<藤原氏>北家 魚名流

F812:藤原為盛  藤原魚名 ― 藤原鷲取 ― 藤原山蔭 ― 藤原中正 ― 藤原為盛 ― 伊達朝宗 F813:伊達朝宗

リンク F814F823F824F827
伊達朝宗 伊佐為宗

 『尊卑分脈』に記載されている藤原山蔭流の待賢門院非蔵人藤原光隆の息子である朝宗に比定されている。母は六条判官源為義の女と言う。『吾妻鏡』には、常陸入道念西が息子の為宗,為重,資綱,為家と共に奥州合戦で功を立てて伊達郡を与えられた記述が見られる。これが伊達氏の勃興であり、一般に念西を朝宗、為重が後の2代当主・宗村であると言われている。しかし、伊達氏の古い系譜・文書には初代を宗村としているものが多数見られることから、新井白石は『藩鑑』に於いて朝宗の息子の宗村こそが念西であると見做している。近代になってからは、松浦丹次郎が『伊達氏誕生』で同様の見解を採っている。松浦は3代当主・義広は次男・為重の息子であり、祖父・念西の養子になったとしている。また、最近では、宝賀寿男が朝宗と宗村は同一人物であり、更にはその系譜を『新編常陸国誌』を基にして、伊佐実宗 - 中村秀宗 - 助宗 - 朝宗(念西)とし、山陰流の朝宗と念西と呼ばれた朝宗を全くの別人との説を出している。義広は三男・資綱の息子であり、祖父・念西の養子になったと言う。いずれにせよ、初期伊達氏の系譜にはいまだ解明されていない部分が多く見られるのが現状である。
 朝宗は都において官を得る一方、常陸国伊佐郡に勢力を張る在地豪族でもあり、治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵した際には、前述の通り、頼朝が母方の従弟という関係もあってその麾下に馳せ参じた。文治5年(1189年)の奥州合戦に際しては、4人の息子とともに前衛として出陣、敵方の最前線基地である信夫郡の石那坂の城砦を攻略して、大将の佐藤基治を生け捕りとした。
この功によって、激戦地阿津賀志山がある陸奥国伊達郡を賜り、これを契機に伊達姓を称したという。朝宗の後は次男・宗村が相続し、その後裔は中世、近世を通じて大いに発展した。なお、旧来の常陸国の所領は長男の為宗が相続している。
 朝宗の築城とされる中村城に中村大明神と言う朝宗を祭神とする社が現存している。栃木県市町村誌によると中村大明神の由緒については「中村左衛尉朝定死后、中村大明神と崇り祀り、歳々十一月十五日土人之ヲ祭ルナリ」とあり宗村2男の朝定を祀る社であるとされている。この朝定は源義経の遺児経若との伝承があり、常陸坊海尊が藤原秀衡の命を受け源義経の子を朝宗に託したとする古寺誌が栃木県真岡市の遍照寺に残っている。中村大明神は中村城落城の後、最後の城主となった小太郎時長を祀る小太郎明神としてその後伝わり、現在は中村城跡に建立されていた場所から大正2年5月に遍照寺の境内に中村城を建てたとされる伊達氏初代の朝宗を祭神とし歴代の中村城主を祀る社として移築された。

 文治5年(1189年)、源頼朝が藤原泰衡追討のために行った奥州合戦(奥州征伐)に、弟の次郎為重,三郎資綱,四郎為家とともに従軍する。8月8日、奥州方の最前線基地である信夫郡の石那坂の城砦を攻略し、佐藤基治など敵18人の首を取り、阿津賀志山の経ヶ岡にその首を梟したという。
 この奥州合戦の戦功により、伊佐為宗の一族は頼朝から伊達郡を賜った。為宗は伊佐郡に留ったが、念西と為宗の弟などが伊達郡に下って「伊達」を称し、伊達氏の祖となった。
 承久3年(1221年)、承久の乱に従軍した為宗は、宇治川の戦いで戦死した。

