<藤原氏>北家 魚名流

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伊達秀宗 伊達宗時

 天正19年(1591年)9月25日、伊達政宗の庶長子として陸奥国柴田郡村田城にて誕生。この時点では、政宗の正室・愛姫に男子がいなかったため、周囲からは「御曹司様」と呼ばれて伊達家の家督相続者と目されていた。文禄3年(1594年)、政宗に伴われて豊臣秀吉に拝謁し、秀吉に人質として差し出されることになり、伏見城で養育された。
 文禄4年(1595年)7月に秀次事件が起こると、豊臣秀次と親密だった政宗もこの事件に連座し、隠居して家督を兵五郎に譲ることと伊達家の伊予への国替えを秀吉から命じられた。結局は徳川家康の取りなしで許されたが、8月24日に在京の重臣19名の連署による起請文提出を命じられ、「もし政宗に逆意があればただちに隠居させ、兵五郎を当主に立てる」旨を誓約させられている。
 文禄5年(1596年)5月9日、秀吉の猶子となり、秀吉のもとで元服し、偏諱を受けて秀宗と名乗った。従五位下侍従に叙位・任官され、豊臣姓も授かっている。豊臣秀頼のお側小姓として取り立てられた。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、石田三成方の宇喜多秀家の邸にて、対伊達政宗の人質となる。
 慶長7年(1602年)9月、徳川家康に拝謁し、徳川氏の人質として江戸に向かった。だが正室である愛姫との間に虎菊丸(のちの伊達忠宗)が生まれ、慶長8年(1603年)1月に政宗は虎菊丸を家康に拝謁させ、秀宗の立場は微妙になりだした。慶長14年(1609年)、秀宗は家康の命令で徳川四天王で重臣の井伊直政の娘の亀を正室として、徳川陣営に取り込まれることになる。だが弟の虎菊丸が慶長12年(1607年)に家康の5女の市姫と婚約し、慶長16年(1611年)12月に江戸城で元服し、将軍秀忠から一字を賜って忠宗と名乗ったことにより、事実上、秀宗は伊達家の家督相続者から除外されることになった。「秀」の通字を受けて秀吉・秀頼の側に仕え、一時は豊臣姓まで賜った秀宗が徳川氏の世では仙台藩主としてふさわしくないという理由で除外されたとされている。
 このため父・政宗は別家を興すことを考える。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には父と共に参陣し初陣を飾る。冬の陣後、大御所・徳川家康から参陣の功として政宗に与えられた伊予宇和島10万石を別家として嗣ぎ、同年12月25日にその初代藩主となった。江戸幕府が下した大坂の陣の論功行賞では、最も石高が多い恩賞となる。家臣団の多くは政宗が伊達家中から選んだ者で、秀宗入部の際、57騎騎馬団のほか足軽,小者あわせ約1200名がいたとされる。かまぼこ職人も仙台から連れてきたという説もある。重臣は政宗の意を受けて秀宗を輔弼した。また、藩政整備のための初期資金として仙台藩から6万両の借財をした。
 元和6年(1620年)、家老・山家公頼は一族皆殺しにあう。後年作られた伝説では桜田玄蕃一派が襲撃したと言われるが、玄蕃本人は当日大阪におり、実際には秀宗が命じた「御成敗」であった。秀宗はこれを幕府や政宗に報告しなかったことから、激怒した父によって勘当される。公頼はもともと政宗の家臣であり、本家側の人間であった。そのためか、事あるごと様々なことに口を挟んだため、秀宗は疎ましく感じていたとされる。さらに翌元和7年(1621年)、怒りの収まらない政宗は老中・土井利勝に対して宇和島藩の返上を申し入れた(和霊騒動)。結局、利勝の執り成しで政宗は申し入れを取り下げ、政宗と秀宗は面会し、その場で秀宗は、長男であるにもかかわらず徳川時代に入って仙台藩の家督を嗣げなかったことや、長期にわたって人質生活を送らされていたことから、政宗に対しかなりの恨みを持っていることを話した。政宗もその秀宗の気持ちを理解し、勘当は解かれた。この件をきっかけとして親子の関係は良好になったとされる。
 その後、秀宗は藩政に注力した。翌年の元和8年(1622年)12月、遠江守を叙任する。寛永3年(1626年)8月19日には従四位下に昇位する。
 勘当が解けてから政宗と秀宗の仲は親密になり、和歌を交歓したり、「唐物小茄子茶入」と秘蔵の伽羅の名香「柴舟」が政宗から贈られ、これら政宗から秀宗に贈られた品は宇和島藩伊達家の家宝として秘蔵された。寛永13年(1636年)5月に政宗が死去し、6月に仙台の覚範寺で葬儀が営まれた際、秀宗は次男の宗時と共に葬儀に参列した。
 寛永14年(1637年)頃より病床に臥すことが多くなったが、病気は中風だったという。このため、寛永15年(1638年)に世子であった次男の宗時が宇和島に帰国して「太守」「殿様」として政務を代行した。このため、歴代に宗時を入れている記述が見られることより、幕府からも実質的な当主は宗時であると認識されていた。
 秀宗晩年の宇和島藩では領内検地、そしてそれを基にした定免法(年貢の固定化)の採用、藩士給与についても従来の給地制(地方知行制)から蔵米制(米の現物支給)とした。慶安2年(1649年)2月5日には宇和島を大地震が襲い、翌年に長患いしていた中風を理由に療養を幕府より許されて宇和島に帰国した。
 承応2年(1653年)に宗時が39歳で早世したため、3男で20歳の宗利が世子となる。その翌年からは藩と商人資本による新田開発が進められた。明暦3年(1657年)7月21日、世子の宗利に家督を譲って隠居した。8月16日には5男の宗純に伊予吉田藩を分知したため、宇和島藩は7万石、吉田藩は3万石となった。
 明暦4年(1658年)6月8日に江戸藩邸で死去。享年68。死後の翌日、宮崎八郎兵衛,高島太郎衛門が、6月18日に神尾勘解由、6月23日に渡辺藤左衛門がそれぞれ殉死した。

