<藤原氏>北家 魚名流

F814:伊達行宗  藤原魚名 ― 藤原鷲取 ― 藤原為盛 ― 伊達朝宗 ― 伊達行宗 ― 伊達政宗 F815:伊達政宗


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伊達政宗 五郎八姫

 伊達氏の第17代当主。仙台藩の初代藩主である。永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗と正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男として生まれた。幼名は梵天丸。生誕地は館山城とする学説もある。
 諱の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するため藤次郎政宗と呼ぶことも多い。
 天正7年(1579年)冬、政宗が13歳のとき、田村清顕の娘で当時11歳の愛姫を正室に迎える。
 天正9年(1581年)5月上旬、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で伊具郡に出陣、初陣を飾る。天正12年(1584年)10月、父・輝宗の隠居にともない家督を相続し、伊達家第17代当主となり、父と同じく米沢城を本拠とする。
 天正18年(1590年)の小田原征伐では、政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたという。政宗は秀吉に服属するが、遅参のため会津領を没収したされるが、伊達家の本領72万石は安堵された。この時、遅参の詰問に来た前田利家らに千利休の茶の指導を受けたいと申し出、秀吉らを感嘆させたという。この行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられている。
 文禄2年(1593年)、秀吉の文禄の役に従軍するが、従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において巷間の噂となった。これ以来、派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者」と呼ぶようになったと伝えられる。
 文禄4年(1595年)の豊臣秀次事件では、秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となり、この時母方の従姉妹にあたる最上義光の娘・駒姫が秀次の側室になるために上京したばかりであったが、秀次の妻子らと共に処刑されてしまう。政宗も秀吉から謀反への関与を疑われたが、湯目景康,中島宗求の直訴の甲斐もあって最終的には赦免された。ただし、在京の重臣19名の連署で、政宗が叛意を疑われた場合には直ちに隠居させ、家督を兵五郎(秀宗)に継がせる旨の誓約をさせられている。ただ、秀吉の死後、政宗と徳川家康は天下人であった秀吉の遺言を破り、慶長4年(1599年)、政宗の長女・五郎八姫と家康6男・松平忠輝を婚約させた。
 慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いが勃発。西軍の上杉家重臣・直江兼続が指揮を執る軍が東軍の最上氏の領内に侵入すると(慶長出羽合戦)、東軍に属した政宗は、最上氏からの救援要請を受けて叔父・留守政景が指揮する3千の兵を派遣し、9月25日には茂庭綱元が上杉領の刈田郡湯原城を攻略した。
 関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許可を得た政宗は慶長6年(1601年)、居城を仙台に移し、城と城下町の建設を始めた。ここに伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。伊達家の石高62万石は全国第5位であった。また、政宗は仙台藩とスペイン帝国との通商を企図し、慶長18年(1613年)、軍艦サン・ファン・バウティスタ号(ガレオン船)を建造し、家臣・支倉常長とフランシスコ会の宣教師のルイス・ソテロを外交使節に任命し、慶長遣欧使節団(一行180余人)をローマへ派遣した。日本人がヨーロッパへ政治外交使節を派遣したのはこれが史上初、日本人で太平洋と大西洋を横断した人物は支倉常長が日本史上初であった。
 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では大和口方面軍として布陣した。和議成立後、伊達軍は外堀埋め立て工事の任にあたる。その年の12月、将軍・秀忠より伊予国宇和郡に領地を賜り、後に庶長子の秀宗による宇和島藩の立藩となった。翌年、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、道明寺の戦いで後藤基次らと戦った。基次は伊達家家中・片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したといわれる。また、5月7日の天王寺の戦いでは政宗は船場口に進軍し、明石全登隊と交戦していた水野勝成勢の神保相茂隊270人を味方討ちにしたといわれている。
 元和元年9月(1615年)には娘婿松平忠輝が家康の勘気を蒙った。家康は政宗に面会の意向を伝え、政宗は2月22日に駿府城に向かった。政宗と面談した家康は、忠輝が政宗は大坂方に通じていると讒言してきたと語った。対談後、家康は疑いを解き、秀忠のことを守るよう遺命した。後に将軍を辞した秀忠はこのことを政宗に語り、政宗に家光をもり立てるよう遺命したという。同年4月に家康が亡くなると松平忠輝は改易となり、忠輝に嫁いでいた長女の五郎八姫は離縁して実家へ戻った。
 世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、のちに貞山堀と呼ばれる運河を整備した。北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。この結果、仙台藩は表高62万石に対し、内高74万5千石相当(寛永惣検地)の農業生産高を確保した。文化的には上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、国宝の大崎八幡宮,瑞巌寺、また鹽竈神社,陸奥国分寺薬師堂などの建造物を残した。さらに近江在住の技師・川村孫兵衛を招き、北上川の河口に石巻港を設けた。これにより北上川流域水運を通じ石巻から海路江戸へ米を移出する体制が整う。寛永9年(1632年)より仙台米が江戸に輸出され、最盛期には「今江戸三分一は奥州米なり」と『煙霞綺談』に記述されるほどになる。
 将軍・家光の治世になると、実際に戦場を駆け巡っていた武将大名はほとんどが死去していた中、政宗は高齢になっても江戸参府を欠かさず忠勤に励んだことから、家光は政宗を「伊達の親父殿」と呼んで慕っていた。時に家光に乞われて秀吉や家康との思い出や合戦の事など、戦国時代の昔話をしたという。
 健康に気を使う政宗だったが、寛永11年(1634年)頃から食欲不振や嚥下に難を抱えるといった体調不良を訴え始めていた。寛永13年(1636年)4月18日、母の菩提寺保春院に詣でたのち、経ヶ峯では、かたわらの奥山常良に向かって、死後はこの辺に葬られたいものだと杖を立てて指示をしたという。参勤交代で江戸に入った頃には絶食状態が続いたうえ、腹に腫れが生じていた。家光も5月21日に伊達家上屋敷に赴き政宗を見舞っている。
 5月24日卯の刻(午前6時)死去。享年70(満68歳没)。死因は食道噴門癌による癌性腹膜炎であるとされている。臨終の際、妻子にも死に顔を見せない心意気であったという。5月26日には嫡男・伊達忠宗への遺領相続が許された。遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀,石灰,塩を詰めたうえで駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列により6月3日に仙台へ戻った。殉死者は石田将監ら家臣15名、陪臣5名。江戸では7日間、京都では3日間にわたって魚鳥を捕まえることと音曲を奏でることが止められた。
 辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」