大進局 伊達宗村

 鎌倉幕府の御家人・常陸入道念西の娘。源頼朝の愛妾。頼朝の庶子・貞暁の母。常陸入道念西は母が源為義の娘とされ、頼朝の従兄弟にあたる。
 大進局は大倉御所に仕える女房で、密かに頼朝の寵愛を受け、文治2年(1186年)2月26日、長門景遠(加藤景廉の一族)宅で頼朝の男子を出産する。事が露見すると、頼朝の妻・北条政子が「はなはだ不快」であるとして、出産の儀式はすべて省略された。
 建久2年(1191年)正月23日、政子の怨みが激しいため、頼朝から上洛を促され、京に近い伊勢国三カ山の所領を与えられた。建久3年(1192年)4月11日、頼朝から7歳になる男子の乳母父を命じられた小野成綱,一品房昌寛,大和守・藤原重弘らは政子の嫉妬の激しさに恐れをなしてことごとく辞退したため、最終的に長門景国(景遠の子)に任じられ、翌月に子を伴って上洛するよう定められた。5月19日、子は仁和寺の隆暁法眼(一条能保の養子)の弟子として入室するため上洛した。供には長門景国,江内能範,土屋宗光,大野藤八,由井家常が従った。由井の邸から出発する前日の晩、頼朝は密かに邸を訪れて子に太刀を与えた。子は出家してのちに貞暁と名乗る。
 その後、大進局は出家して禅尼となり、法印行寬(源行家の子)の世話で摂津国で老後を送っていたが、寛喜3年(1231年)2月、貞暁は病により46歳で母に先だって死去し、禅尼が深く嘆いたことが『明月記』に記されている。 

 別名は殖野為重と伝わる。初代当主・伊達朝宗の次男で、母は結城氏。伊達氏の初代当主という説もある。
 『吾妻鏡』には、常陸入道念西が息子の為宗,為重,資綱,為家と共に奥州合戦で功を立てて伊達郡を与えられた記述が見られる。これが伊達氏の勃興であり、一般に念西を朝宗、為重が後の2代当主・宗村であると言われている。しかし、伊達氏の古い系譜・文書には初代を宗村としているものが多数見られることから、新井白石は『藩鑑』に於いて朝宗の息子の宗村こそが念西であると見なしている。近代になってからは、松浦丹次郎『伊達氏誕生』で同様の見解が採られている。松浦は3代当主・義広は次男・為重の息子であり、祖父・念西の養子になったとしている。
 近年では、宝賀寿男が朝宗と宗村は同一人物であり、更にはその系譜を『新編常陸国誌』を基にして、伊佐実宗 - 中村秀宗 - 助宗 - 朝宗(念西)とし、山陰流の朝宗と念西と呼ばれた朝宗を全くの別人との説を出している。義広は三男・資綱の息子であり、祖父・念西の養子になったと言う。いずれにせよ、初期伊達氏の系譜にはいまだ解明されていない部分が多く見られる。 

伊達義広 伊達政依

 通称は粟野次郎,入道覚佛。卒年は定かではなく、『伊佐早文書』では建長3年(1251年)、『伊達系図』では康元元年(1256年)9月23日となっている。
 初代朝宗,2代宗村の頃まで、居城は伊達郡桑折郷の高子岡に築かれていたが、義広の代になって桑折郷の栗野大館に居城を移したとされている。祖父・朝宗,父・宗村双方の偏諱である「宗」の字が入っていないが、年代的に見て「義」の字は鎌倉幕府第2代執権・北条義時から賜ったものと思われる。
 承久3年(1221年)、承久の乱に家臣の原田某を遣わし、義時の子・北条泰時に従い宇治勢力と戦っている。
 伊達氏は伊達郡の地頭職に就いていたが、他にも出雲国・但馬国に地頭職を持っていた。これを継承したのが義広の兄である修理亮時綱で、出雲・但馬伊達氏の始祖となった。