 元和8年(1622年) 同母兄の宗実とともに将軍・徳川秀忠に御目見した。寛永4年(1627年)、 宗実が病弱を理由に嫡を辞したため、寛永9年(1632年)に世子となり従五位下左京亮に叙任された。
 寛永15年(1638年)、祖父・政宗が幕府に宇和島藩の改易願いを出すという和霊騒動の衝撃のため中風になり、病床に臥すことが多くなっていた父・秀宗に代わり宇和島に入り、実質的な藩主として政務をとった。このとき秀宗はすでに死んだもの、隠居したものとして扱われており、幕府も家臣も宗時のお国入りを「当主となり帰国」と認識しており、『大武鑑』など一部史料では藩主の列に数えられている。
 寛永20年(1643年)には仙台藩に乞うて家臣を貰い受けるなどしており、実際に当主として活動していた。藩政では家臣の知行を蔵米制に移行し、定免法への税制改正などを行っている。慶安3年(1650年)から宗時は健康を害するようになり、また同年には土佐藩との国境争いも起きている。承応2年(1653年)5月29日、宗時は39歳で父に先立ったため、実際の2代当主は異母弟の宗利が襲封した。なお、宗時の早世は和霊騒動による山家公頼の祟りと噂された。

伊達宗利 伊達宗贇

 初代藩主・伊達秀宗の3男として誕生した。寛永16年(1639年)2月15日に元服する。長兄の宗実が病弱のため嫡子を辞し、次兄の宗時が父に先立って死去したため、明暦3年(1657年)7月21日、父の隠居により家督を継ぐ。寛文10年(1670年)から八十島親隆を検地奉行として検地制度や村役人制度を確立し、元禄元年(1688年)には紙専売制度も実施するなどして藩政の基盤を固めた。しかし藩主の居殿である浜屋敷の造営、宇和島城の大改修など出費も相次ぎ、藩財政は苦しかった。
 寛文11年(1671年)に本家の仙台藩で伊達騒動が起こったときには、今村善太夫ら罪人を預かっている。延宝9年(1681年)の越後騒動の際には、舅である松平光長が当事者だったこともあり、宗利が幕府と越後高田藩松平家との事後処理の窓口とされた。
 元禄6年(1693年)11月14日、家督を養嗣子で娘婿の宗贇に譲って隠居し、宝永5年(1708年)12月21日に75歳で死去した。

 

 寛文6年(1666年)に陸奥仙台藩の一門衆筆頭・角田石川氏の石川宗弘の養子となり、延宝7年(1679年)に元服する(石川氏時代は父の綱宗、兄の綱基より偏諱の授与を受けて石川宗昭,石川基弘と名乗った)。しかし、貞享元年(1684年)3月13日、伊予宇和島藩主・宗利の次女と結婚し、その婿養子となり、伊達宗贇に改名。元禄6年(1693年)11月14日、宗利が隠居したためその跡を継いだ。鎧兜が残されているが、それから察すると非常な巨漢であった。なお、仙台藩主家からの直接の養子でなく陪臣の家を経ているため、仙台藩が宇和島藩を末家扱いとする一因となった。
