<藤原氏>北家 魚名流

F815:伊達政宗  藤原魚名 ― 藤原鷲取 ― 藤原為盛 ― 伊達朝宗 ― 伊達行宗 ― 伊達政宗 ― 伊達重村 F816:伊達重村

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伊達重村 伊達斉村

 寛保2年(1742年)4月19日、第6代藩主・伊達宗村の2男として生まれる。幼名は儀八郎。生母は坂信之(正三郎)の娘・性善院。延享2年(1745年)に長兄・久米之丞が早世したため世子となる。その後、国村と名乗るが、宝暦5年(1755年)に元服して将軍・徳川家重より偏諱を拝領し、重村と改名。宝暦6年(1756年)7月、父の死にともない家督を相続し第7代藩主となる。重村はまだ15歳であったため、若年を理由に幕府より国目付が派遣され、叔父の一関藩主・田村村隆の後見を受けた。
 ところが襲封早々、前年に発生した宝暦の大飢饉と、再び悪化の一途を辿り始めた藩財政への対応を巡って、五人の奉行職(奥山良風,津田定康,葦名盛寿,柴田成義,遠藤善信)の間で意見が対立、9月に柴田と遠藤が大條道頼と但木顕行の二人を新たに奉行職につけて人事を刷新するよう求めたのに対して、宗村政権の中核を担ってきた奥山・津田・葦名が反対したことで争いが表面化し、同月には柴田と遠藤の求めに応じた一門の亘理伊達村実,岩出山伊達村通,岩谷堂伊達村望・村富父子と白河村広の5人が、奥山・葦名を解任し大條・但木・中島成康の三人を新たに奉行職に起用するよう重村に進言した。
 事態の処理を任された後見役の村隆は岳父・村実の意見に従い人事刷新案に同意したが、奥山はこれに猛反発し、老中・堀田正亮への直訴すら辞さない構えを見せた。そうした最中に、葦名が宗村の存命中に自身の葬儀・廟所に関する指示を記した覚書の回覧を失念していたことが発覚する。覚書自体は何ら政治的な意味を持たないものであったが、人事刷新を求める側はこれを意図的な「御遺書」の隠匿であるとして奥山ら三人への攻撃材料とした。「御遺書」問題によってこの一件は政策論争から単なる吊し上げへと堕し、閏11月19日に津田は改易、葦名は閉門、奥山は逼塞の上で知行3分の2を削られて吉岡から小野田へ移封され、罷免された3人に代わって中島・大條・但木が奉行職に就任。翌年1月には重村の世子時代の付家老であった芝多康文が奉行職を拝命した(宝暦疑獄)。
 宝暦10年(1760年)、当時の関白・近衛内前の養女・年子(惇姫。広幡長忠の娘)を正室に迎える。その後、重村による藩政が本格的に始動することとなったが、重村は藩財政の建て直しに取りかかるどころか、薩摩藩主・島津重豪への対抗意識から猟官運動に狂奔し、莫大な工作資金を投じて藩の負債をさらに膨れ上がらせた。
 もともと仙台藩主は同格とみなす薩摩藩主に官位で差をつけられることを嫌い、薩摩藩主が昇進するたびに自身もこれと同格に引き上げるよう求めてきていた。重村は早急に官位昇進を実現するため、老中(松平武元)御側御用取次(田沼意次),大奥老女(高岳)らへ多額の金品を贈り、さらには将軍・幕閣の御機嫌取りのため、手伝普請を積極的に買って出て藩財政を逼迫させた。さらには、それを補うため領民に対して献金を募ったり、仙台産の鉄を使用して寛永通宝鉄銭を鋳造することを願い出て、7年間の期限付で許可された。しかし、貨幣価値の低下によって物価が急騰するなど、藩外にも深刻な悪影響を及ぼした。深刻な財政状態の悪化は藩内の不安感を増大させ、その矛先は奉行衆へと向けられ、しいては奉行間の勢力争いにも発展した
 寛政2年(1790年)、次男・斉村に家督を譲って隠居して左兵衛督と称して袖ヶ崎の江戸藩邸下屋敷に居住していたが、寛政8年(1796年)に55歳で死去した。 

