<藤原氏>北家 魚名流

F817:伊達秀宗  藤原魚名 ― 藤原鷲取 ― 藤原為盛 ― 伊達朝宗 ― 伊達行宗 ― 伊達政宗 ― 伊達秀宗 ― 伊達宗純 F818:伊達宗純

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伊達宗純 伊達村豊

 寛永13年(1636年)、伊予宇和島藩江戸藩邸で生まれる。明暦3年(1657年)、父・伊達秀宗より3万石を分知され、伊予吉田藩初代藩主となる。性格は驕慢であったと言われ、吉田藩立藩の経緯からして多事に富んでいる。
 3万石分知の経緯については諸説ある。秀宗は宗純を寵愛しており、父・政宗が没するまで支出していた隠居料3万石を宗純のために分知した、と一般に言われているが、2人の兄が相次ぎ早逝する中で世継ぎとなった兄の宗利(秀宗3男)を妬んだ宗純が、陸奥仙台藩分家の伊達宗勝(政宗10男で秀宗の弟)と共謀し、秀宗の遺言書を偽造したという話も伝わる。この分知以降、宇和島宗家とは対立する。
 伊達騒動においては流罪となった伊達宗興(宗勝の嫡男)の正室と子供を預かった。
 元禄4年(1691年)、家督を次男・宗保に譲り隠居し、宝永5年(1708年)に死去した。享年71。墓所は玉鳳山大乗寺。
 ある年、宗純が病に倒れた際、医者として吉田藩領内に滞在していた土佐藩浪人・山田仲左衛門は宗純を診療、全快させた。仲左衛門は文武に通じ、宗純は仲左衛門に100石を知行、後に200石に加増し重用した。仲左衛門は宗純を説き、財政政策として高禄の譜代重臣の改易を繰り返させたため、仲左衛門と譜代勢力が激しく対立し、家中は動揺した。遂には仲左衛門の暗殺未遂、更には本家筋の仙台藩への直訴へと発展し、仲左衛門は仙台藩へお預けとなった(山田騒動)。この騒動の事後処理に宇和島藩が関わっており、宇和島藩と和解するに至った。一説では、この騒動を好機として宇和島藩は吉田藩への干渉を強めたとされる。

 宇和島藩士・伊達宗職(宇和島藩主伊達秀宗の7男)の次男として、天和2年(1682年)11月8日、宇和島に生まれる。元禄6年(1693年)、宇和島藩の支藩である吉田藩の藩主で従兄の伊達宗保に子がなかったため、その養子となり、12月7日に12歳で第3代藩主となった。12月15日、将軍・徳川綱吉に御目見し、父の遺品・備前基光の刀を献上した。元禄10年(1697年)12月18日、叙任した。
 元禄14年(1701年)2月、霊元上皇の院使として江戸に下向する清閑寺熈定の饗応役に任じられ、一方で播磨赤穂藩主・浅野長矩が勅使の柳原資廉と高野保春の饗応役に任じられた。2人の指南役は高家肝煎の吉良義央であった。3月14日、浅野長矩の吉良義央への刃傷の際にも現場に居合わせ、梶川頼照らとともに浅野の取り押さえに加わっている。浅野の凶事の後も宗春の方は無事役目を勤め上げた。
 宝永元年(1704年)5月28日、初めて領地である伊予吉田に入った。以降、隔年に参勤交代するようになる。翌年6月1日に青山忠重の娘と結婚する。正徳3年(1713年)8月15日、官位を和泉守に改め、享保10年(1725年)12月2日にはさらに若狭守となった。名前を宗春から村豊に変えたのもこの頃とされている。享保17年(1732年)、享保の大飢饉に際し、吉田藩も虫害による損害2万5,000石、風水害による損害2,000石という大損害を出したため、幕府より3,000両を1年据え置きの5年払いで借りることを余儀なくされた。
 元文2年(1737年)6月30日、伊予吉田藩の江戸藩邸にて死去した。墓は東京都港区高輪の東禅寺。

伊達村信 伊達村賢

 享保5年(1720年)3月5日、第3代藩主・伊達村豊の次男として生まれる。なお、5男とも言われる、生年は享保3年(1718年)とも。兄の村澄が早世したため、享保20年(1735年)12月2日に世子に指名され、元文2年(1737年)に父が死去したため、家督を継いで第4代藩主となった。12月16日に従五位下・紀伊守に叙位・任官する。
 幕命により公家の接待役、朝鮮通信使来日による負担、江戸城神田橋門番などの負担を始め、虫害や風水害に悩まされて藩財政が悪化したにもかかわらず、対応策をとらなかった。宝暦13年(1763年)9月8日、病のため家督を次男・村賢に譲って隠居する。明和2年(1765年)5月21日、吉田で死去。享年46。