 藩政においては元禄9年(1696年)7月4日、所領が7万石の実収入のところを高直しで10万石と過大申告する。これは、初代藩主・秀宗が伊予吉田藩に分与した3万石分を補い、宇和島藩の10万石としての体面を保つためであった。そのために町人新田開発や藩営の新田開発を奨励するなどしたが、ただでさえ苦しかった藩財政がますます苦しくなり、倹約令や商人からの借金、家臣団の大減封を行う有様であった。宝永4年(1707年)には大地震で宇和島城が倒壊する。
 宝永8年(1711年)2月18日、47歳で死去し、跡を3男・村年が継いだ。

伊達村候 伊達宗紀

 享保8年(1723年)生まれとも言われる。享保20年(1735年)、父の死去により跡を継ぐ。外祖父で寛保3年(1743年)に隠居した元仙台藩主の伊達吉村から偏諱を賜り村候と名乗る。寛延2年(1749年)、新たに仙台藩主となっていた伯父の伊達宗村が、本家をないがしろにする行為が不快であるとして、村候を老中・堀田正亮に訴える。村候は、宇和島藩伊達家が仙台藩伊達家の「末家」ではなく「別家」であるとして従属関係を否定し、自立性を強めようとしていた。具体的には、前述のように仙台藩主から偏諱を受けた「村候」の名を改めて「政徳」と名乗ったり、「殿様」ではなく仙台藩主と同様の「屋形様」を称したり、仙台藩主への正月の使者を省略したり、本家伊達家と絶交状態にあった岡山藩池田家と和解したりしたのである。堀田正亮,堀川広益は両伊達家の調停にあたった。堀田は仙台藩伊達家を「家元」と宇和島藩伊達家を「家別レ」とするといった調停案を示した。表面的には、同年中に両伊達家は和解に達した。しかし、その後も両伊達家のしこりは残ったようである。
 藩政においては、享保の大飢饉において大被害を受けた藩政を立て直すため、窮民の救済や倹約令の制定、家臣団25か条の制定や軍制改革、風俗の撤廃や文武と忠孝の奨励を行なうなど、多彩な藩政改革に乗り出した。宝暦4年(1754年)からは民政3か条を出して民政に尽力し、延享2年(1745年)からは専売制を実施する。宝暦7年(1757年)12月には紙の専売制を実施し、寛延元年(1748年)には藩校を創設するなどして、藩政改革に多大な成功を収めて財政も再建した。
 しかし、天明の大飢饉を契機として再び財政が悪化し、藩政改革も停滞する。その煽りを食らって、晩年には百姓一揆と村方騒動が相次いだ。そのような中で失意のうちに、寛政6年(1794年)9月14日(異説として10月20日)に70歳で死去し、跡を4男・村寿が継いだ。
 教養人としても優れた人物で、『楽山文集』,『白痴篇』,『伊達村候公歌集』などの著書を残した。また、晩年には失敗したとはいえ、初期から中期まで藩政改革を成功させた手腕は『耳袋』と『甲子夜話』で賞賛されている。

