<藤原氏>北家 魚名流

F815:伊達政宗  藤原魚名 ― 藤原鷲取 ― 藤原山蔭 ― 藤原中正 ― 藤原為盛 ― 伊達朝宗 ― 伊達行宗 ― 伊達政宗 ― 伊達宗泰 F819:伊達宗泰

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伊達宗泰 伊達宗敏

 慶長7年(1602年)、仙台藩主・伊達政宗の4男として伏見屋敷にて生まれる。幼名は愛松丸。傅役は山岡重長,安積重遠の2人で、山岡は奉行職との兼任であった。
 慶長8年(1603年)8月、青葉城の完成にともない政宗が岩出山城から居城を移すと、同年11月、愛松丸に岩出山城と知行3,000石(家臣の俸禄は本藩からの直接支給)が与えられ、傅役の山岡が城代を務めた。
 慶長19年(1614年)2月7日、仙台にて元服し、宗泰と名乗り、寛永2年(1625年)に一門・伊達宗利の長女を正室に迎える。寛永3年(1626年)、弟・宗高と共に江戸へ上る兄・忠宗に随行し、大御所・徳川秀忠と将軍・徳川家光に拝謁する。寛永4年(1627年)11月27日、従五位下三河守に叙任され、同年12月には知行を10,670石に加増された。以後、政宗の命により宗泰は居城の岩出山には戻らず、一時帰国の間を除いては江戸に常駐して大名並の勤めを果たすことになる。これは政宗が仙台藩からの分知によって支藩を立てるのではなく、庶長子・秀宗のように新恩給与によって大名へ取立られることを期待して行わせたもので、政宗は幕府に対し重ね重ね宗泰への新恩拝領を懇請したが、結局は実現しなかった。
 寛永15年12月23日(1639年1月26日)江戸にて死去。享年37。嫡男・宗敏が家督を相続した。

 寛永2年(1625年)4月17日、岩出山伊達氏初代当主・伊達宗泰の長男として生まれる。正室の子である弟・右京が夭逝したため嫡男となる。
 寛永15年12月(西暦では翌1639年1月)、父・宗泰の死去にともない家督を相続し、同時に元服して藩主・伊達忠宗から偏諱を拝領し宗敏と名乗った。忠宗はまだ若年である宗敏を補佐させるため、宗泰の傅役でもあった安積重遠に宗敏の後見役を命じるとともに、本藩からも目付を派遣した。正保4年(1647年)には角田領主・石川宗敬の娘・千代鶴を正室に迎えている。
 宗泰は初代藩主・政宗の意向により、江戸に常駐して大名並の勤めを果たしていたが、忠宗は宗泰の死去にともないこれを打ち切って宗敏を国許に戻し、岩出山伊達氏は正式に仙台藩内の一門の家格に列することになった。そのため宗敏は居城・岩出山城と城下町の整備に努め、寛文2年(1662年)には岩出山城に二の丸を造営して居館を置いたが、翌寛文3年(1663年)2月1日に発生した火災で二の丸が焼失してしまう。
 万治3年(1660年)、仙台藩の重臣一同は酒乱による不行跡を理由として第3代藩主・綱宗の隠居願を幕府に提出する。世に言う伊達騒動の始まりであるが、宗敏はこの隠居願の筆頭に署名している。この隠居願は受理され、綱宗に代わって嫡男・亀千代(のちの綱村)が第4代藩主となった。この時、綱宗の後継として亀千代以外には綱宗の異母兄弟である田村宗良,伊達宗倫,伊達宗規を推す者が多かった中で、宗敏はただ一人、叔父の伊達宗勝を推したこともあって、女婿の津田景康と共に伊達騒動における宗勝派の中心人物と見なされたが、宗敏自身はほとんど積極的な動きを見せなかった。寛文11年(1671年)3月、大老・酒井忠清邸で発生した刃傷沙汰(寛文事件)の責任を問われて一関藩が改易され、宗勝とその家族に御預の処分が下されると、宗敏は宗勝の側室2人と子4人(虎之助,兵蔵,於竹,於妻)を預かるよう命じられた。延宝5年(1677年)1月28日、隠居して家督を嫡男・宗親に譲る。延宝6年(1678年)3月30日死去。享年54。遺言により宗泰生母・祥光院と宗敏生母・瓊林院の墓がある祥光寺に埋葬された。

