<藤原氏>北家 魚名流

F813:伊達朝宗  藤原魚名 ― 藤原鷲取 ― 藤原山蔭 ― 藤原中正 ― 藤原為盛 ― 伊達朝宗 ― 伊達行宗 F814:伊達行宗

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伊達行宗 伊達宗遠

 南朝側の武将として各地を転戦した。建武の新政下で陸奥守として下向した北畠顕家に従い、同国の式評定衆の一人として奥羽行政の中枢に参画した。建武2年(1334年)に顕家が足利尊氏を追って西上したときには、奥羽諸将とともに従軍し、延元元年(1336年)に帰国した。この留守の間に北朝方の勢力が盛んになり、多賀国府が脅かされると、国府は伊達氏の勢力圏にある霊山に移った。延元2年(1337年)には、惨敗に終わる顕家の2回目の西上にも従った。顕家の死後は常陸伊佐郡の伊佐城に拠ったが、高師冬に攻められ降伏した。
 和歌にも通じており、『風雅和歌集』などにも入集した。和歌集での掲載名は藤原朝村。

 1380年頃から長井氏を攻め立てた。宗遠は周辺各氏との一揆契約や騙し討ちなどの謀略を駆使し、長井氏を確実に切り崩していった。結局1385年には長井氏は滅亡し、伊達氏は米沢を手に入れることになった。 1381年には大崎氏と戦い信夫郡,刈田郡,伊具郡,柴田郡を奪い、また、武石行胤を破り亘理郡も実質的な支配下に組み入れている。この時代には小沢氏,余目氏などと一揆契約を結んでいる。また、米沢の成島八幡宮の拝殿を改築している。
伊達政宗 伊達持宗

  天授3年(1377年)に家督を相続。天授6年(1380年)頃から父・宗遠と置賜郡に侵攻し、元中2年(1385年)には長井氏を滅ぼして、置賜を伊達氏の拠点とした。以降、奥州仕置まで200年余りにわたって置賜は伊達氏の支配下に置かれた。
 応永7年(1400年)に鎌倉公方・足利満兼が弟の満貞(稲村公方)と満直(篠川公方)を奥州に派遣して伊達家に対し領土割譲を求めてきたことを拒み、大崎氏などと同盟して鎌倉方の結城満朝(白河満朝)や上杉氏憲と戦った(伊達政宗の乱)。応永9年(1402年)鎌倉府との抗争により出羽国の諸氏(寒河江氏・白鳥氏など)に陸奥国苅田城を包囲される。同年出羽国高畑城に入り、応永12年(1405年)に同地で没した。
 事績から政宗は伊達家中興の祖と称えられるようになり、初代陸奥仙台藩主となる藤次郎政宗は、この中興の祖にあやかり命名された。

 

 諱には持宗のほか、別名として泰宗が伝わっており、名乗ったとすれば持宗より前と思われる。「持」の字は室町幕府4代将軍・足利義持から偏諱を賜ったものである。
 応永16年(1409年)、鎌倉公方が足利持氏に代替わりすると、足利満直(篠川御所)と持氏の関係が悪化したため、次第に満直は幕府と結びついて南奥諸氏を反持氏でまとめる工作を行っている。
 応永19年(1412年)、父の死により家督を継ぐと、応永20年(1413年)に鎌倉府(鎌倉公方・足利持氏)に対して反旗を翻し、篠川・稲村御所を襲撃する。怒った持氏は畠山氏(二本松氏)に持宗討伐を命じ大仏城を落とすが、当時は持氏と関東管領・上杉氏憲らの対立(上杉禅秀の乱)もあったため、鎌倉側は伊達氏を完全に討伐することができなかった(伊達持宗の乱若しくは伊達松犬丸の乱)。その後、持宗は幕府に帰順し、寺社造営などで功を挙げた。
 応永30年(1423年)~応永33年(1426年)の越後国の応永の大乱の際には、守護側から援軍を求められ黒川城を攻めている。応永33年(1426年)、居城を梁川城に移す。永享10年(1438年)の永享の乱では幕府側として鎌倉を攻め、結城合戦に端を発する足利満直の殺害に関与した。
 享徳の乱に際して、享徳4年(1455年)と長禄4年(1460年)に幕府から鎌倉府討伐の指令が下る。寛正3年(1462年)2度目の上洛をし8代将軍・足利義政に拝謁し、黄金三万疋を献上したという。
 応仁3年(1469年)に死去。享年77。

