大條氏第6代当主・大條宗家の嫡男として生まれる。宗家が死去する天正4年(1576年)までには家督を相続していたものと思われる。宗直は『天正伊達日記』に「大枝殿」と敬称付きで記載される伊達家の重鎮であり、人取橋の戦い,郡山合戦など伊達政宗の下で諸戦に従軍する。天正19年(1591年)、政宗が葛西大崎一揆煽動により岩出山へ減転封され伊達郡を没収されると、宗直も居城・大枝城を失い、伊具郡大蔵へと移り、文禄2年(1593年)にはさらに志田郡蟻ヶ袋に配置換えされている。この間、宗直は朝鮮出兵に参陣する政宗に従って国許を離れており、文禄4年(1595年)8月24日の秀次事件に際し認められた在京重臣一同の連判状にも署名している。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際して、政宗が和賀忠親を支援して白石宗直らを南部領に侵攻させたことで(岩崎一揆)、戦後も盛岡藩との間で緊張状態が続いていたため、慶長9年(1604年)、政宗は宗直を気仙郡長部に移し、中島宗求と共に藩境沿岸部の警備にあたらせた。 慶長15年(1610年)7月10日死去。嫡男の宗綱が家督を相続した。宗綱は磐井郡大原を経て、元和2年(1616年)に亘理郡坂元城主となり、以後大條氏は幕末まで同地を治めた(坂元大條氏)。
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大條氏第14代当主・大條道英の嫡男として生まれる。文政9年(1826年)に若年寄となり、天保3年(1831年)8月からは奉行職を代行、翌天保3年(1832年)1月には正式に奉行職に就任した。同年、仙台城内にあった茶室を拝領すると、自らの居城である坂元要害の三の丸にこれを移築した。この茶室は当初伏見城内に建てられており、初代藩主・伊達政宗が豊臣秀吉より拝領してのちに仙台へ移築されたものと伝えられている。昭和20年(1945年)7月10日の仙台大空襲によって、仙台城内に存在していた江戸時代からの建造物はそのほとんどが焼失してしまったが、この茶室は幸いにも戦災を免れて現存している。 天保6年12月(西暦では翌1836年)、子のいなかった道直は弟の道冾を養嗣子とし、天保14年(1843年)に道冾に家督を譲り隠居した。明治11年(1878年)死去。
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