 陸奥国梁川城主。仮名は伊達次郎,粟野蔵人。剃髪した後は入道願西と号した。仏教の信仰が深く、京都五山や鎌倉五山に倣って、東昌寺,光明寺,満勝寺,観音寺,光福寺を創建し、伊達五山(現在の北山五山)とした。東昌寺は伊達家最初の菩提寺である。
瀬上景康 中村資綱

 天文22年(1553年)、信夫郡大笹生城主・瀬上定康の子として生まれる。   
 永禄11年(1568年)4月、伊達郡小手荘小嶋口に於ける相馬盛胤と伊達輝宗の戦において抜群の忠功を挙げ、輝宗より伊達郡御代田郷の内数箇所の地を恩賞として賜った。
 天正4年(1576年)8月、伊達輝宗に従い相馬盛胤との戦いのため伊具表に出陣する。景康は軍を率い、飯坂宗康,大波長成,須田左馬之助らとともに13番備で出陣する。
 天正13年(1585年)11月、安積表に二本松義綱救援として佐竹義重,蘆名亀王丸名代,二階堂阿南,岩城常隆,石川昭光,白河義親ら連合軍が総勢3万余り率いて須賀川方面より攻撃してきた(人取橋の戦い)。景康は中島宗求,浜田景隆,桜田元親らとともに本宮城に布陣し、その後、乱戦となったが、翌日の連合軍退却により、人取橋の戦いは終結した。
 天正16年(1588年)5月15日、伊達政宗は石川光昌謀反の討伐のため米沢城を出陣。景康は信夫郡庭坂の麓において、伊達本隊を桑折政長とともに御迎えし御酒を進上した。同月22日、石川光昌領地の小手森城攻撃に出陣した。天正16年(1588年)6月15日、佐竹義重,石川昭光,岩城常隆らが主とする連合軍が再び安積表に攻撃してきた。郡山城(城主は郡山頼祐)を攻めるためであった(郡山合戦)。伊達政宗は郡山頼祐の救援依頼により出陣。防備のため福原城の前に御陣所を備える作戦にでた。そのため、景康は福原城(安積郡福原城。城主は福原孤月斎)・飯坂宗康と大嶺式部は窪田城(城主は中村右衛門)・大條宗直は高倉城へ城請取りに遣わされる。そんな郡山合戦の最中にも、相馬義胤は田村宗顕 (戦国大名)領への侵入を企て、度々攻撃をしかけて来たため、同年7月9日、景康は常葉城(城主は常葉伊賀)を守備する田村清康に増援部隊として派遣され、その警固にあたった。郡山合戦は、その後、多少の小競り合いが発生したが、同月16日、伊達政宗名代の留守政景と連合軍側名代の石川昭光の対面の義により、和睦となった。実に久々の兄弟同士の対面でもあった。
 天正17年(1589年)4月21日、岩城常隆が突如として田村宗顕の田村領に攻め入り、田村郡鹿股城(城主は鹿股久四郎、増援として福原孤月斎)は落城する。この時、鹿股久四郎と福原孤月斎は岩城常隆に侘び、三春城に退いた。そのため、伊達政宗の命により、景康は桑折宗長,桑折政長,飯坂宗康,大條宗直らと共に、田村宗顕の増援部隊として再び三春城に派遣され、田村氏領地の警固に赴いた。そんな最中、同年5月18日、伊達政宗が突如として相馬境の新地箕頸山城・駒峯城を攻める作戦を発令し、景康は、大條宗直,桑折政長とともに田村領より召し返され、相馬表攻擊に転身して出陣した。代わりに田村宗顕の三春城の警固には、伊達成実,白石宗実,片倉景綱の部隊が差遣わされた。
 天正17年(1589年)6月5日、摺上原の戦いにより、伊達政宗は蘆名義広に勝利、居城を会津黒川城に移す。同年9月28日、その会津黒川城において、景康は伊達宗清,増田宗繁と共に伊達政宗より饗せられる。天正19年(1591年)、伊達政宗が奥州仕置により岩出山に移る際、これに従い、今までの功を賞され采地を若干賜る。元和3年(1617年)7月21日死去。享年65。 