 寛政4年(1792年)9月16日生まれとされるが、これより前に生まれていたとも言われている。元服時には仙台藩主の伊達斉宗より偏諱を賜って宗紀と名乗る。文政7年(1824年)9月12日、父の隠居により跡を継ぐ。
 この頃、宇和島藩では財政悪化により、藩政改革の必要に迫られていた。そこで宗紀は大坂商人からの借金を無利息200年賦返還にしたり、脅迫して一部の借金を放棄させたりした。またハゼ蝋の専売化、質素倹約を推奨し、塩やスルメなど特産品の保護、検地などを行なった。さらに藩士の小池九蔵,若松総兵衛を佐藤信淵に入門させて、農業の技術改良などを学ばせて、また融通会所を設立させ物価の統制を図った。これらにより藩財政改革に成功し、養嗣子の宗城に家督を譲るまでに6万両の金が蓄えられた。
 長年男子に恵まれず、文政9年(1826年)冬には幕府から島津重豪の5男の虎之助(後に南部信順として八戸藩を継ぐ)との養子縁組を持ちかけられている。宗紀は懐妊中の側室の存在などを挙げてこれを断っている。文政10年(1827年)4月、仮養子の選定にあたって、老中・水野忠成に自らの後継者問題を相談している。具体的には、幕府から将軍・徳川家斉の子女との養子縁組をもちかけられる可能性の有無や、それを断ることができるのかといったことである(家斉は男子だけで26人をもうけ、親藩だけでなく外様大名にも養子を送り込んでいた)。
 文政12年(1829年)4月11日、5代藩主・村候の男系曾孫で、旗本山口家から家臣伊達家に養子に入れていた伊達宗城を養嗣子として迎えた。なお、天保8年(1837年)、養子・宗城と自身の3男・宗徳の養子縁組を行う。いわゆる順養子である。
 天保15年(1844年)7月16日、家督を養嗣子の宗城に譲って江戸の藩邸に隠居した。1853年(嘉永6年)のペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊来航の際には、幕府に開国を献策した。1862年(文久2年)、宇和島での隠居所として潜淵館を建築し、その邸内に1866年(慶応2年)に完成した回遊式庭園を祖先の伊達政宗の漢詩,酔余口号の一節から天赦園と名づける。明治22年(1889年)11月25日、98歳という長寿をもって死去した。墓所は愛媛県宇和島市野川の大隆寺。
 若いころは酒豪で鳴らしたものの、晩年には酒量を控えるようになった。また、現代のボケ防止にも通じる朝晩の散歩や長続きしやすい趣味(書道など)を長年の日課とした。老いによる難聴になった以外は体の不調もなく、自分よりはるかに年下の者が苦労するほどの急な階段も楽に上り下りできたと言われている。側近の者が「侯の長寿の秘訣は何でございますか」と問うたところ「それは女色を慎むことにある」と答えたため、重ねて「侯におかせられましては何歳から女色を慎まれましたか」と質問するとおおらかに「70歳じゃ」(75歳,80歳とする場合も)と言った、という逸話が、特に宇和島では有名である。

