慶長7年(1602年)、仙台藩主・伊達政宗の4男として伏見屋敷にて生まれる。幼名は愛松丸。傅役は山岡重長,安積重遠の2人で、山岡は奉行職との兼任であった。 慶長8年(1603年)8月、青葉城の完成にともない政宗が岩出山城から居城を移すと、同年11月、愛松丸に岩出山城と知行3,000石(家臣の俸禄は本藩からの直接支給)が与えられ、傅役の山岡が城代を務めた。 慶長19年(1614年)2月7日、仙台にて元服し、宗泰と名乗り、寛永2年(1625年)に一門・伊達宗利の長女を正室に迎える。寛永3年(1626年)、弟・宗高と共に江戸へ上る兄・忠宗に随行し、大御所・徳川秀忠と将軍・徳川家光に拝謁する。寛永4年(1627年)11月27日、従五位下三河守に叙任され、同年12月には知行を10,670石に加増された。以後、政宗の命により宗泰は居城の岩出山には戻らず、一時帰国の間を除いては江戸に常駐して大名並の勤めを果たすことになる。これは政宗が仙台藩からの分知によって支藩を立てるのではなく、庶長子・秀宗のように新恩給与によって大名へ取立られることを期待して行わせたもので、政宗は幕府に対し重ね重ね宗泰への新恩拝領を懇請したが、結局は実現しなかった。 寛永15年12月23日(1639年1月26日)江戸にて死去。享年37。嫡男・宗敏が家督を相続した。
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寛永2年(1625年)4月17日、岩出山伊達氏初代当主・伊達宗泰の長男として生まれる。正室の子である弟・右京が夭逝したため嫡男となる。 寛永15年12月(西暦では翌1639年1月)、父・宗泰の死去にともない家督を相続し、同時に元服して藩主・伊達忠宗から偏諱を拝領し宗敏と名乗った。忠宗はまだ若年である宗敏を補佐させるため、宗泰の傅役でもあった安積重遠に宗敏の後見役を命じるとともに、本藩からも目付を派遣した。正保4年(1647年)には角田領主・石川宗敬の娘・千代鶴を正室に迎えている。 宗泰は初代藩主・政宗の意向により、江戸に常駐して大名並の勤めを果たしていたが、忠宗は宗泰の死去にともないこれを打ち切って宗敏を国許に戻し、岩出山伊達氏は正式に仙台藩内の一門の家格に列することになった。そのため宗敏は居城・岩出山城と城下町の整備に努め、寛文2年(1662年)には岩出山城に二の丸を造営して居館を置いたが、翌寛文3年(1663年)2月1日に発生した火災で二の丸が焼失してしまう。 万治3年(1660年)、仙台藩の重臣一同は酒乱による不行跡を理由として第3代藩主・綱宗の隠居願を幕府に提出する。世に言う伊達騒動の始まりであるが、宗敏はこの隠居願の筆頭に署名している。この隠居願は受理され、綱宗に代わって嫡男・亀千代(のちの綱村)が第4代藩主となった。この時、綱宗の後継として亀千代以外には綱宗の異母兄弟である田村宗良,伊達宗倫,伊達宗規を推す者が多かった中で、宗敏はただ一人、叔父の伊達宗勝を推したこともあって、女婿の津田景康と共に伊達騒動における宗勝派の中心人物と見なされたが、宗敏自身はほとんど積極的な動きを見せなかった。寛文11年(1671年)3月、大老・酒井忠清邸で発生した刃傷沙汰(寛文事件)の責任を問われて一関藩が改易され、宗勝とその家族に御預の処分が下されると、宗敏は宗勝の側室2人と子4人(虎之助,兵蔵,於竹,於妻)を預かるよう命じられた。延宝5年(1677年)1月28日、隠居して家督を嫡男・宗親に譲る。延宝6年(1678年)3月30日死去。享年54。遺言により宗泰生母・祥光院と宗敏生母・瓊林院の墓がある祥光寺に埋葬された。
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