプが利用されていたと考えられる。
|
1774年(安永3年)に家督を継ぎ、将軍・徳川家治の子の徳川家基について、西丸目付となる。1779年(安永7年)に一橋家家老に就任する。徳川家斉の将軍就任に力を尽くし、1781年(天明元年)に夭逝した家基に代わり家斉が家治の世子となると、ほぼ同時の閏5月19日に意致は一橋家家老から小姓組番頭格・西丸御側取次見習いとなった。 しかし1787年(天明7年)、家斉の将軍就任後に田沼意次が失脚し、江戸における天明の打ち壊しを契機に田沼派が離縁や義絶より離脱したり排除された。この政局の中で意致も、1787年(天明7年)5月28日に御用御取次を罷免されて、菊の間縁詰となった。しかし意致は時を置いて再登用され、その後の辞意も慰留されている。
|