伊達宗城

 江戸期には伊予国宇和島藩8代藩主だったが、維新後に議定,外国事務総督などを務めて外交担当者となった。また民部卿・大蔵卿,清国への欽差全権大臣などを歴任した。
 文政元年(1818年)、大身旗本・山口直勝の次男として江戸にて誕生した。母は蒔田広朝の娘。幼名を亀三郎と称した。文政10年(1827年)4月、参勤交代による在国に際し、宇和島藩主・伊達宗紀の仮養子となる。文政11年(1828年)10月、宇和島藩家臣・伊達寿光(伊達村候の孫)の養子となったが、翌文政12年(1829年)4月11日、嗣子となり得る男子に恵まれない藩主・宗紀の養子となる。宗紀の5女・貞と婚約して婿養子の形をとったが、貞は早世してしまい、婚姻はしなかった。
 天保15年(1844年)、養父の隠居に伴い藩主に就任する。宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化,石炭の埋蔵調査などを実施した。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手した。
 福井藩主・松平春嶽,土佐藩主・山内容堂,薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち「四賢侯」と謳われた。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中首座・阿部正弘に幕政改革を訴えた。
 阿部正弘死去後、安政5年(1858年)に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯や水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、直弼は紀州藩主・徳川慶福を推した。直弼は大老強権を発動、慶福が14代将軍・家茂となり、一橋派は排除された。いわゆる安政の大獄である。これにより宗城は春嶽・斉昭らと共に隠居謹慎を命じられた。
 養父の宗紀は隠居後に実子の宗徳を儲けており、宗城はこの宗徳を養子にして藩主の座を譲ったが、隠居後も藩政に影響を与え続けた。謹慎を解かれて後は再び幕政に関与するようになり、文久2年(1862年)には薩摩藩が起こした生麦事件の賠償金を幕府が支払うことに反対している。その一方で、生麦事件を引き起こした当事者である島津久光とは交友関係を持ち、公武合体を推進した。文久3年(1863年)末には参預会議、慶応3年(1867年)には四侯会議に参加し、国政に参与しているが、ともに短期間に終っている。
 慶応2年(1866年)には、イギリス公使ハリー・パークスがプリンセス・ロイヤルで宇和島を訪れた際、お忍びで同艦を訪問、パークス一行上陸時は、閲兵式に続き純和風の宴で接待し、宇和島を離れる際には藩の旗印と英国国旗を交換、さらに同年後日、アーネスト・サトウ宇和島訪問の際には、日本の将来について、天皇を中心とした連邦国家にすべしという意見交換をするなど、外国人とも積極的に交流している。
 慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねた。しかし慶応4年(明治元年)1月2日(1868年1月26日)に戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏・奥羽列藩同盟寄りであったため薩長の行動に抗議して、新政府参謀を辞任した。
 明治2年(1869年)、民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のためイギリスからの借款を取り付けた。明治4年(1871年)には欽差全権大臣として清の全権・李鴻章との間で日清修好条規に調印し、その後は主に外国貴賓の接待役に任ぜられた。しかし、その年に中央政界より引退している。
 明治14年(1881年)には、世界周遊の一環で日本に立ち寄ったハワイ国王カラカウアを接待し、それに対する返礼として勲章を授与されている。カラカウアより宗城に授与された勲章は、現在は宇和島伊達文化保存会に所蔵。
 宇和島伊達家は明治17年(1884年)、華族令によって伯爵を授けられた。明治24年(1891年)、養嗣子の宗徳が宗城の維新時の功によって侯爵に陞爵された。明治25年(1892年)、児島惟謙の司法官弄花事件に際しては、反児島派から、児島の元主君の立場として、辞職を勧める役回りを任された。宗城は、依頼者(反児島派かつ政府側の人間)には、「会って説得したが、児島は涙ながらに拒否した」と書き送った。しかし、実際には児島には会っておらず、逆に児島宛に同じ書簡を同封して、留任を迫る旨の書簡を送った。同年、東京の今戸屋敷で病没した。享年75。