 文禄3年(1594年)6月16日、京都の聚楽第屋敷にて生まれた。政宗と正室の愛姫との間に結婚15年目にして初めて授かった待望の嫡出子であり、当然夫妻は伊達家後継者となる男児誕生を熱望していたであろうが、生まれたのは女児だった。このため、男子名である五郎八しか考えていなかった政宗が、そのまま五郎八姫と命名したといわれている。
五郎八姫は、聚楽第から伏見,大坂と各地を転々としたが、慶長4年(1599年)1月20日に有力大名との関係を深めようとする家康の策謀の一つとして、徳川家康の6男・松平忠輝(越後高田藩初代藩主)と婚約することとなる。慶長8年(1603年)には伏見から江戸に移り、慶長11年(1606年)12月24日に忠輝と結婚した。忠輝との仲は睦まじかったが子供は生まれなかったと言われている。そして元和2年(1616年)、忠輝が改易されると離縁され、父の政宗のもとに戻り、以後は仙台で暮らした。このとき、仙台城本丸西館に住んだことから、西館殿とも呼ばれた。寛文元年(1661年)5月8日、死去。享年68。墓所は松島の天隣院。
 たいへん美しく聡明であり、父・政宗を「五郎八姫が男子であれば」と嘆かせたほどであった。聡明な五郎八姫を弟であり仙台藩2代藩主の忠宗も頼りにしていたという(2人は共に愛姫との子)。
 生母の愛姫が(一時期)キリシタンだったことから、五郎八姫もキリシタンだったと言われている。彼女が忠輝と離婚した時は20歳代前半の若さであり、父・政宗や母・愛姫は愛娘の五郎八姫を心配し再婚を持ちかけたが、五郎八姫は断り続けていたといわれている。両親や周囲にいくら勧められても終生再婚しなかったのは、教義上「離婚」を認めないキリシタンの信仰ゆえ、とも考えられる。