伊達成宗 伊達稙宗

  次男であったが、兄の義宗は庶長子であり跡を継げなかったため代わって嫡男とされ、父・持宗の後を受けて文明元年(1469年)家督を継いで当主となる。同時に奥州探題にも就任している。
 文明11年(1479年)冬、桑折播磨守を大将として寒河江氏に侵攻するものの寒さのため撤退し、翌文明12年(1480年)春再び攻め寄せる。伊達軍は寒河江荘奥深くに誘い込まれ、桑折播磨守が打ち取られ壊滅した(菖蒲沼の戦い)。
 文明15年(1483年)、上洛して足利将軍家に太刀23振,馬95頭,砂金380両,銭5万7000疋を献上している。これは伊達氏の実力を奥州随一として中央に認めさせることにもなった。長享2年(1488年)、大崎氏で内乱が起こると、正室が大崎氏出身という経緯から大崎氏の当主・大崎義兼を助け、これを当主として復帰させることに務めている。
 成宗の没年は詳しく分かっていないが、伊達氏の史書では長享元年(1487年)が有力視されている。この没年が正しいとすれば、前述した大崎氏の内乱に介入したのは成宗ではなく、その子の尚宗ということになる。また、伊達氏の代々の子孫は成宗の追悼の祭礼を行なっている。

 

  永正11年(1514年)、父の死去にともない家督を相続して第14代当主となる。同年、羽州探題・最上義定を長谷堂城にて破り、妹を義定の室として送り込み、実質的に最上氏を支配下に置く。永正14年(1517年)、第10代将軍・足利義稙の上洛祝賀のためとして多額の進物を送り、管領・細川高国を通じて一字拝領を願い出て許され、偏諱を受けて名を稙宗に改めるとともに、左京大夫に任官された。左京大夫は、元来奥州探題大崎氏が世襲する官位であったが、この官位を伊達氏が獲得したことは、大崎氏に名実共に取って代わったと認めさせたことを示している。稙宗はこのようにして中央との結びつきを家格上昇に利用するとともに、葛西氏,岩城氏などと争い、これに婚姻外交を織り交ぜて勢力の急激な拡大に成功した。
 永正17年(1520年)最上義定が嗣子のないまま死去すると、義定未亡人を介して伊達稙宗に影響力を行使されることを嫌った最上の諸将が反旗を翻し、伊達氏と最上氏の対立が起こる。稙宗は破竹の勢いで諸城を落とし、翌大永元年(1521年)寒河江を攻める。この時伊達軍は大軍を集結し、高瀬山から八幡原にかけて陣を敷いたことで、1ヶ月に及ぶ滞陣の間に伊達氏と寒河江氏の間で和議を結び、戦火を交えず伊達軍は引き上げた。この戦いにより最上郡及び村山郡南部は伊達氏の支配下に入った。
 大永2年(1522年)には室町幕府においては前例のない陸奥守護に補任された。
 天文元年(1532年)に居城を梁川城から西山城に移すと体制の強化に努め、天文2年(1533年)に『蔵方之掟』13条の制定を皮切りに、天文4年(1533年)の『棟役日記』、天文7年(1538年)の『御段銭帳』などの徴税台帳を作成。天文5年(1536年)には171条に及ぶ分国法・『塵芥集』を制定し、伊達氏の統治機構の拡充を図った。また同年には、大崎氏の内乱鎮圧のため、大崎義直の要請に応じ南奥州の諸侯を従えて出動し、その代償として2男・義宣を入嗣させる。この結果、奥州・羽州の両探題職を事実上伊達氏の統制下に置くことに成功した。
 ところが、3男・実元の越後守護・上杉定実への入嗣や、婿の相馬顕胤への伊達領割譲などの問題をめぐって長男・晴宗や桑折景長,中野宗時ら家臣団との対立を次第に深める、天文11年(1542年)6月、ついに鷹狩りの帰途を晴宗に襲撃され、捕えられた稙宗は西山城に幽閉されたが、程なくして小梁川宗朝により救出された。稙宗は奥州諸侯を糾合して晴宗と争う構えを見せたため、奥州全体を巻き込む形で天文の乱が勃発する。この争いは当初稙宗方が優勢だったが、天文16年(1547年)に味方であった蘆名盛氏が晴宗に寝返ったことで、一転して戦況が不利に傾き、天文17年(1548年)9月、将軍・足利義輝の仲裁を受けて晴宗に降伏する形で和睦し、家督を晴宗に譲って丸森城に隠居することを余儀なくされた。
 永禄8年(1565年)6月19日、丸森城にて死去。享年78。遺骸は自らが開基となった陽林寺に葬られた。小梁川宗朝が墓前で殉死している。

