<藤原氏>北家 魚名流

F814:伊達行宗  藤原魚名 ― 藤原鷲取 ― 藤原山蔭 ― 藤原中正 ― 藤原為盛 ― 伊達朝宗 ― 伊達行宗 ― 伊達実元 F820:伊達実元

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伊達実元 伊達成実

 大永7年(1527年)、伊達稙宗の子として生まれる。幼名は時宗丸。縁戚である越後守護・上杉定実の養子に入ることになり(時宗丸の母が越後鳥坂城主・中条藤資の妹であることから選ばれたという)、定実から一字を拝領して実元と名乗るなど準備が進められた。 現在伊達氏の家紋として有名な「竹に雀」はこの時に名刀「宇佐美貞光」と共に実元に贈られた引出物である。
 ところが天文11年(1542年)、稙宗が越後に向かう実元に家中の精鋭100騎を随行させようとしていることを知った実元の兄・晴宗がこれに反発し、かねてから稙宗の政策に不満を抱いていた中野宗時,桑折景長ら重臣の支持を受けて稙宗を西山城に幽閉する。しかし、西山城からの脱出に成功した稙宗は晴宗に対して兵を向け、ここに南奥羽全域を巻き込んだ天文の乱が勃発した。
 実元は稙宗方に属して信達地方で奮戦したものの、乱が晴宗方の勝利に終わると実元は晴宗に降伏し赦免された。同時に越後でも入嗣反対派が抗争に勝利したため、実元の上杉氏への入嗣案は立ち消えとなった。
 乱後に晴宗が米沢城へと居城を遷すと、晴宗の2女を娶って大森城主となった実元が晴宗に代わって信達地方の統治を担うことになった。延宝7年(1679年)の「御知行被下置御帳」によれば、当時の実元の所領は信夫郡の内31ヶ村、名取郡の内2ヶ村であったという。甥・輝宗が当主となると、田村氏・相馬氏と戦い、隣接する畠山氏・大内氏ら近隣の小大名を伊達家の支配下へと組み込んでいった。
 天正11年(1583年)、嫡男・成実に家督を譲って八丁目城に隠居し棲安斎と号したが、隠居後も引き続き一門の長老として外交・調略に従事し、成実と共にたびたび政宗の苦境を救った。
 天正15年(1587年)4月16日、八丁目城にて死去。享年61。天保7年(1836年)、亘理伊達氏第12代当主・伊達宗恒によって大雄寺に実元の霊屋が建立された。この霊屋は、昭和49年(1974年)に成実霊屋,実氏霊屋と共に亘理町より文化財指定を受けている。