 安永3年12月5日(1775年1月6日)出生。母は喜多山美哲(藤蔵)の娘・正操院。天明3年(1783年)に嗣子となり、祝村と名乗る。父の正室・観心院の養いとなる。守役は古田良智、付役は平賀義雅が勤める。
 天明7年(1787年)に元服して将軍・徳川家斉の偏諱を受けて斉村と改名し、従四位下,侍従・美作守となる。
 寛政2年(1790年)、父・重村の隠居を受けて家督相続し、第8代藩主に就任し、陸奥守・近衛少将となる。寛政5年(1793年)に関白・鷹司輔平の娘・興姫(後に誠子と改名、光格天皇の従姉)と結婚。
 寛政8年(1796年)には仙台藩主家に不幸が連続する。同年3月2日に正室の誠子を母として長男・周宗が出生したが、産後の肥立ちが悪く、同年4月16日に誠子が死去する。同年4月21日に江戸で父が死去する。斉村も帰国の途中に白河駅で病にかかり、帰国後に仙台城にて同年7月27日(1796年8月29日)に病没した。享年23。
 死亡当時、長男の周宗は乳児、次男の斉宗は胎児といった状況に加え、正式に後継者も決めていなかった。故に斉村の死去は江戸幕府はおろか藩内にも機密扱いとした上で、同年8月1日に斉村の病気回復が遅れている旨が幕府に報告され、藩内には同年8月12日(1796年9月13日)に死去したと公表の上で3日後、江戸幕府に斉村の病気による長男・周宗の末期養子としての相続願いが出され、認可された。 

伊達周宗 伊達斉宗

 寛政8年3月2日(1796年4月9日)に江戸にて出生する。生母の誠子は産後の肥立ちが悪く、同年4月16日に23歳で死去した。さらに同年4月21日には袖ヶ崎屋敷の祖父・伊達重村が死去した。同年7月27日に袖ヶ崎の下屋敷に移るが、同じ日に国許で父が死去した。こうして生後1年足らずの政千代(周宗)が仙台藩を相続することになった。
 本来なら乳児であり、将軍の御目見を得た後継者でないため相続できないところであったが、斉村の死去を幕府や家臣に隠した上で、親族の若年寄・堀田正敦や土井利謙,重村正室で養祖母の観心院との協議の結果、8月15日に幕府に対して末期養子での相続願いを出した上で10月29日に襲封した。併せて将軍徳川家斉の娘である綾姫と婚約した。
 観心院が周宗の養育と補佐を行い、その観心院と親戚大名の土井利謙や田村村資などとの相談の結果、堀田の後見を受けることとなった。ただし、堀田の役割はあくまで幕府と藩内の双方に対して藩の政治的不安を解消させることが狙いであり、観心院は藩政は奉行の中村景貞及び大内義門による補佐、藩内警護は一門家の伊達村氏,伊達村常,伊達村幸により行うよう、重臣には重要案件は伊予宇和島藩主の伊達村寿などの親類衆に相談するように命じ、政千代(周宗)の補佐体制が固まる。
 誕生と跡目相続の翌年の寛政9年(1797年)には、仙台藩において史上最大の百姓一揆が発生した。これは、前代で失敗した寛政新法の結果に行われた反動行政により、行政改革や冗費削減、役人の綱紀粛正の不徹底が原因だったとされている。この一揆に触発されて上級藩士61人を含む2033人の藩士による「さむらい一揆」も計画された。なお、同年中に綾姫が死去する。
 文化2年(1805年)に養育と補佐に携わってきた観心院が死去し、代わって実の祖母の正操院(喜多山氏)が補佐と養育に携わる。
 文化3年(1806年)6月11日に改めて、綾姫の異母妹の浅姫と婚約する。文化4年(1807年)に堀田正敦が蝦夷地巡検を幕府より任じられた4ヶ月間、松平定信が後見人となる。
 文化露寇によって文化5年(1808年)に幕府は仙台藩に警備兵派兵を命じられ択捉島や国後島、函館に総勢1700人が派兵される。
 文化6年(1809年)1月4日に政千代が疱瘡にかかり危篤となる。その後は後遺症により、公式の場に現れることなく、この年から政千代の隠居まで、異母弟の徳三郎(後の伊達斉宗)が藩主代行として儀式や接客に臨む。こうして表に出ないまま、文化7年(1810年)に諱を周宗と称したが、疱瘡の後遺症が回復しないため、文化9年(1812年)に周宗は弟の徳三郎を養嗣子として、同年2月7日に隠居したい旨を幕府に提出する。17歳で、しかも御目見のないままでの隠居は前代未聞であり、本来認可され難いものであったが、家斉の娘婿である故に特例で隠居が認可される。隠居後、大屋形様と呼ばれるが、ほどなく死去した。
 一説には文化6年(1809年)1月4日に疱瘡にかかり、そのままわずか14歳で早世したとされる。仙台藩は無嗣断絶を避けるため、周宗の死を3年間隠蔽し、幕府も伊達氏は東北最大の藩がゆえ、あえて放置していたともいわれる。