伊達晴宗 伊達輝宗

 永正16年(1519年)、14代当主・伊達稙宗の長男として誕生。天文2年(1533年)、室町幕府12代将軍・足利義晴の偏諱を受けて、晴宗と名乗った。
 天文11年(1542年)6月、父・稙宗がさらに勢力を拡大するため、越後国守護・上杉定実の養子に弟・時宗丸を出そうとしたことと、義兄・相馬顕胤に伊達領を割譲しようとしたことに反対し、重臣の中野宗時,桑折景長らと共謀して父を西山城に幽閉し、実元の養子縁組を阻止した。
 ところが、父・稙宗は小梁川宗朝によって西山城から救出され、さらに稙宗が奥州諸侯を糾合して晴宗と争う構えを見せたため、天文の乱が勃発した。この内乱は始め稙宗方が優勢で、晴宗方は敗戦続きであったが、天文16年(1547年)にそれまで稙宗を支持していた蘆名盛氏が田村氏や二階堂氏との対立により晴宗方に寝返ったことから形勢が逆転し、天文17年(1548年)3月に13代将軍・足利義藤の停戦命令を受けて、同年9月には晴宗方優位のうちに和睦が成立。晴宗が家督を相続して15代当主となり、稙宗は丸森城に隠居した。しかし、実際にはその後も父子の不和は収まらなかったとされる。
 当主となった晴宗は米沢城に本拠を移すと、天文の乱により動揺した伊達氏家臣団の統制に着手する。天文22年(1553年)1月17日には、『晴宗公采地下賜録』を作成し、天文の乱の最中に両陣営によって濫発された安堵状を整理して、新たに家臣団の所領と家格の確定を行い、同年には和睦を不服として抗戦を続けていた懸田俊宗・義宗父子を滅ぼした。しかし、中野宗時を始めとする天文の乱で晴宗方の主力を担った家臣には守護不入権などの様々な特権を付与せざるを得ず、晴宗政権は宗時らを中心に運営されていくこととなる。しかし、晴宗は6男5女(全て正室・久保姫の子)と子供に恵まれたが、岩城氏,二階堂氏との縁組を除いては伊達実元や小梁川盛宗など一族・重臣に娘を嫁がせている(晴宗の子女の奥州諸勢力との縁組の多くは晴宗の隠居後に輝宗によって遂行されたものであった)。
 天文24年(1555年)、幕府から奥州探題職に補任された。父・稙宗が陸奥守護に補任された際は大崎氏の奥州探題職を否定していないが、晴宗の補任は伊達氏の家格上昇を示すと共に、従来の幕府地方統治方針を変更するものだった。ただし、天文24年の晴宗の左京大夫補任と守護代である桑折景長への毛氈鞍覆と白傘袋の使用認可によって事実上の奥州探題には任じられてはいたものの、正式な奥州探題職の創設と晴宗の任命は永禄2年(1559年)5月以前であったとする説もある。これは伊達氏の探題就任については幕府も了承はしていたものの、幕府が探題格という既成事実を作った上で、実際に探題職に任命するという、慎重な手続を採用したことからであるとされている。
 永禄6年(1563年)の幕府により認可された全国大名衆50余名の中で、奥州(陸奥国)では蘆名盛氏と晴宗だけが大名として認められるという栄誉を受けている。
 永禄8年(1565年)、2男・輝宗に家督を譲って信夫郡杉目城に隠居した。ただし、この時点では依然として晴宗と中野宗時らが家中を統制していた。
 同年、蘆名盛氏が二階堂盛義(晴宗長女・阿南姫の婿)と対立し岩瀬郡に進攻すると、二階堂氏救援のために桧原を攻撃したが撃退され、永禄9年(1566年)に盛義が降伏すると、盛氏の嫡男・盛興に4女・彦姫(輝宗の養女となる)を嫁がせる条件で伊達・蘆名間でも和平が成立した。しかし、隠居の晴宗はこの縁組に反対して輝宗と対立、輝宗は彦姫を自分の養女として縁組を結んだ上で、万が一晴宗と輝宗が争った場合には盛氏が輝宗を援助する密約まで交わしたという。
 永禄8年6月19日(1565年7月16日)、伊具郡丸森城に隠居していた父・稙宗が死去すると相馬盛胤が丸森城を接収し、さらに伊具郡各所を手中に収めていく。このため天文の乱以来の伊達・相馬間での抗争が再燃し、以後およそ20年間わたって丸森城をめぐる攻防が展開されることとなる。
 隠居したとはいえ一向に実権を手放さない晴宗に対して、当主となった輝宗は不満を隠さず、両者の間にはしばしば諍いが生じていたが、永禄13年(1570年)4月、輝宗により中野宗時,牧野久仲父子が謀反の疑い有りとして追放される(元亀の変)と、実権は完全に輝宗の手に移り、晴宗は杉目城に閑居する。以後は父子の関係も改善され、晩年には杉目城に一門や家来衆を招いてたびたび宴会を催し、その席では孫の梵天丸(のちの伊達政宗)が和歌を披露したという。
 天正5年12月5日(西暦では翌1578年1月)、杉目城で死去。享年59。