伊達忠宗 伊達綱宗

 慶長12年(1607年)、この年誕生した徳川家康の5女・市姫との婚約が成立したが、市姫は3年後に夭逝したため、代わりに池田輝政の娘・振姫(家康の孫娘)が徳川秀忠の養女として嫁いだ。
 寛永13年(1636年)5月、父・政宗の死去にともない家督を相続する。忠宗は同年8月に藩主としての初入部を果たすと、ただちに藩政の執行体制を決定した。まず、他藩の家老にあたる奉行職6人のうち石母田宗頼,中島意成,茂庭良綱,奥山常良の4人は留任させ、津田景康,遠藤玄信に代えて津田頼康(景康の子),古内重広を新たに加えた。さらに、これまで単任制で奉行を指導・監督する立場にあった評定役を複数人制に改めて奉行の補助機関へと役職内容を変更し、津田景康,遠藤玄信,片倉重綱,古内義重,鴇田周如の5名を任命した。このほか、監察を担当する目付役7名を任命し、翌年には家中における私成敗を禁止するなどの条項を含む法度を制定して、藩内の統制を強化した。
 財政面では、寛永17年(1640年)から同20年(1643年)にかけて寛永総検地を実施する。それまで仙台藩では1反=360歩で計算していたものを全国標準の1反=300歩に合わせ(二割出目)、貫高制の換算基準を1貫=10石で固定して事実上石高制と同様にし、さらに検地の結果を受けて家臣団の知行地の大規模な再編を行った。また、領内の余剰米を藩が買い上げ江戸に運んで売捌く買米制を実施する。忠宗の代における買米制は非強制かつ代金先払いであったため、農民にとっても有益であり、買米代金は「御恵金」と呼ばれ、さらなる新田開発を促す原動力となった。
 寛永16年(1639年)には政庁として使用するため仙台城に二の丸を造営したほか、寺社建築も幅広く行い、寛永14年(1637年)に政宗を祀るため瑞鳳殿・瑞鳳寺を建立、寛永17年に白山神社の社殿を建てた。寛永20年に満福寺を創建、慶安2年(1649年)に火災で焼失した孝勝寺を再建、翌慶安3年(1650年)には愛宕神社を建立、承応3年(1654年)には東照宮を6年かけて勧請・遷宮した(仙台東照宮)。承応4年(1655年)に仙台東照宮の祭礼で行われた仙台祭は現在の仙台・青葉まつりの元になっている。
 万治元年(1658年)7月12日死去、享年60。古内重広らが殉死した。嫡男・光宗が正保2年(1645年)に早世していたため、家督は6男の綱宗が相続した。3男の田村宗良は母・愛姫の遺言で田村氏を再興、第4代藩主・綱村の代に岩沼藩を分知され大名となった。 