 寛政8年9月15日(1796年10月15日)に伊達斉村の次男として江戸袖ヶ崎の下屋敷にて生まれる。母は喜多山美昭(藤蔵)の娘。なお、父は同年7月27日に死去しており、父の死去後の出生である。文化元年(1804年)に上屋敷に引越す。なお、同年に水痘を患うが、後に全快。
 文化6年(1809年)に兄・政千代(周宗)が疱瘡にかかり、その後遺症で3年間表に出られず、代わりに徳三郎(後の斉宗)が儀式や接客を担当した。
 文化8年(1811年)に周宗の偏諱を受けて、徳純から宗純と改名し、文化9年(1812年)に周宗が初御目見なしでの隠居という特例下で隠居したのを受けて家督相続する。父・斉村同様、徳川家斉に初御目見を得てその偏諱を賜って斉宗と改名して元服する。従四位下少将に叙任され、陸奥守を任官される。また、紀州藩主徳川治寶の娘・鍇姫と文化11年(1814年)に婚礼を挙げた。
 文政2年(1819年)4月に病気になって諸寺社に祈祷させたが、同年5月24日(1819年7月15日)、死去した。享年24(満22歳没)。
 死去当時、子は庶出の女子のみだったので死後、家督は一関藩主・田村宗顕の養弟で一ノ関に居た田村顕嘉(後の斉義、第5代藩主・伊達吉村の8男・伊達村良の子で一関藩主・田村村資の4男)を婿養子にして相続させた。 

伊達斉義 伊達斉邦

 寛政10年3月7日(1798年4月22日)に江戸にて出生する。『寛政重修諸家譜』では幼名を吉五郎と記される。誕生直後、父の村資は隠居し、一関藩は既に養子になっていた宗顕が相続した。
 文化9年(1812年)に元服して諱を顕嘉、通称を石見と称した。ふさわしい年齢に達していないという理由に一関藩嗣子とならず、部屋住み身分として一関へ下る。
 文政2年(1819年)4月26日に一関から仙台城に迎えられ、仙台藩の藩治を摂関する。仙台藩から幕府に願いが提出された末に、同年5月25日、嗣子なくして亡くなった第10代藩主・斉宗の娘と婚約、その婿養子という形で第11代藩主に就任した。なお、婚約者の芝姫は当時3歳であった。同年5月27日に氏を田村から伊達に、通称を石見から藤次郎に改める。
 同年7月に亡き養父・斉宗より1字を取って諱を宗義と改め、更に8月には江戸に上って徳川家斉に御目見して斉義と改名し、従四位少将に叙任し陸奥守となる。ちなみに斉宗の後継候補には斉義の他に、仙台藩一門の登米伊達氏の伊達宗充の子である幸五郎(のちの伊達斉邦、当時2歳)や同じく仙台藩一門の涌谷伊達氏の源次郎(のちの伊達義基)がいたが、斉宗との血統の近さと年齢から見て斉義が適当だったとされる。
 文政9年2月22日(1826年)に斉宗の娘である芝姫と婚礼を挙げるが、文政11年11月27日(1828年1月13日)、30歳の若さで江戸で死去した。