 天文13年(1544年)9月、伊達晴宗の次男として伊達郡西山城に生まれる。母は久保姫。天文17年(1548年)、天文の乱が和睦によって終結し、父・晴宗は本城を置賜郡米沢城に移し、輝宗は母(久保姫)や兄弟共々米沢城に移り住んだ。
 永禄8年(1565年)、晴宗が隠居し、輝宗は家督を譲られ伊達氏第16代当主となる。輝宗はそのまま置賜郡米沢城に居を構えて羽越の境を守り、晴宗は妻の久保姫と共に信夫郡杉目城に移り住む。杉目城隠居は相馬氏や四本松の石橋氏との境を押さえるためでもあった。同年6月19日(7月16日)、天文の乱に敗れ伊具郡丸森城に隠居していた輝宗の祖父・伊達稙宗が78才で死去する。
 しかしこの時点では、家中の実権を隠居の晴宗と天文の乱に際して家中最大の実力者となった中野宗時,牧野久仲父子に握られていた。そのため、蘆名盛氏と和睦に際しては妹・彦姫を盛氏の嫡男・盛興に嫁がせ、その際には秘かに晴宗と輝宗が対立した際には盛氏が輝宗を支持する約束が交わされていたという。
 その後、輝宗は出羽国山形城主・最上義守の娘(最上義光の妹)・義姫を娶る。永禄10年(1567年)8月3日、米沢城で長男が生まれ、梵天丸と名付けられる。のちの伊達政宗である。
 永禄13年(1570年)4月、輝宗は家中の統制を図り、中野宗時に謀反の意志有りとして牧野久仲の居城・小松城を攻め落とし、中野父子を追放する。この際に輝宗に非協力的であったとして、小梁川盛宗,白石宗利,宮内宗忠らが処罰されている。同年、義姫の実家・最上家でも、義守・義光父子の間で抗争が始まると、輝宗は義守に与して義光を攻めたが、義姫が輝宗に対して撤兵を促したため兵を引いた。
 家中の実権を掌握した輝宗は、鬼庭良直を評定役に抜擢して重用し、また、中野宗時の家来であった遠藤基信の才覚を見込んで召し抱え、外交を担当させた。この両名を中軸とする輝宗政権は、晴宗の方針を引き継いで蘆名氏との同盟関係を保つ一方で、南奥羽諸侯間の紛争を調停した。また幅広い外交活動を展開し、天正3年(1575年)7月には中央の実力者である織田信長に鷹を贈ったのを始めとして、遠藤基信に命じて北条氏政,柴田勝家と頻繁に書簡・進物をやりとりして友好関係を構築した。また、天正5年12月5日(1578年1月12日)、信夫郡杉目城に隠居していた父・晴宗が59才で死去している。
 天正6年(1578年)、上杉謙信が没し御館の乱が勃発すると、輝宗は対相馬戦を叔父・亘理元宗に一任し、北条との同盟に基づいて蘆名盛氏と共に上杉景虎方として参戦したが、乱は上杉景勝方の勝利に終わり、蘆名・伊達軍は新発田長敦・重家兄弟の奮闘に阻まれて得るところが無かった。しかし、御館の乱における論功行賞において新発田勢の軍功が蔑ろにされ、さらには仲裁を図った安田顕元が自害するに及んで、天正9年(1581年)に重家が景勝に叛旗を翻すと、輝宗は盛氏の後継・蘆名盛隆と共に重家を支援し、柴田勝家とも連携して越後への介入を続けた。このため新発田の乱は7年にもわたる長期戦となった。
 一方、対相馬戦においては、相馬盛胤・義胤父子の戦上手さに苦しみ、戦局がなかなか好転しなかったが、天正7年(1579年)には田村清顕の娘・愛姫を嫡男・政宗の正室に迎えて相馬方の切り崩しを図り、天正10年(1582年)には小斎城主・佐藤為信の調略に成功すると、天正11年(1583年)5月17日、ついに天文の乱以降最大の懸案事項であった要衝・丸森城の奪還に成功し、翌天正12年(1584年)1月11日には金山城をも攻略した。伊具郡全域の回復が成ったことで輝宗は停戦を決め、同年5月に祖父・稙宗隠居領のうち伊具郡を伊達領、宇多郡を相馬領とすることで和平が成立した。