 2代藩主・伊達忠宗の6男として誕生する。母は側室の貝姫。幼名は巳之介。母が後西天皇の母方の叔母に当たることから、綱宗と後西天皇は従兄弟関係になる。
 貝姫は早くに病没したため、父・忠宗の正室である振姫の養子となった。6男であったが、正保2年(1645年)の兄・光宗の夭折により嫡男となり、忠宗から自身の後継者と3代将軍・徳川家光に披露された。承応3年(1654年)に元服し、4代将軍・徳川家綱から一字を拝領して綱宗と名を改めるとともに従四位下・美作守となる。万治元年(1658年)7月に父が亡くなり、9月に幕府から家督相続の許しを受けたことで仙台藩3代藩主となる。
 綱宗は若年で家督を継いだが、酒色に溺れて藩政を顧みない暗愚な藩主とされている。さらには叔父に当たる陸奥一関藩主・伊達宗勝の政治干渉、そして家臣団の対立などの様々な要因が重なって、藩主として不適格と見なされて幕命により万治3年(1660年)7月18日、不作法の儀により21歳で隠居させられた(綱宗隠居事件)。家督は綱宗の2歳の長男・亀千代(後の伊達綱村)が継いだ。
 この間の経緯であるが、池田光政(岡山藩主),立花忠茂(筑後柳河藩主),京極高国(丹後宮津藩主)ら伊達家と縁戚関係にある大名や伊達宗勝が相談しあい、老中・酒井忠清に願い出て、酒井に伊達家の家老らをきつく叱らせ、綱宗に意見してもらうことで一致したが、綱宗は酒井の強意見に耳を貸さなかったため、光政や宗勝らは7月9日に綱宗の隠居願いと亀千代の相続を願い出て7月18日に「無作法の儀が上聞に達したため、逼塞を命じる」との上意が綱宗に申し渡されている。なお、7月19日には宗勝の命令で綱宗近臣の渡辺九郎左衛門,坂本八郎左衛門,畑与五右衛門,宮本又市の4人が成敗(斬殺)された。
 綱宗自身はその後、品川の大井屋敷に隠居し芸術に傾倒していったといわれる。綱宗が酒色に溺れ、わずか2歳の長男・綱村が藩主となったことは、後の伊達騒動のきっかけになった。
 実際の綱宗は風流人で諸芸に通じ、画は狩野探幽に学び、和歌,書,蒔絵,刀剣などに優れた作品を残した。特に絵画の評価は専門の絵師にも引けを取らないとされ、綱宗作の「絹本著色霊昭女・牡丹・芙蓉図」や「花鳥図屏風」は仙台市博物館に所蔵されている。
 正徳元年(1711年)、江戸で没した。享年72。遺体は仙台に運ばれ、祖父・政宗、父・忠宗が眠る経ヶ峯に葬られた。綱宗の墓所は善応殿と呼ばれた。第二次世界大戦中の仙台空襲で、政宗の墓所・瑞鳳殿、忠宗の墓所・感仙殿と共に焼失した。昭和56年(1981年)から再建のための学術調査が行われ、その結果、綱宗は身長155cm、血液型はA型で、死因は歯肉癌であることが明らかになった。また、副葬品には文房具が多く、綱宗の芸術好きが色濃く現れている。綱宗の血筋は3男・宗贇が家督を継いだ宇和島伊達家へ受け継がれていく。