 文治5年(1189年)、藤原泰衡追討のため奥州合戦(奥州征伐)に従軍する。初め7月に鎌倉を出発した源頼朝に兄・為重と資綱が名を連ねている。8月に入り父・念西と4人の息子(常陸冠者為宗,次郎為重,三郎資綱,四郎為家)は共に前衛として出陣、敵方の最前線基地である信夫郡の石那坂の城砦を攻略して、大将の佐藤基治を生け捕った。この功により、陸奥国伊達郡を賜り、伊達姓を称したという。伊達に移るにあたり、下野国中村(中村城)を資綱が相続しているが間もなく、念西の養子とされる中村朝定が成人すると念西の仕置きに従い朝定が中村城を継いだため、資綱は陸奥国伊達郡梁川に移り住んだ。
 建久元年(1190年)、頼朝の上京に従い、鶴岡八幡宮参詣や東大寺供養の上京へも従っている。承久3年(1221年)の承久の乱、摩免戸の戦いで上皇軍の山田次郎重忠を破り兵衛尉に任ぜられる。安貞2年(1228年)7月、鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣が北条義村の屋敷に出掛ける際に従っている。 

田手宗高 伊達宗房

 慶長12年(1607年)、仙台藩主・伊達政宗の7男として仙台城にて誕生した。幼名は長松丸。母は於山方(柴田宗義の娘)。
 慶長18年(1613年)、柴田郡小泉を領していた一族・田手宗実の養子として送り込まれ、田手氏の名跡を継いだ。この時、田手氏庶流を含む宗実の家臣団の一部が宗高の家中に編入され、宗実ら元々の田手氏は小泉氏へと改めさせられたが、宗実の所領は宗高には引き継がれず(宗実の所領はそのまま安堵され、のち実子の田手高実に引き継がれた)、新たに柴田・刈田2郡に合わせて3万石を拝領し、村田城を居城とした(村田伊達家)。
 元和9年(1623年)4月16日、刈田岳が噴火し、噴石・降灰などにより伊達領内の田畑に甚大な被害が生じる。寛永元年(1624年)10月5日、政宗は明人の易者・王翼に命じて刈田岳で祈祷を行わせることにし、宗高を藩主名代として遣わせた。王翼をして神に祈らしむること7日、それからほどなくして噴火が終息に向かったため、人々は宗高の真心が天を動かしたのだと噂した。また、王翼は此度の功績により政宗より賞され300石を賜った。
 寛永3年(1626年)閏4月6日、兄の忠宗・宗泰と共に参勤として同月13日に江戸の伊達屋敷に着く。大御所・徳川秀忠と3代将軍・徳川家光に拝謁。
5月5日、父・政宗は、京都に上洛する秀忠と家光より御供を命じられる。
5月20日、政宗は先に上洛のために江戸を出発、忠宗と宗高も御供する。
6月19日、京都三条塩屋町御屋形に到着。7月10日、宗高は諸太夫に仰出され、従五位下・右衛門大尉に叙任される。8月14日、政宗が優雅の交遊に在京の日々を送っているこの頃、宗高は疱瘡を患う。それを聞いた徳川秀忠より政宗の元に高木九兵衛を上使として見舞が遣わされる。しかし、治療の甲斐もなく、宗高は同月17日に宿所の二条要法寺にて病死した。享年20。宗高の遺骸は、ただちに伊達家家臣の武山重信と堀越重治が随行し、奥州柴田郡村田城へ下った。遺骸は、9月6日の午の刻(正午)に村田に着き、翌7日、龍島院にて葬礼が行われ埋葬された。同日、家臣10名が殉死した。 

