<藤原氏>北家 魚名流

F814:伊達行宗  藤原魚名 ― 藤原鷲取 ― 藤原山蔭 ― 藤原中正 ― 藤原為盛 ― 伊達朝宗 ― 伊達行宗 ― 小梁川盛宗 F821:小梁川盛宗

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小梁川盛宗 小梁川宗辰(伊達村興)

 伊達晴宗の代から伊達氏に仕え、出羽国置賜郡の高畠城を与えられていた。智勇に優れた人物で、最上氏の武将・里見民部との戦いや大内定綱との戦いで武功を挙げた。しかし1570年に中野宗時が出奔したときは、これを見逃したために義弟である輝宗の怒りを買った。1585年に伊達輝宗が死去すると、老齢を理由に一線から退いて隠居し、以後は伊達政宗の側近として政宗に助言したと言われている。晩年は泥播斎と号した。文禄4年(1595年)正月14日、京都で死去した。享年73。
 なお、同名の曽祖父の盛宗は伊達持宗の子で伊達郡小梁川の地に分家し、陸奥小梁川氏の祖となった。 

 仙台藩一門第七席・宮床伊達氏第3代当主。天和3年(1683年)9月7日、宮床伊達氏初代当主・伊達宗房の2男として生まれる。
 元禄4年(1691年)、前年に当主・小梁川宗英が跡取りを残さず死去したため、無嗣断絶の危機にあった一家の小梁川氏を継ぎ小梁川宗辰と名乗ったが、元禄8年(1695年)3月に宮床伊達氏を継いでいた兄の村房が一関藩主田村建顕の養嗣子として迎えられることになると、兄に代わって宮床伊達氏を継ぐことになった。そのため、宗辰は小梁川氏の家督を村田宗門の子・宗永に譲って実家に戻り、5月22日に宮床伊達氏第3代当主となって伊達村興と名を改めた。
 元禄15年(1702年)、柴田郡川崎要害を領していた一族・砂金氏の断絶にともない、村興に川崎要害が与えられることになり、享保7年(1722年)の一門・川崎伊達氏創設にともなう知行替えまでの20年間、居館を宮床館から川崎要害に移した。ただし、村興は翌元禄16年(1703年)に第5代藩主になった兄・吉村より補佐のため定府を命じられて仙台城下に詰めており、川崎要害に居ることはほとんど無かった。
 享保16年(1731年)3月、嫡男・村胤が急逝すると、白石城主・片倉氏を継いでいた村信を呼び戻し、直ちに家督を譲って隠居した(村信は家督相続にともない伊達村茂に改名)。明和3年(1766年)8月3日死去。享年84。

小梁川宗朝 小梁川宗秀

 伊達家第11代当主・伊達持宗の孫にあたる。若い頃は京に出て兵法・剣術の修行をしていたが、将軍・足利義晴に召し出される。伊達稙宗も奥州より黄金を贈って扶持したという。帰国してのちは稙宗に仕えたが、天文11年(1542年)に稙宗が嫡子・晴宗に幽閉されると、これを救い出した。伊達家における内訌である天文の乱では稙宗方として戦い、稙宗が隠居して丸森城に退くとこれに従った。
 戦国期の主従制においては地域間の国境地帯に位置する境目に位置する国衆などは複数の領主に帰属する両属関係として存在しているケースがあるが、宗朝の事例は地域間国衆の両属とは異なり戦国大名間の取次を務めた際に与えられる取次給の事例である可能性が指摘されている。
 永禄8年(1565年)、稙宗が死去すると、墓前で殉死した。

 天文の乱においては父と共に伊達稙宗に属す。
 元亀元年(1570年)に中野宗時と牧野久仲父子が謀反を起こすが、宗秀は新田景綱と共に征伐を命じられたが、同年、宗時と久仲が篭る小松城攻撃の先鋒を任せられ、戦闘の最中に討ち死にした。享年61。 

古田宗重
 古田宗重の代より古田氏を称した。古田重直は志田郡松山城主・江刺郡岩谷堂城主などを歴任し、仙台藩草創期には奉行職(他藩の家老に相当)を務め、着坐の家格を与えられた。古田本家は寛文元年(1661年)に重直の孫・共直が跡取り無くして死去し無嗣断絶となったが、寛政4年(1792年)の『伊達世臣家譜』には、分家の古田利延が39石6斗6升を知行し、虎間番士として存続しているとの記述がある。