ここに至って伊達家は稙宗の頃の勢力圏11郡余をほぼ回復し、南奥羽全域に多大な影響力を行使する立場となった。このことは、天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いで盟友・柴田勝家が羽柴秀吉に敗れて滅亡したことを受け、同年6月5日付の甥・岩城常隆に宛てた書状の中で、秀吉の勢力が東国に及ぶような事態に至れば奥羽の諸大名を糾合してこれに対抗する意思を示していることからも窺える。ただし、南奥のうち蘆名領南方および岩瀬郡,田村郡,楢葉郡より南の地域には秀吉と誼を通じる常陸国の佐竹義重が勢力を伸長して、天正9年(1581年)の御代田合戦で田村清顕に勝利し「奥州一統」と称する地域統合を実現させており、実際には佐竹翼下の諸大名については対秀吉戦に動員することは難しかったと考えられる。
 天正12年(1584年)10月6日、蘆名盛隆が男色関係のもつれから家臣に殺害されると、生後僅か1ヶ月で当主となった盛隆の子・亀王丸の後見となる。輝宗はこれを機に政宗に伊達家の家督を譲ることを決め、修築した舘山城に移った。以後、自らは越後介入に専念するつもりであったという。ところが、家督を継いだ政宗は上杉景勝と講和して伊達・蘆名・最上による共同での越後介入策を放棄したため、蘆名家中において伊達家に対する不信感を増大させるに至った。
 翌天正13年(1585年)春に、政宗は岳父・田村清顕の求めに応じて伊達・蘆名方に服属して田村氏から独立していた小浜城主・大内定綱に対して田村氏の傘下に戻れと命令した。田村氏は前年に大内氏との争いに際して輝宗より示された調停案を不服として従わず、大内氏に加勢した石川昭光,岩城常隆,伊達成実らの攻撃を受けており、輝宗の裁許に従ったまでであるとして定綱がこの命令を拒否すると、政宗は同年4月に大内氏に対する討伐命令を下した。定綱は蘆名盛隆未亡人にとりなしを求めたものの、政宗は5月に突如として蘆名領に侵攻し(関柴合戦)、これに失敗すると定綱とその姻戚である二本松城主・畠山義継へ攻撃を加えた。こうした政宗の急激な戦略方針の転換により、輝宗によって築かれた南奥羽の外交秩序は破綻の危機を迎えることになった。
 同年10月、畠山義継は政宗に降伏を申し入れ、輝宗と伊達実元の斡旋により、五ヶ村を除く領地召し上げの厳しい条件で和睦した。同月8日(1585年11月29日)に義継は調停に謝意を表すべく宮森城に滞在していた輝宗を訪れたが、面会が終わり出立する義継を玄関において見送ろうとした輝宗は、義継とその家臣に刀を突きつけられ捕えられた。同席していた成実と留守政景が兵を引き連れて遠巻きに追ったが、二本松領との境目にあたる阿武隈川河畔の高田原に至ったところで、輝宗が自分を撃てと叫ぶと、それが合図となって伊達勢は一斉射撃を行ったという。この銃撃で輝宗と義継を始めとする二本松勢は全員が死亡し、鷹狩中であった政宗が一報を受け現場に到着したのは既に全てが終わってからであったとしている(諸説あり)。享年42。輝宗の亡骸は寿徳寺(現・慈徳寺)で荼毘に付され、資福寺に埋葬された。この時、遠藤基信,内馬場右衛門,須田伯耆の3人が輝宗に殉死した。
 輝宗の死は、伊達家と近隣勢力との関係を一挙に悪化させた。殊に佐竹義重による本格的な奥州介入を招き、石川昭光を始めとする同盟勢力の離反、同年11月の人取橋の戦いでの苦戦、天正15年(1587年)3月の亀王丸没後の蘆名家継承問題における敗北などの様々な軍事的・外交的不利をもたらし、天正16年(1588年)の郡山合戦に勝利するまで、政宗は窮地の連続に追い込まれることとなった。

