F815:伊達政宗 | 藤原魚名 ― 藤原鷲取 ― 藤原為盛 ― 伊達朝宗 ― 伊達行宗 ― 伊達政宗 ― 伊達秀宗 | F817:伊達秀宗 |
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伊達秀宗 | 伊達宗時 |
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天正19年(1591年)9月25日、伊達政宗の庶長子として陸奥国柴田郡村田城にて誕生。この時点では、政宗の正室・愛姫に男子がいなかったため、周囲からは「御曹司様」と呼ばれて伊達家の家督相続者と目されていた。文禄3年(1594年)、政宗に伴われて豊臣秀吉に拝謁し、秀吉に人質として差し出されることになり、伏見城で養育された。 |
元和8年(1622年) 同母兄の宗実とともに将軍・徳川秀忠に御目見した。寛永4年(1627年)、 宗実が病弱を理由に嫡を辞したため、寛永9年(1632年)に世子となり従五位下左京亮に叙任された。 |
伊達宗利 | 伊達宗贇 |
初代藩主・伊達秀宗の3男として誕生した。寛永16年(1639年)2月15日に元服する。長兄の宗実が病弱のため嫡子を辞し、次兄の宗時が父に先立って死去したため、明暦3年(1657年)7月21日、父の隠居により家督を継ぐ。寛文10年(1670年)から八十島親隆を検地奉行として検地制度や村役人制度を確立し、元禄元年(1688年)には紙専売制度も実施するなどして藩政の基盤を固めた。しかし藩主の居殿である浜屋敷の造営、宇和島城の大改修など出費も相次ぎ、藩財政は苦しかった。
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寛文6年(1666年)に陸奥仙台藩の一門衆筆頭・角田石川氏の石川宗弘の養子となり、延宝7年(1679年)に元服する(石川氏時代は父の綱宗、兄の綱基より偏諱の授与を受けて石川宗昭,石川基弘と名乗った)。しかし、貞享元年(1684年)3月13日、伊予宇和島藩主・宗利の次女と結婚し、その婿養子となり、伊達宗贇に改名。元禄6年(1693年)11月14日、宗利が隠居したためその跡を継いだ。鎧兜が残されているが、それから察すると非常な巨漢であった。なお、仙台藩主家からの直接の養子でなく陪臣の家を経ているため、仙台藩が宇和島藩を末家扱いとする一因となった。 |
伊達村候 | 伊達宗紀 |
享保8年(1723年)生まれとも言われる。享保20年(1735年)、父の死去により跡を継ぐ。外祖父で寛保3年(1743年)に隠居した元仙台藩主の伊達吉村から偏諱を賜り村候と名乗る。寛延2年(1749年)、新たに仙台藩主となっていた伯父の伊達宗村が、本家をないがしろにする行為が不快であるとして、村候を老中・堀田正亮に訴える。村候は、宇和島藩伊達家が仙台藩伊達家の「末家」ではなく「別家」であるとして従属関係を否定し、自立性を強めようとしていた。具体的には、前述のように仙台藩主から偏諱を受けた「村候」の名を改めて「政徳」と名乗ったり、「殿様」ではなく仙台藩主と同様の「屋形様」を称したり、仙台藩主への正月の使者を省略したり、本家伊達家と絶交状態にあった岡山藩池田家と和解したりしたのである。堀田正亮,堀川広益は両伊達家の調停にあたった。堀田は仙台藩伊達家を「家元」と宇和島藩伊達家を「家別レ」とするといった調停案を示した。表面的には、同年中に両伊達家は和解に達した。しかし、その後も両伊達家のしこりは残ったようである。 |
寛政4年(1792年)9月16日生まれとされるが、これより前に生まれていたとも言われている。元服時には仙台藩主の伊達斉宗より偏諱を賜って宗紀と名乗る。文政7年(1824年)9月12日、父の隠居により跡を継ぐ。 |
伊達宗城 | |
江戸期には伊予国宇和島藩8代藩主だったが、維新後に議定,外国事務総督などを務めて外交担当者となった。また民部卿・大蔵卿,清国への欽差全権大臣などを歴任した。 |