 永禄11年(1568年)、信夫郡大森城主・伊達実元の嫡男として生まれる。幼少の頃には、時宗の僧・了山和尚を師として学問を修めた。天正7年(1579年)、伊達輝宗が烏帽子親となり大森城にて元服。天正11年(1583年)、家督を継いで大森城主となり、伊達領南方の抑えを担う。
 天正13年(1585年)の人取橋の戦いでは、伊達勢が潰走する中にあって奮戦して政宗を逃がす。天正14年(1586年)には大森城から二本松城主へと移され、旧領の信夫・伊達両郡に換えて安達郡33ヶ村(およそ38,000石)の所領を与えられた。天正16年(1588年)の郡山合戦では、寡兵で蘆名義広の攻勢をしのぐ一方で大内定綱を調略して帰参させ、天正17年(1589年)の摺上原の戦いでは、突出した敵の側面を強襲して合戦序盤の劣勢を覆すなど、伊達勢の中核として活躍し数々の軍功を挙げた。『政宗記』によれば、人取橋の戦い後、渋川城に逗留していた折に、近習が誤って鉄砲用の火薬箱の中に火を落としてしまい、城が全焼した。この火事で成実は右手の指が全てくっついてしまうほどの大火傷を負い、生涯そのままだったという。
 天正18年(1590年)5月、政宗が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した際には、黒川城に残って留守居役を務めた。同年10月に発生した葛西大崎一揆鎮圧にも従軍したが、一揆煽動が露見して政宗が秀吉に上洛を命じられると、国分盛重と共に蒲生氏郷への人質として名生城に入った。天正19年(1591年)、政宗の岩出山城への転封にともない、成実は二本松に代わって角田城主・田手宗実の旧領である伊具郡16ヶ村・柴田郡1ヶ村を与えられ、居城を角田城へと移した。文禄元年(1592年)には文禄の役に従軍。帰国後は政宗に従って伏見の伊達屋敷に駐在した。文禄4年(1595年)6月4日、正室・亘理御前が伏見にて死去。同年8月24日には秀次事件に関する在京家臣団一同の誓詞に石川義宗に次いで2番目に署名している。
 ところがその後、伏見に居た成実は突如として伊達家を出奔し、角田城は政宗の命を受けた岩出山城留守居役の屋代景頼によって接収され(成実の家臣・白根沢重綱らの内報を受けた景頼が角田城を急襲したともいわれる)、この際に抵抗した成実の家臣・羽田実景ら30人余が討死し、成実の家臣団は解体された。ただ、この事件については出奔の理由など不明な点があまりにも多い。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、成実は上杉景勝から禄高5万石で家臣となるよう誘われたが、「本来ならば家臣筋の家に仕えるつもりはない」としてこれを拒絶した。また出奔中に大久保忠隣を介して徳川家康からも誘いを受けたが、政宗の奉公構により破談になったという。同年秋、伊達政景,片倉景綱らの説得によって帰参し、7月の白石城攻めにも石川昭光の軍に属して参加したといわれる。慶長7年12月30日(1603年2月10日)、白石城に移った片倉景綱に代わって亘理城(亘理要害)に入り、亘理郡のうち23ヶ村、611貫356文(6,113石)を拝領した。帰参後は政宗との関係も良好であったようで、政宗から成実への「別に用はないが、この頃逢っていないから手紙を書いた」という内容の書状も残されている。
 復帰後の成実は、慶長11年(1606年)の政宗の娘・五郎八姫と家康の6男・松平忠輝の婚礼の際の使者や、慶長19年から20年(1614~15年)にかけての大坂の役参陣、元和8年(1622年)の最上氏改易にともなう野辺沢城接収など数々の大役を担う。政宗没後、第2代藩主・忠宗の下でも家中の長老として重きをなし、寛永15年(1638年)、前年に藩内で発生した洪水への対策費用として幕府から銀5,000貫を拝借した件の御礼言上のため、忠宗の名代として江戸に赴いた。この時、饗応の席において奥羽での軍談を所望された成実は、仙道人取橋の合戦を物語り、御簾を隔てて聞いていた将軍・徳川家光に感銘を与えたという。
 こうした対外的役割を果たす一方で、成実は所領の開発・復興策を強力に推し進めた。農政面では灌漑設備の充実を図り、12世紀に開かれた旧来の岩地蔵用水の全面的改修に加え、伊具郡東小坂の取水口(小坂堰)から亘理郡八手庭に至る鳩原用水を新設した。また、沿岸部の耕作に適さない地域を活用するため、鳥の海の周囲4ヶ所(鳥屋崎浜・箱根田浜・長瀞浜・大畑浜)に塩田を開き、のちに宇多郡10ヶ村に計2,000石を加増された際には、新沼浦沿岸(今泉浜・今神浜)にも塩田を開いている。
 寛永21年(1644年)に行われた寛永総検地の結果を受けての知行再編において一門の所領の上限は2,000貫(20,000石)までに設定されたが、亘理領は算出された貫高が拝領時のほぼ倍額に達しており、二割出目を掛けて旧基準値の6分の5のに減らして計算してもなお2,000貫を超過したため、表面上は加増ながらも逆に知行地の一部を収公され、亘理郡のうち23ヶ村、宇多郡のうち10ヶ村、伊具郡のうち1ヶ村、胆沢郡のうち2ヶ村で計2,000貫とされた。なお、成実の代に実施されたこれらの施策によって、成実没後も新田開発はますます進み、亘理伊達氏の最終的な表高は2,435貫302文(24,353石)にまで達した。
 正保3年(1646年)2月9日、養嗣子・宗実に家督を譲り、同年6月4日に死去。享年79。墓所の大雄寺にある伊達成実霊屋は昭和49年(1974年)に実元霊屋,実氏霊屋と共に亘理町指定文化財となり、昭和54年(1979年)には伊達成実霊屋(附:木造彩色甲冑像)が宮城県指定有形文化財となった。
 明治12年(1879年)には、遺徳を慕う亘理郡民の呼びかけにより、亘理要害本丸跡に建てられた亘理神社に武早智雄命として祀られ、成実は今もなお亘理において深く敬愛されている。
 兜には毛虫をかたどった前立をつけていた。これは「決して後ろに退かない」という毛虫の習性にあやかったものだという。