 正保3年(1646年)8月5日、仙台藩2代藩主・伊達忠宗の8男として誕生。母は山戸勝重の娘・小笹。幼名は卯之助。
 慶安2年(1649年)、前年に死去した一族・田手高実の婿養子に迎えられて田手家を継ぎ、江刺郡上口内領主となる。万治2年(1659年)8月28日、高実の実子・貞実の元服に合わせて田手家の名跡を貞実に譲る。別家を興すことになった宗房には伊達姓が与えられ、一門の家格に列して磐井郡大原に知行替えとなった。
 翌万治3年(1660年)に黒川郡宮床に所領を拝領すると、寛文6年(1666年)には同地に居館を構え、宗房の子孫は柴田郡川崎城に居館を移した一時期を除き、幕末に至るまで宮床を本拠とした。このため宗房の家系を宮床伊達家と称する。
 寛文7年(1667年)6月2日、正室の法林院が死去する。宗房と法林院の間には子供がおらず、義弟・貞実も寛文5年(1665年)6月16日に跡継ぎを残さず死去しており、このため田手家宗家の血統は断絶した。延宝4年(1676年)6月25日、片倉景長の娘・松子を後妻に貰い受ける。松子との間には男子2人が生まれた。
 貞享3年(1686年)1月13日死去。享年41。長男・助三郎(村房)が家督を相続した。この助三郎がのちの仙台藩5代藩主・伊達吉村となる。 

伊達村興 伊達村茂

 天和3年(1683年)9月7日、宮床伊達家初代当主・伊達宗房の次男として誕生。母は片倉景長の長女・松子。幼名は亥之助。
 元禄4年(1691年)、前年に当主・小梁川宗英が跡取りを残さず死去したため無嗣断絶の危機にあった一家の小梁川氏を継ぎ小梁川宗辰と名乗ったが、元禄8年(1695年)3月に宮床伊達氏を継いでいた兄の村房(後の陸奥国仙台藩主・伊達吉村)が陸奥一関藩主・田村建顕の養嗣子として迎えられることになると、兄に代わって宮床伊達家を継ぐことになった。そのため、宗辰は小梁川氏の家督を村田宗門の子・宗永に譲って実家に戻り、5月22日に宮床伊達家3代当主となって伊達村興と名を改めた。
 元禄15年(1702年)、柴田郡川崎要害を領していた一族・砂金氏の断絶に伴い、村興に川崎要害が与えられることになり、享保7年(1722年)の一門・川崎伊達家創設に伴う知行替えまでの20年間、居館を宮床館から川崎要害に移した。ただし、村興は翌元禄16年(1703年)に5代藩主になった兄・吉村より補佐のため定府を命じられて仙台城下に詰めており、川崎要害に居ることはほとんどなかった。
 享保16年(1731年)3月、嫡男・村胤が急逝すると、白石城主・片倉氏を継いでいた村信を呼び戻し、ただちに家督を譲って隠居した(村信は家督相続に伴い伊達村茂に改名)。明和3年(1766年)8月3日死去。享年84。

 正徳6年(1716年)4月7日、宮床伊達家3代当主・伊達村興の子として誕生。幼名は喜世之助。
 享保5年(1720年)に跡取りのいなかった白石城主・片倉村休が危篤状態に陥ると、伯父である藩主・伊達吉村の命によって村休の末期養子となり片倉家6代当主となる。ただし喜世之助は幼少のため、古内義長が後見人となって家政を総監し、片倉領には目付が派遣されて統治にあたった。
 享保8年(1723年)3月21日、元服し、吉村より偏諱を授かって片倉小十郎村信と名乗る。ところが、享保16年(1731年)3月に宮床伊達家を継ぐはずであった兄・村胤が急死すると、吉村は村信に村興の跡目を継ぐよう命じたため、村信は一族・遠藤定利(3代片倉景長の3男)に片倉家の家督を譲った。
同月、実家に戻った村信は村興から家督を譲られて宮床伊達家4代当主となり、伊達助三郎村茂と名を改めた。
 寛延2年(1749年)8月5日死去。享年34。嫡男・村嘉が家督を相続した。