 文化14年9月27日(1817年11月6日)登米郡寺池村の登米館にて出生。『仙台叢書』では文化14年5月28日出生とある。幼名は藤三郎、後に幸五郎。文政2年5月(1819年)に男子がなかった藩主・伊達斉宗が病床に伏したために、後継者を選定する必要が生じ、当時2歳であった幸五郎が、仙台藩一門の涌谷伊達氏の源次郎(のちの伊達義基、当時12歳),支藩一関藩主・田村宗顕養弟で従兄の田村顕嘉同様に藩主後継候補に挙がった。年齢や血縁の近さから田村顕嘉が伊達斉義として第11代藩主に就任する。
 文政10年(1827年)1月25日に伊達斉義の婿養子となり、翌日に通称を総次郎と改めた。翌文政11年11月27日(1828年1月13日)に養父の斉義が没すると、斉義の実子である慶邦が幼少であったこともあり、同年12月(旧暦)に家督相続した。なお、『仙台叢書』などによると、斉義が実際に死去してから後継者が決まらずに喪を秘している期間があり、この間に老中(水野忠成?)より斉義の正室に徳川家斉の子息を婚姻させて家督相続させる案が提示されており、水面下では家督相続までに紆余曲折があった。
 文政11年1月23日(1828年)に諱を宗礼と称し、1月28日に徳川家斉に初御目見を得て従四位少将に叙任の上、陸奥守に任官し、また斉義と同様、「斉」の字を賜って斉邦と改名する。天保2年(1831年)には従四位上中将に進む。
 天保8年(1837年)に斉義の娘である綵姫と婚礼を挙げ、同時に斉義の遺児で正室の実弟の穣三郎(後の伊達慶邦)を養嗣子とする。
 学問を好み、大槻清準に謡曲の新曲を作らせるなど、文学面では功績が大きい。天保10年(1839年)に藩内困窮により江戸への参勤交代が延期となり、翌年(1840年)には脚症となり、天保12年7月24日(1841年9月9日)、25歳の若さで死去した。跡を養嗣子の寿村(慶邦)が継いだ。 

伊達慶邦 伊達茂村

 文政10年(1827年)に斉義が死去した際、穣三郎(慶邦)は幼少で御目見が済んでおらず、後継者としての条件を満たしていないために後継者問題が起こった。幕閣(老中の水野忠成とされる)より嫡母と徳川家斉の子を結婚させて藩主とする提案を持ちかけられたが、大條道直ら藩の重臣がこれを断り、一門の登米伊達氏の総次郎(斉邦)を中継ぎに立てる。
 天保8年(1837年)に、第12代藩主となっていた斉邦が姉と婚礼を挙げると同時に、その養嗣子となって諱を寿村と称した。翌天保9(1838年)には将軍・徳川家慶の偏諱を賜って慶寿に改名。天保12年(1841年)に斉邦が25歳で死去すると、伊達宗家の家督および仙台藩主を継いで従四位少将に叙任され、陸奥守に任官される。また、藩主就任後からまもない天保14年(1843年)には亡き斉邦の一字を取って慶邦に改名している。
 19世紀初頭から、仙台藩は幕府から蝦夷地の警衛を命じられており、陸奥会津藩や出羽庄内藩などの東北諸藩も同じであったが、特に仙台藩の担当範囲は最も広く、択捉島・国後島などの千島列島にまで及び、慶邦の代には全蝦夷地の3分1程度まで拡大していた。この原野の警衛に要する費用は莫大で藩財政に重くのしかかり、慶邦は警衛地の一部を仙台藩領に組み込むことを幕府に求め、許されている。
 慶応4年(1868年)、仙台藩はいわゆる奥羽越列藩同盟の盟主として錦の御旗を掲げる薩長軍と戦ったが敗れ降伏。仙台藩は全領土を没収され、慶邦は養子の伊達宗敦と共に江戸へ連行され、死一等を減じられて謹慎閉門を申し渡された。同年末、4男の亀三郎(宗基)が、仙台藩28万石に減封された上で、家督相続は許された。
 明治7年(1874年)7月12日死去。享年50。駒込の西福寺に葬られた。明治23年(1890年)4月、伊達家の祖廟がある仙台の大年寺山に改葬された。 