伊達綱村 伊達吉村

 万治2年(1659年)3月8日、伊達綱宗の嫡男として生まれる。幼名は亀千代丸。元服の際は父と同じく将軍・徳川家綱より偏諱を与えられて、初め綱基、後に綱村と名乗った。
 万治3年(1660年)、父・綱宗が隠居させられたため、わずか2歳で家督を相続した。綱宗の叔父に当たる一関藩主・伊達宗勝や叔父に当たる岩沼藩主・田村宗良などが後見人となった。しかし、家中では父の時代から続く家臣団の対立や宗勝の専横などが続き、伊達氏の家中は混乱が続いた。しかも寛文6年(1666年)には、綱村自身が何者かの手(宗勝の側近)によって毒殺されかけるほどであった。このような混乱続きの中、寛文11年(1671年)に伊達騒動(寛文事件)が勃発し、伊達氏は改易の危機に立たされたが、綱村自身が若年であったことから幕府の裁定ではお咎めなしとされ、宗勝ら関係者が処罰されることとなった。こうして、仙台藩は改易の危機から免れた。
 その後、綱村は自ら政務を執り始める。まず防風林を設け、運河を開発するなどの治績で大きな成果を収めた。また、儒学を学び、多数の学者を招聘して藩史の編纂に尽力した。さらに仏教に帰依して寺院の建立、神社の造営に尽力し、元禄2年(1689年)から3年(1690年)にかけて日光東照宮修復総奉行・井伊直興の御手伝として東照宮の修復を果たすなど「仙台藩中興の名君」と讃えられた。しかし、寺院や神社の造営など、様々な改革を行なったことがかえって藩財政を逼迫させることとなり、これを解決しようと天和3年(1683年)に藩札の発行を行ったが、かえって物価の高騰を招き、仙台藩の財政はさらに悪化の一途をたどった。
 元禄6年(1693年)、藩主・綱村中心の専制政治に対し、伊達一族は反発、諌言に及ぶ。そのため、綱村は謝罪状をしたためる。元禄10年(1697年)秋、綱村の政治姿勢は改まらず、家臣団は藩主の強制隠居を計画するものの、親族の稲葉正往らの反対で挫折する。元禄16年(1703年)、養嗣子で従弟の吉村に後を譲って隠居した。
 平泉にある源義経ゆかりの高館・義経堂は、天和3年(1683年)に綱村によって建立された。
 享保4年(1719年)6月20日、死去。享年61(満60歳没)。大正13年(1924年)に従三位を追贈されている。

 はじめ仙台藩一門宮床伊達氏第2代藩主。仙台藩で初の一門出身で賜姓伊達氏出身の藩主であり、歴代仙台藩主中、最長在職の藩主。就任時点で破綻状態にあった仙台藩の財政を建て直したことから、仙台藩「中興の英主」と呼ばれる。延宝8年(1680年)6月28日、宮床伊達氏初代当主・伊達宗房(仙台藩第2代藩主・伊達忠宗の8男)の嫡男として生まれる。幼名は助三郎。
 貞享3年(1686年)1月13日、父の死により家督を相続。元禄3年(1690年)12月、元服し、従兄で藩主の伊達綱村から偏諱を賜り村房と名乗る。元禄6年(1693年)の一門による藩主・伊達綱村への諫言書提出には年少のため名を連ねていない。
 元禄8年(1695年)3月、一関藩主・田村建顕の養嗣子に迎えられることになると、一家・小梁川氏を継いでいた弟の宗辰(伊達村興)を呼び戻して宮床伊達氏の家督を譲り、村房は一門上座の家格を与えられて5月には江戸の一関藩邸に入ったが、正式に養子縁組を幕府に届出る前に、跡取りのいなかった仙台本藩の綱村の養嗣子に迎えられることになった。また、田辺希賢が侍講となる。 
 元禄9年(1696年)11月に藩主家の慣例により将軍・徳川綱吉から偏諱を賜って吉村に改名し、元禄15年(1702年)4月26日には久我通名の娘・冬姫と結婚した。元禄16年(1703年)に養父・綱村が隠居に追い込まれると、家督を継いで第5代仙台藩主となった。
 宝永元年(1704年)5月21日、吉村は藩主となって初めて仙台に入ったが、この時点で仙台藩の財政は綱村の浪費と乱脈政治によって完全に破綻しており、吉村はただちにその建て直しに取り組まねばならなかった。まず対応を迫られたのが、綱村押込の直接の原因となった藩札の後始末である。宝永2年(1705年)1月に藩札の発行を停止し、既に出回っている藩札を回収するためにはその代価となる正金を用意。しかし、その資金集めに赤字を雪だるま式に増幅させるという悪循環に陥っており、また財政再建の最中にあっても幕府から命じられた日光東照宮普請のため、さらに江戸・京都の商人から7万3,700両の追加借入を余儀なくされるなど、極めて厳しいものであった。
 こうした状況を少しでも改善するため、享保10年(1725年)年頭には寛永以来実施されなかった領内総検地「大改」を行うことを表明した。これは、耕地所有者の異動・新田の隠田化・普請や荒れ地化による耕地面積の変化などを正常化することで土地制度の根本的立て直しと年貢増徴を目指したものであった。しかし、一門層をはじめとする家臣側の反発が強く半年後に事実上中止となり、以後、仙台藩においては、領内総検地が実施されないまま幕末を迎えることになる。
 一方でた役職の統合整理、郡奉行の減員を進めている。これと平行して享保12年(1727年)に仙台領産の銅を使用することを条件に、幕府の許可を得て銅銭(寛永通宝)を石巻で鋳造し、それを領内で流通させることで利潤を得た。また、買米仕法を再編強化し、農民から余剰米を強制的に供出させ江戸に廻漕して換金した。18世紀初めから中頃にかけての江戸市中に出回った米のほとんどが、仙台産であったと言われているほどである。享保17年(1732年)には西国で享保の大飢饉が発生するが、奥州は豊作であったため、大量の米を江戸に送って売りさばき50万両を超える収益を上げた。このため藩財政は一気に好転し、ようやく単年度での黒字を実現できるようになった。
 寛保3年(1743年)7月、4男・久村(宗村)に家督を譲って隠居し、袖ヶ崎の下屋敷に移った。宝暦元年12月24日(1752年2月8日)死去。享年72。