 延享2年(1745年)1月12日、第4代藩主・伊達村信の次男として生まれる。寛保元年(1741年)生まれとも。宝暦5年(1755年)4月25日に世子に指名され、宝暦13年(1763年)9月8日に父の隠居にともない家督を継いだ。12月9日に従五位下・和泉守に叙位・任官する。しかし、相次ぐ火災や幕命による天明6年(1786年)の関東河川手伝い普請などで財政難がさらに深刻化し、領民に重税を強いて財政再建を図ろうとするが、天明7年(1787年)にはそのために強訴未遂事件が起こる有様で、これは村賢の死後に武左衛門一揆が起こる前兆にもなった。寛政元年(1789年)4月12日に能登守に遷任する。
 寛政2年(1790年)2月9日、病により隠居し、直後の2月16日(2月10日とも)に死去した。享年46。家督は4月2日(4月8日とも)に次男の村芳が継いだ。

伊達村芳 伊達宗翰

 安永7年(1778年)3月8日、第5代藩主・伊達村賢の次男として生まれる。兄の村高が早世したため、寛政元年(1789年)3月24日に世子に指名された。寛政2年(1790年)2月9日に父が隠居し、2月16日に亡くなったため、4月8日に家督を継いだ。
 吉田藩では天災が相次ぎ、幕府による公役負担も増大して財政は苦しかった。このため、領民に重税を強いることで財政を再建しようとしたが、これが原因で領民の不満が爆発し、寛政5年(1793年)2月に武左衛門一揆が起こった。
 吉田藩では重税ばかりではなく、百姓の間で行なわれていた副業の製紙業を専売化し、紙方役所を設置していた。そして藩の御用商人である法華津屋に対して製紙を独占させて他国に売ったのである。このため、百姓の利益はほとんど無く、百姓1万人は困窮し、吉田藩の本家である宇和島藩に対して紙専売の強訴を行ったのである。このため、藩は紙方役所を廃止し、百姓の11か条の要求を全て受け入れた。ただし、指導者の武左衛門をはじめとする面々も死罪に処されている。
 寛政6年(1794年)、藩校・時観堂を創設して学問を奨励する。寛政7年(1795年)12月17日、従五位下・若狭守に叙位・任官する。文化13年(1816年)11月6日、家督を婿養子の宗翰に譲って隠居する。文政3年(1820年)8月13日に死去。享年43。

 寛政8年(1796年)6月19日、宇和島藩の第6代藩主・伊達村寿の4男として生まれる。文化13年(1816年)5月22日、吉田藩主・伊達村芳の婿養子に迎えられた。直後の11月6日に村芳が隠居したため家督を継ぎ、12月に従五位下・紀伊守に叙位・任官する。
 藩財政再建を目指して文政5年(1822年)に自ら倹約令を出し、下級武士を職人見習いにさせるなどしている。しかし天保3年(1832年)の旱魃,天保の大飢饉などで財政はさらに苦しくなり、領民の救済などに努めざるを得なくなった。また、文武を奨励している。天保14年(1843年)6月24日に家督を養子の宗孝に譲って隠居する。弘化2年(1845年)7月8日、吉田で死去。享年50。

伊達宗孝 伊達宗敬

 文政4年(1821年)3月17日、3000石の旗本で宇和島伊達家の血を引く山口直勝の三男として江戸で生まれる。天保10年(1839年)5月21日に第7代藩主・伊達宗翰の養子となり、天保14年(1843年)6月24日の宗翰の隠居により、家督を継いで第8代藩主となる。12月16日に従五位下・和泉守に叙位・任官し、弘化2年(1845年)4月4日に若狭守に遷任する。
 しかし旗本家出身で江戸育ちのため、財政難で苦しむ吉田藩の内情を無視し、江戸に在府しては帰国せずに藩政を怠り、派手な生活を行なって6000両の借金を新たに築く有様だった。このように名君といわれた兄・宗城と正反対の行動をとった理由は兄と仲が悪かったためともいわれ、幕末期は佐幕派として行動し、慶応4年(1868年)の戊辰戦争でも幕府方として行動したため、新政府から罪を問われかけたが、兄の仲裁により7月23日に家督を甥で婿養子の宗敬に譲ることを条件にして許された。
 明治4年(1871年)の廃藩置県後は東京に移り、後に明治天皇の侍従となる。明治32年(1899年)5月20日に東京で死去。享年79。

 嘉永4年(1851年)2月23日、第8代藩主・伊達宗孝(および宇和島藩第8代藩主・伊達宗城)の実兄である旗本・山口直信の次男として生まれる。慶応4年(1868年)7月23日、宗孝が戊辰戦争で幕府側に与したことに責任を取る形で隠居となったため、その養子として家督を継いだ。明治2年(1869年)4月24日に従五位下・若狭守に叙位・任官する。6月20日の版籍奉還で吉田藩知事に任じられた。
 藩校を文武館と改称して文武を奨励した。明治3年(1870年)4月に宇和島で野村騒動が起こった余波を受けて三間騒動が起こっている。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で藩知事を免官された。
 明治9年(1876年)3月23日から宮内省に勤めるが、直後の8月29日に東京で死去した。享年27。跡を長男の宗定が継いだ。