 一関藩第9代藩主。のちに仙台藩主・伊達慶邦の養嗣子となり、伊達茂村と改名した。嘉永3年(1850年)6月8日、一関藩第8代藩主・田村邦行の長男として一関館にて生まれる。幼名は磐二郎。
 安政4年(1857年)5月12日、父・邦行の死去にともない家督を相続し、第9代藩主となる。文久3年(1863年)、跡取りのいなかった宗藩・仙台藩の伊達慶邦の養嗣子として迎えられることになり、急遽、一関藩主および田村家の家督を譲る養子を迎える必要に迫られた。はじめ一門亘理伊達氏当主・伊達邦成を迎えようとしたが、亘理の家老・常盤顕允らの猛反発に遭って断念し、代わりに同じく一門の角田石川氏から石川義光の子・啓之進が迎えられ、第10代藩主・栄顕(邦栄)となる。
 こうして10月9日、通顕は慶邦の養子となり、伊達庸村と名乗り(慶邦の初名・寿村から「村」の一字を与えられた)、同年12月19日、将軍・徳川家茂に御目見し、偏諱を賜って茂村に改名。従四位下侍従・美作守に叙任されたが、茂村は慶邦に先立って慶応3年(1867年)6月16日、江戸の浜屋敷にて死去した。享年18。

 

伊達順之助

 華族の子に生まれながら素行が悪く、麻布中学,慶應義塾中等部,学習院,立教中学など幾つもの学校を転々とした後、大正3年(1914年)、旧制海城中学校卒業。この間、立教中学在学中、明治41年(1909年)5月13日には東京明石町の路上で縄張り争いから不良学生を射殺する事件を起こし、10月15日の東京地方裁判所判決では懲役12年、明治42年(1910年)6月の控訴審判決では懲役6年を宣告されたが、伊達家の弁護士の依頼により探偵・岩井三郎が被害者の素行調査を行い、上告審を有利に進め、正当防衛であった事を立証。大審院の差し戻しによる宮城控訴院判決では執行猶予を得て釈放された。
 北一輝,大川周明,出口王仁三郎などとも親交が深く、大正5年(1916年)に張作霖爆殺計画、大正8年(1919年)に山縣有朋暗殺計画(共に失敗)等、過激な行動が目立つ。
 1916年に川島浪速が粛親王善耆らとおこした第二次満蒙独立運動にも参加し、その頃から大陸浪人として活動していたと思われる。第二次満蒙独立運動失敗後は山東自治聯軍に参加し、昭和4年(1929年)に張宗昌(奉天派)とは義兄弟の契りを交わし張宗援と名乗る。
 1919年、朝鮮総督・斎藤実預かりとなり、朝鮮に渡る。義州国境警隊長になる。大正12年(1923年)、武装朝鮮人の根拠地を急襲。昭和6年(1931年)、中国に帰化し張宗援と称す。山東省自治を目指す。昭和12年(1937年)、満州国軍4千名を率い山東に出陣。昭和14年(1939年)、「掖城事件」。伊達順之助部隊解散。昭和20年(1945年)、日本軍、伊達に「張宗援」部隊再編成を持ちかけるも不調。
 終戦後、中国青島にて日本人戦犯として連行。戦犯とされ青島拘留所,上海監獄臨時戦犯拘留所,江湾鎮戦犯収容所に収監され死刑宣告をうける。上海監獄に送られ、昭和23年(1948年)9月9日に銃殺刑に処せられた。