伊達政道

 通称の小次郎の名で知られており、「政道」とする名乗りを証明する当時の史料が現存せず、疑問視する学者もいる。永禄11年(1568年)頃、伊達輝宗の次男として誕生。母は最上義守の娘・義姫で、伊達政宗の同母弟にあたる。
 母の義姫は最上氏と対立した政宗よりも弟の小次郎を愛したため、伊達氏内部で政宗と小次郎による家督争いが起こったこともあるとされるが、輝宗は天正12年(1584年)には政宗に家督を譲っている。天正15年(1587年)、蘆名氏の後継者問題が起こると、小次郎が蘆名氏の当主として推薦されたが、蘆名氏の執権である金上盛備の策略によって、佐竹義重の子・蘆名義広が当主となった。
 天正18年(1590年)急死。兄弟対立の末に政宗によって殺されたといわれている。旧来の説では政宗が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣するため母の義姫の招きを受けて赴いたとき、義姫と小次郎によって政宗は毒殺されかけ、これがきっかけで政宗自ら政道を殺害したといわれているが、これは出典が江戸時代の書物『治家記録』であるため、後世の創作であるともいわれており、政道の死因については謎が多い。なお、死後長らく政宗によって7代の勘当と言い渡されて勘当状態にあり、寛政5年(1793年)に政宗から数えて8代目の当主・伊達斉村就任によってそれが解かれ、死後203年目にして法要が営まれた。