伊達宗村 伊達宗綱

 享保3年(1718年)5月27日、第5代藩主・伊達吉村の4男として生まれる。母は正室・冬姫。藩儒田辺希文が師傳を務める。長兄の伊達村匡および次兄の伊達菊次郎は早世、三兄の伊達村風も分家を興していたため、代わって嫡子となる。初め久村と名乗っていたが、のちに第8代将軍・徳川吉宗から偏諱を受けて宗村と改名し、吉宗の跡を継いで紀伊藩主となっていた徳川宗直の娘・利根姫を正室に迎えた。寛保3年(1743年)、父・吉村から家督を譲られた。父と同じく文学面に優れ、多くの書を残している。また、馬術,槍術,剣術,軍術,砲術にも精通していた智勇兼備の人物であった。
 宝暦2年(1752年)、仙台藩は大凶作に見舞われた。このため、亘理郡中泉村の農民・北原金平に年貢を軽くして欲しいとの直訴を受けたが、参勤交代の帰途での直訴であったため、宗村は金平を宅地・田畑没収の上、磔刑とした。
 宝暦6年5月24日(1756年6月21日)、39歳で死去。
 延享4年(1747年)8月15日、江戸城内の厠で熊本藩主・細川宗孝が旗本・板倉勝該に斬られて死亡した。宗孝には御目見を済ませた世子がおらず、このままでは細川家は無嗣断絶になりかねないところ、その場にたまたま居合わせた宗村が機転を利かせ、「宗孝殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。そこで、家臣たちは宗孝の遺体をまだ生きているものとして藩邸に運び込み、弟の重賢を末期養子に指名して幕府に届け出た後で、宗孝が介抱の甲斐無く死去したことにして事無きを得たと言われている。

 慶長8年(1603年)、伊達家江戸屋敷にて誕生する。生母の愛姫は、この年2月に5歳の虎菊丸(嗣子の忠宗)を伴って京都伏見の伊達屋敷より江戸の伊達屋敷へ下向し、居を移していた。卯松丸と名付けられ、御守りとして茂庭綱元が任ぜられる。同じ年、江戸屋敷では側室の於山方が6男の吉松丸(宗信)を産んでいる。
 慶長18年(1613年)12月19日、卯松丸が養育されていた茂庭綱元宅に父・政宗が出向いて卯松丸の元服を命じ、宗綱(通称は摂津)と名付けた。のち、政宗より陸奥国栗原郡岩ヶ崎3万石を与えられ、岩ヶ崎要害主となる。
 元和2年(1616年)12月24日、江戸城に登城し、将軍徳川秀忠に拝謁する。元和4年(1618年)5月28日、病にて没す。享年16。墓所は仙台市の松音寺。

