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伊達政宗 | 五郎八姫 |
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伊達氏の第17代当主。仙台藩の初代藩主である。永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗と正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男として生まれた。幼名は梵天丸。生誕地は館山城とする学説もある。 |
文禄3年(1594年)6月16日、京都の聚楽第屋敷にて生まれた。政宗と正室の愛姫との間に結婚15年目にして初めて授かった待望の嫡出子であり、当然夫妻は伊達家後継者となる男児誕生を熱望していたであろうが、生まれたのは女児だった。このため、男子名である五郎八しか考えていなかった政宗が、そのまま五郎八姫と命名したといわれている。 |
伊達忠宗 | 伊達綱宗 |
慶長12年(1607年)、この年誕生した徳川家康の5女・市姫との婚約が成立したが、市姫は3年後に夭逝したため、代わりに池田輝政の娘・振姫(家康の孫娘)が徳川秀忠の養女として嫁いだ。 |
2代藩主・伊達忠宗の6男として誕生する。母は側室の貝姫。幼名は巳之介。母が後西天皇の母方の叔母に当たることから、綱宗と後西天皇は従兄弟関係になる。 |
伊達綱村 | 伊達吉村 |
万治2年(1659年)3月8日、伊達綱宗の嫡男として生まれる。幼名は亀千代丸。元服の際は父と同じく将軍・徳川家綱より偏諱を与えられて、初め綱基、後に綱村と名乗った。 |
はじめ仙台藩一門宮床伊達氏第2代藩主。仙台藩で初の一門出身で賜姓伊達氏出身の藩主であり、歴代仙台藩主中、最長在職の藩主。就任時点で破綻状態にあった仙台藩の財政を建て直したことから、仙台藩「中興の英主」と呼ばれる。延宝8年(1680年)6月28日、宮床伊達氏初代当主・伊達宗房(仙台藩第2代藩主・伊達忠宗の8男)の嫡男として生まれる。幼名は助三郎。 |
伊達宗村 | 伊達宗綱 |
享保3年(1718年)5月27日、第5代藩主・伊達吉村の4男として生まれる。母は正室・冬姫。藩儒田辺希文が師傳を務める。長兄の伊達村匡および次兄の伊達菊次郎は早世、三兄の伊達村風も分家を興していたため、代わって嫡子となる。初め久村と名乗っていたが、のちに第8代将軍・徳川吉宗から偏諱を受けて宗村と改名し、吉宗の跡を継いで紀伊藩主となっていた徳川宗直の娘・利根姫を正室に迎えた。寛保3年(1743年)、父・吉村から家督を譲られた。父と同じく文学面に優れ、多くの書を残している。また、馬術,槍術,剣術,軍術,砲術にも精通していた智勇兼備の人物であった。 |
慶長8年(1603年)、伊達家江戸屋敷にて誕生する。生母の愛姫は、この年2月に5歳の虎菊丸(嗣子の忠宗)を伴って京都伏見の伊達屋敷より江戸の伊達屋敷へ下向し、居を移していた。卯松丸と名付けられ、御守りとして茂庭綱元が任ぜられる。同じ年、江戸屋敷では側室の於山方が6男の吉松丸(宗信)を産んでいる。
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伊達宗勝 | 伊達宗興 |
元和7年(1621年)、仙台藩初代藩主・伊達政宗の10男として生まれる。幼名は千勝丸。異母兄・忠宗が存命中は特に目立った行動はなかったが、万治元年(1658年)に忠宗が死去して綱宗が跡を継ぐと、藩祖・政宗の息子であるという自負で、綱宗の庶兄・田村宗良とともに藩政を見た。嫡子・宗興の正室に酒井忠清の養女を迎えるなど幕府との繋がりも強く、万治3年(1660年)には3万石の分知を受けて大名となった。同年、綱宗が幕命によって隠居を余儀なくされ、その跡をわずか2歳の長男・綱村が継ぐと、宗勝はその後見人となって仙台藩を専横するようになった。 |
万治3年(1660年)8月25日、父・宗勝が仙台藩から3万石を分知されて一関藩主になると、大名の世子として寛文3年(1663年)に従五位下・東市正に叙任され、翌寛文4年(1664年)には大老・酒井忠清正室の妹(姉小路公景の4女)を忠清の養女として宗興の正室に迎えている。これは、当時伊達騒動の渦中にあった仙台藩内で、宗勝と対立していた田村宗良,伊達宗重,伊達宗景らへの対抗手段を得るため、忠清との関係強化を図った宗勝の意向によるものであった。 |