伊達敏親 伊達邦直

 慶安4年12月25日(西暦では翌1652年2月)、岩出山伊達氏第2代当主・伊達宗敏の嫡男として生まれる。幼名は大力。
 明暦3年(1657年)7月9日、元服し藩主・伊達忠宗から偏諱を拝領し宗親と名乗る。同年9月から江戸証人となり、寛文5年(1665年)にこの制度が廃止されるまで一時帰国の間を除き江戸に在った。延宝3年(1675年)12月、上冷泉家の冷泉為清の娘・毛里を正室に迎え、延宝5年(1677年)1月、父・宗敏の隠居にともない家督を相続した。
 天和3年(1675年)8月、栗原郡若柳ほかに40貫720文の知行を拝領し、所領は合計1,464貫388文となる。この数字が岩出山伊達氏の最終的な表高となった。
 宗敏には30代半ばになっても跡取りがいなかったため、貞享3年(1686年)閏3月、石川宗弘の子・松之助を養子に迎えたが、松之助は実家を継ぐため石川家に戻ることになる。ついで元禄4年(1691年)6月、亘理伊達氏へ養子に出た弟・実氏の2男・四郎を養子としたが、四郎は夭逝してしまう。そのため3人目の養子として伊達宗元の5男・孫吉(母は宗親の姉・鶴松)を迎えることにし、元禄6年(1693年)5月に親類一同の了解を得た上で本藩に申請、翌元禄7年(1694年)4月に孫吉は岩出山に移った。これが第4代当主・村泰である。これら一連の養子縁組に関して、宗親は弟の伊達実氏,石川宗恒ら一門各氏の当主を招いてたびたび相談しているが、この話し合いは、元禄6年(1693年)に藩主・綱村の浪費癖と乱脈政治に対し一門が連名で突き付けた諫言状の作成についての協議も兼ねていた。
 宝永6年(1677年)9月19日、村泰に家督を譲って隠居した。宗敏は隠居後も城内に居住し、享保元年(1716年)7月22日には鷹狩りの途上で岩出山城を訪れた藩主・吉村を隠居所に迎え歓待している。同年8月9日、この年に将軍となった徳川吉宗の諱を避けて敏親と改名した。
 享保6年(1721年)2月23日死去。享年71。

 

 江戸時代末期の仙台藩一門・岩出山伊達家当主。明治維新後は北海道開拓に身を投じ、当別町の基礎を築いた。その功により正五位を贈られ、当別神社,北海道開拓神社に祀られる。亘理伊達家15代で有珠郡伊達村開拓に功があり男爵となった伊達邦成は実弟にあたる。
 明治維新の際に奥羽越列藩同盟に参加した宗藩の命により、官軍と交戦した。山形で勝ち戦功を挙げたが、味方の多くは官軍に下ったため、戦に敗れる。戦後、それまで14000石あった禄高を65石に減封された上、城は召し上げられ家臣の士分を剥奪された。侍ではなくなった家臣たちは帰農を命ぜられたが、邦直は彼らが路頭に迷うことを憂い、私財を処分して得た資金で、新政府の推し進めていた北海道開拓を志願する。願は許され、1869年(明治2年)に石狩国空知郡の支配を命ぜられた。しかし、この空知郡は内陸部に位置し、物資の輸送等が困難であったことから、海岸近くへの移転を申し入れた。叶わず再度家老の吾妻謙が太政官に申し入れたところ、今度は不届きを理由に吾妻が自宅謹慎を命ぜられる始末であった。
 その年の12月、邦直は家臣に命じ現地を調査させ、その結果を元に翌年自ら北海道に渡り調査を行った。政府から指定された入植地は極めて大雑把な指定であって、具体的にどこを開拓するかは現地機関である開拓使との交渉が必要だった。空知郡では開拓の見込みが立たないことから、交渉の末、厚田郡繋富の荷揚場を借用することが認められた。
 1871年(明治4年)3月2日に北海道へ向けて出発した。移住者は約180人。しかし、繋富は土質が悪く作物は育たなかったため、開拓使に嘆願し、代替地として当別が適しているとの結論に至り、開拓使より許可を得る。当別への移転は1872年(明治5年)を予定し、邦直は岩出山に戻り再度移住者を募った。第2回の移住者は182人で第1陣と合流し、当別の開拓に当たった。1879年(明治12年)の第3回移住者は250人に及び、これも邦直が募集に当たった。また、この年、当別では新たに戸長を設けることとなり、元家老の吾妻謙が就任する。
 開拓使当別詰所設置に伴い、邦直は同年7月に開拓七等属・開拓使勧業課当別在勤を命ぜられる。1881年(明治14年)2月26日、准陸軍少尉に任命され、3月には開拓七等属兼務となり従六位に叙せられる。1882年(明治15年)には所属が陸軍省となり、1885年(明治18年)5月陸軍屯田兵少尉になる。以後も各開墾地の見分を行うが、1891年(明治24年)1月逝去する。子の基理も同年5月逝去した。翌1892年8月、旧臣等が内務省に阿蘇神社(後の当別神社)創建を願い出て、邦直が祀られることとなる。