 

伊達宗勝 伊達宗興

 元和7年(1621年)、仙台藩初代藩主・伊達政宗の10男として生まれる。幼名は千勝丸。異母兄・忠宗が存命中は特に目立った行動はなかったが、万治元年(1658年)に忠宗が死去して綱宗が跡を継ぐと、藩祖・政宗の息子であるという自負で、綱宗の庶兄・田村宗良とともに藩政を見た。嫡子・宗興の正室に酒井忠清の養女を迎えるなど幕府との繋がりも強く、万治3年(1660年)には3万石の分知を受けて大名となった。同年、綱宗が幕命によって隠居を余儀なくされ、その跡をわずか2歳の長男・綱村が継ぐと、宗勝はその後見人となって仙台藩を専横するようになった。
 そのような中で寛文11年(1671年)、伊達騒動(寛文事件)が起こり、仙台藩は改易の危機に立たされた。これは当時、第4代将軍・徳川家綱のもとで大老として権勢を誇っていた酒井忠清と宗勝が密約を結んで、仙台藩を事実上乗っ取るつもりだったとも言われているが、幕府の裁定によって藩主・綱村は若年であるということでお咎め無しの上、仙台藩は安泰とされた。
 しかし、宗勝は年長の後見役でありながらみだりに刑罰を科して仙台藩政の混乱をもたらし、果ては江戸での刃傷沙汰という不祥事を招く原因を成したとして、一関藩は改易となった。加えて宗勝の家族には永預の処分が下され、宗勝自身は土佐藩主・山内豊昌預かり、嫡男・宗興は小倉藩主・小笠原忠雄預かり、その妻子は伊予吉田藩主・伊達宗純預かり、宗勝の側室2人と子4人(虎之助,兵蔵,於竹,於妻)は岩出山の伊達宗敏預かりとされた。この処分によって一関伊達氏は宗勝一代で御家断絶となり、一関藩領3万石は仙台本藩領に復帰し、家老・新妻胤実以下一関藩士一同も仙台本藩に帰属した。
 土佐藩に引き渡された宗勝は、土佐郡小高坂に設けられた配所で余生を送り、延宝7年(1679年)11月4日に死去。享年59。

 万治3年(1660年)8月25日、父・宗勝が仙台藩から3万石を分知されて一関藩主になると、大名の世子として寛文3年(1663年)に従五位下・東市正に叙任され、翌寛文4年(1664年)には大老・酒井忠清正室の妹(姉小路公景の4女)を忠清の養女として宗興の正室に迎えている。これは、当時伊達騒動の渦中にあった仙台藩内で、宗勝と対立していた田村宗良,伊達宗重,伊達宗景らへの対抗手段を得るため、忠清との関係強化を図った宗勝の意向によるものであった。
 しかし、寛文11年(1671年)にその忠清の屋敷で刃傷沙汰が発生すると、宗勝は後見役としての責任を問われ、一関藩は改易された。この時、宗興も父に連座して豊前小倉藩主・小笠原忠雄預かりとなり、正室・姉小路氏と男子3人(千之助,千勝,右近)は伊予吉田藩主・伊達宗純預かりとなった。宗興は小倉城内に与えられた屋敷で余生を送り、元禄15年(1702年)6月10日に死去した。享年54。吉田藩に預けられた妻子も同地で死去したが、父・宗勝が吉田藩立藩の折に協力的であったことから、宗純は暮らし向きに不便のないよう取り計らったという。