伊達宗実 伊達基実

 慶長18年(1613年)、伊達政宗の9男として仙台に生まれる。幼名は喝食丸。母は側室・荘厳院。寛永2年(1625年)に元服し、寛永16年(1639年)に跡継ぎのいなかった亘理城主・伊達成実の養子となる。なお『伊達世臣家譜』には、成実の養子となる前に宮内常清の養子であったとしている。
 寛永21年(1644年)8月、領内総検地(寛永総検地)の結果を受けて知行の再編が行われることになったが、亘理領は成実の推し進めた開発の成果によって、二割出目(1反を360歩から300歩に改定)での計算ながらも、ほぼ倍近くの数字[1]が出たため、亘理伊達氏の知行は2,000貫ちょうどとされ、余剰分の16か村余を本藩に召し上げられることになった。仙台藩は地方知行制のため、知行の削減は所領の没収を意味し、さらにこの収公予定地に亘理郡内の一部と塩田が含まれていたこともあり、宗実は兄である藩主・忠宗に対して強硬に抗議したが、結局本藩から補償金を下すことを条件に所定の領地を返上した。
 正保3年(1646年)2月、成実の隠居にともない家督を相続する(成実は同年6月に死去)。承応2年(1653年)5月、宗実が荒浜湊にて宴を催していたところに、同地に駐在していた山形藩の足軽が乱入し狼藉に及んだため、宗実の小姓・柴田彦兵衛常氏(宗実の従弟)に斬られるという騒ぎがあった。山形藩はこの足軽を切腹させたが、喧嘩両成敗として常氏の切腹を要求した。そのため本藩から宗実に常氏を切腹させるよう通達したが、宗実はこの決定を不服とし、理不尽な処分を強行するならば出奔も辞さぬと頑として譲らなかった。しかし6月15日、主君に累が及ぶことを恐れた常氏とその父・常弘(宗実の叔父。生母・荘厳院の弟で宗実の後見役)の両名が切腹したため事件は決着した。
 寛文5年(1665年)6月5日死去。享年53。嫡男の宗成が家督を相続した。

 寛文3年(1663年)、亘理伊達氏第3代当主・伊達宗成の子として生まれる。幼名は千代松。寛文10年(1670年)、父・宗成の死去にともない、8歳にして家督を相続する。寛文11年(1671年)3月、大老・酒井忠清邸で刃傷沙汰(寛文事件)が発生すると、事件を起こしたとされる原田宗輔の母・慶月院(伊達政宗の娘。基実の大伯母)の身柄を預けられたが、慶月院は同年7月に絶食して自害したため、遺体を陽林庵の片隅に埋葬した。
 寛文13年(1673年)9月13日に元服し、藩主・伊達綱基の偏諱を受けて基実と名乗る。延宝3年(1675年)、伊東家の養子となっていた叔父・伊東重定が改易されると、身柄を預かって亘理領内の新地に閑居させた。
 延宝7年(1679年)7月9日に切添新田として亘理郡のうち295貫681文、宇多郡のうち81貫60文、あわせて376貫741文を加増され、所領は合計2,385貫302文となった。
 延宝9年(1681年)9月、先代の藩主綱宗の娘・夏姫を正室に迎えたが、翌天和2年(1682年)1月25日、仙台城下の亘理屋敷において疱瘡により死去した。享年20。
 基実には子がいなかったため、亘理伊達氏は断絶・減封の危機を迎えたが、母・清霄院らの訴えにより、岩出山伊達宗敏の2男・中村宗氏を基実の妹・虎乙の婿に迎えての完全相続が許され、亘理領は保全された(天和の訴願)。この時、亘理伊達氏が祖先実元・成実の功績を述べ立てて、亘理領の完全相続を求めた訴状の文面は、後に『亘理忠儀記』としてまとめられた(亘理町指定文化財)。

