F817:伊達秀宗 | 藤原魚名 ― 藤原鷲取 ― 藤原為盛 ― 伊達朝宗 ― 伊達行宗 ― 伊達政宗 ― 伊達秀宗 ― 伊達宗純 | F818:伊達宗純 | ● |
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伊達宗純 | 伊達村豊 |
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寛永13年(1636年)、伊予宇和島藩江戸藩邸で生まれる。明暦3年(1657年)、父・伊達秀宗より3万石を分知され、伊予吉田藩初代藩主となる。性格は驕慢であったと言われ、吉田藩立藩の経緯からして多事に富んでいる。 |
宇和島藩士・伊達宗職(宇和島藩主伊達秀宗の7男)の次男として、天和2年(1682年)11月8日、宇和島に生まれる。元禄6年(1693年)、宇和島藩の支藩である吉田藩の藩主で従兄の伊達宗保に子がなかったため、その養子となり、12月7日に12歳で第3代藩主となった。12月15日、将軍・徳川綱吉に御目見し、父の遺品・備前基光の刀を献上した。元禄10年(1697年)12月18日、叙任した。 |
伊達村信 | 伊達村賢 |
享保5年(1720年)3月5日、第3代藩主・伊達村豊の次男として生まれる。なお、5男とも言われる、生年は享保3年(1718年)とも。兄の村澄が早世したため、享保20年(1735年)12月2日に世子に指名され、元文2年(1737年)に父が死去したため、家督を継いで第4代藩主となった。12月16日に従五位下・紀伊守に叙位・任官する。 |
延享2年(1745年)1月12日、第4代藩主・伊達村信の次男として生まれる。寛保元年(1741年)生まれとも。宝暦5年(1755年)4月25日に世子に指名され、宝暦13年(1763年)9月8日に父の隠居にともない家督を継いだ。12月9日に従五位下・和泉守に叙位・任官する。しかし、相次ぐ火災や幕命による天明6年(1786年)の関東河川手伝い普請などで財政難がさらに深刻化し、領民に重税を強いて財政再建を図ろうとするが、天明7年(1787年)にはそのために強訴未遂事件が起こる有様で、これは村賢の死後に武左衛門一揆が起こる前兆にもなった。寛政元年(1789年)4月12日に能登守に遷任する。 |
伊達村芳 | 伊達宗翰 |
安永7年(1778年)3月8日、第5代藩主・伊達村賢の次男として生まれる。兄の村高が早世したため、寛政元年(1789年)3月24日に世子に指名された。寛政2年(1790年)2月9日に父が隠居し、2月16日に亡くなったため、4月8日に家督を継いだ。 |
寛政8年(1796年)6月19日、宇和島藩の第6代藩主・伊達村寿の4男として生まれる。文化13年(1816年)5月22日、吉田藩主・伊達村芳の婿養子に迎えられた。直後の11月6日に村芳が隠居したため家督を継ぎ、12月に従五位下・紀伊守に叙位・任官する。 |
伊達宗孝 | 伊達宗敬 |
文政4年(1821年)3月17日、3000石の旗本で宇和島伊達家の血を引く山口直勝の三男として江戸で生まれる。天保10年(1839年)5月21日に第7代藩主・伊達宗翰の養子となり、天保14年(1843年)6月24日の宗翰の隠居により、家督を継いで第8代藩主となる。12月16日に従五位下・和泉守に叙位・任官し、弘化2年(1845年)4月4日に若狭守に遷任する。 |
嘉永4年(1851年)2月23日、第8代藩主・伊達宗孝(および宇和島藩第8代藩主・伊達宗城)の実兄である旗本・山口直信の次男として生まれる。慶応4年(1868年)7月23日、宗孝が戊辰戦争で幕府側に与したことに責任を取る形で隠居となったため、その養子として家督を継いだ。明治2年(1869年)4月24日に従五位下・若狭守に叙位・任官する。6月20日の版籍奉還で吉田藩知事に任じられた。 |