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伊達朝宗 | 伊佐為宗 |
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『尊卑分脈』に記載されている藤原山蔭流の待賢門院非蔵人藤原光隆の息子である朝宗に比定されている。母は六条判官源為義の女と言う。『吾妻鏡』には、常陸入道念西が息子の為宗,為重,資綱,為家と共に奥州合戦で功を立てて伊達郡を与えられた記述が見られる。これが伊達氏の勃興であり、一般に念西を朝宗、為重が後の2代当主・宗村であると言われている。しかし、伊達氏の古い系譜・文書には初代を宗村としているものが多数見られることから、新井白石は『藩鑑』に於いて朝宗の息子の宗村こそが念西であると見做している。近代になってからは、松浦丹次郎が『伊達氏誕生』で同様の見解を採っている。松浦は3代当主・義広は次男・為重の息子であり、祖父・念西の養子になったとしている。また、最近では、宝賀寿男が朝宗と宗村は同一人物であり、更にはその系譜を『新編常陸国誌』を基にして、伊佐実宗 - 中村秀宗 - 助宗 - 朝宗(念西)とし、山陰流の朝宗と念西と呼ばれた朝宗を全くの別人との説を出している。義広は三男・資綱の息子であり、祖父・念西の養子になったと言う。いずれにせよ、初期伊達氏の系譜にはいまだ解明されていない部分が多く見られるのが現状である。 |
文治5年(1189年)、源頼朝が藤原泰衡追討のために行った奥州合戦(奥州征伐)に、弟の次郎為重,三郎資綱,四郎為家とともに従軍する。8月8日、奥州方の最前線基地である信夫郡の石那坂の城砦を攻略し、佐藤基治など敵18人の首を取り、阿津賀志山の経ヶ岡にその首を梟したという。 |
大進局 | 伊達宗村 |
鎌倉幕府の御家人・常陸入道念西の娘。源頼朝の愛妾。頼朝の庶子・貞暁の母。常陸入道念西は母が源為義の娘とされ、頼朝の従兄弟にあたる。 |
別名は殖野為重と伝わる。初代当主・伊達朝宗の次男で、母は結城氏。伊達氏の初代当主という説もある。 |
伊達義広 | 伊達政依 |
通称は粟野次郎,入道覚佛。卒年は定かではなく、『伊佐早文書』では建長3年(1251年)、『伊達系図』では康元元年(1256年)9月23日となっている。 |
陸奥国梁川城主。仮名は伊達次郎,粟野蔵人。剃髪した後は入道願西と号した。仏教の信仰が深く、京都五山や鎌倉五山に倣って、東昌寺,光明寺,満勝寺,観音寺,光福寺を創建し、伊達五山(現在の北山五山)とした。東昌寺は伊達家最初の菩提寺である。 |
瀬上景康 | 中村資綱 |
天文22年(1553年)、信夫郡大笹生城主・瀬上定康の子として生まれる。 |
文治5年(1189年)、藤原泰衡追討のため奥州合戦(奥州征伐)に従軍する。初め7月に鎌倉を出発した源頼朝に兄・為重と資綱が名を連ねている。8月に入り父・念西と4人の息子(常陸冠者為宗,次郎為重,三郎資綱,四郎為家)は共に前衛として出陣、敵方の最前線基地である信夫郡の石那坂の城砦を攻略して、大将の佐藤基治を生け捕った。この功により、陸奥国伊達郡を賜り、伊達姓を称したという。伊達に移るにあたり、下野国中村(中村城)を資綱が相続しているが間もなく、念西の養子とされる中村朝定が成人すると念西の仕置きに従い朝定が中村城を継いだため、資綱は陸奥国伊達郡梁川に移り住んだ。 |
田手宗高 | 伊達宗房 |
慶長12年(1607年)、仙台藩主・伊達政宗の7男として仙台城にて誕生した。幼名は長松丸。母は於山方(柴田宗義の娘)。 |
正保3年(1646年)8月5日、仙台藩2代藩主・伊達忠宗の8男として誕生。母は山戸勝重の娘・小笹。幼名は卯之助。 |
伊達村興 | 伊達村茂 |
天和3年(1683年)9月7日、宮床伊達家初代当主・伊達宗房の次男として誕生。母は片倉景長の長女・松子。幼名は亥之助。 |
正徳6年(1716年)4月7日、宮床伊達家3代当主・伊達村興の子として誕生。幼名は喜世之助。 |