伊達実氏 伊達村好

 承応3年(1654年)、仙台藩一門岩出山伊達氏第2代当主・伊達宗敏の次男として生まれる。幼名は兵力。初めは伊達敏清と名乗ったが、延宝5年(1677年)1月に中村姓を下賜されると、名を中村宗氏と改めて別家を興し、一家の家格を与えられ100貫(1,000石)を分知された。
 天和2年(1682年)1月25日、亘理伊達氏第4代当主・伊達基実が跡継ぎの無いまま急死すると、本藩は基実の従弟・藤吉(亘理元篤)を跡取りとし、知行は1,000貫(10,000石)を残して召し上げるという裁定を下した。しかし基実の母・清霄院と亘理家中はこの裁定に猛反発して亘理領の完全相続を要求し、同時に藤吉の父である涌谷領主・伊達宗元(清霄院の兄)が幼少を理由に入嗣辞退を申し入れたこともあり、宗氏を基実の妹・虎乙の婿として当主に迎えたいと願い出て(天和の訴願)、2月11日にこの訴えが認められ、宗氏が亘理伊達氏第5代当主となった。
 宗氏は領内の統治に努め、元禄8年(1695年)には家臣団に黒印状を発給して知行を確定させた。宝永4年(1707年)に家督を嫡男・村成に譲り隠居した。実氏は鹿島村に屋敷を構え、亘理城下の末家に窯を築いて御庭焼を始めた。これが末家焼の起こりである。享保元年(1716年)、この年に将軍となった徳川吉宗の諱を避けて実氏と改名した。
 享保2年(1717年)7月8日死去。享年64。昭和49年(1974年)、大雄寺の実氏霊屋が実元霊屋,成実霊屋と共に亘理町より文化財指定を受けた。

 宝暦5年(1755年)、亘理伊達氏第7代当主・伊達村実の子として生まれる。幼名は英之介。明和4年(1767年)2月、亘理伊達氏第8代当主の兄・村純が隠居し、嫡子の兵力がまだ幼いため、中継養子として家督を相続し亘理邑主となる。同年3月、藩主・伊達重村の加冠により仙台城で元服し、偏諱を受けて村好と名乗る。領内に郷校日就館を設立し、学問の興隆に努めた。
 安永2年(1773年)、藩政混乱を招いた「葛西川島事件」が起こり、同年閏3月、騒動の裁決を藩主・重村に任された叔父・伊達村良により、騒動の首謀者の奉行(家老)川島行信,若老・葛西清興等が知行召上、一門の村好も隠居を命じられた。養子の兵力(村氏)に家督を譲り、世雲と号した。安永5年(1777年)、次男・広三郎(資氏)が誕生する。
 寛政7年(1795年)7月12日、死去。享年41。実子・資氏は準一家福原家を相続した。文化10年(1813年)奉行(家老)となる。

 

伊達邦成
 仙台藩領の亘理領主で、戊辰戦争では海道筋に出兵する。藩主・伊達慶邦の命により和平交渉を担い、講和への道筋をつくった。仙台藩降伏後、知行を23,853石から58石へと減らされたため、多くの家臣団を養うことが不可能になり、家老・常盤新九郎(田村顕允)の意見により1870年(明治3年)から数次にわたって家臣等を率いて北海道に移住、胆振国有珠郡(現在の伊達市)を開拓した。開拓の功により、1892年(明治25年)に勲四等瑞宝章を受勲、男爵に叙せられた。後に北海道開拓神社に祀られる。