<藤原氏>北家 魚名流

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藤原為盛 中村実宗

 長和元年(1012年)の藤原実頼忌日には五位として入礼。長和2年(1013年)以前に加賀守を務めていた。寛弘2年(1005年)左大臣・藤原道長に馬を2匹献上している。位階は従四位下まで昇ったが、散位が長く任官記録は加賀守と越前守などに留まる。
『今昔物語』の「越前守為盛、六衛府官人に付くこと」では狡賢い人物として描かれているが、実際には任符を無くしたりとミスが多かったようである。
 伊達氏ら有力武家がその末裔と称した。歌人の加賀少納言も為盛の娘とする説がある。

 中村氏や伊佐氏の祖。康和2年(1100年)、陸奥守兼鎮守府将軍に任じられる。嘉承2年(1107年)8月、堀河天皇崩御に際し、香隆寺・興福寺での法要の使節を務める。
 天永2年(1111年)に常陸介に任命され、常陸国の伊佐荘に伊佐城を築き、伊佐実宗と称する。朝廷より常陸国に対し臨時の課税を命じられたが、実宗は赴任早々でもあり、国内が疲弊して税を支払うことができず、大蔵卿の大江匡房に免除を願い出、匡房はその願いを受容れ、遠江に税を課した。
 永久元年(1113年)実宗は鹿島神宮の造営に貢献する。武蔵の横山党の乱を追討して功をあげ、その後、真壁郡中村に居住して中村を氏とし、中村実宗と称した。

中村光隆 藤原親子
 光隆の室は源為義の娘にして源義朝と兄弟関係にあり、光隆の息子・朝宗はその由縁にて源頼朝の御家人になったとされる。息子・朝宗の「朝」の字は朝宗の叔父にあたる源義朝または源頼朝から受けたと謂れ、光隆の孫にあたる伊佐為宗の「為」の字も為義に由来するものと考えられている。諸説はあるが、何れにせよ光隆の孫にあたる大進局は源頼朝の側室にて貞暁の母として知られており、光隆の頃より代々源氏との関りが深くなっていったことを示している。

 前半生については詳細不明。1053年(天喜元年)東宮尊仁親王(後の後三条天皇)に第一皇子(後の白河天皇)が誕生した際、藤原実政の妹や源定良の娘等と共に乳母となる。生母・藤原茂子や他の乳母が早世したため、親子は皇子の「唯一の母」として、大きな存在感を持つこととなった。摂関家との縁の薄い皇子が政界に力を持つことは予想されていなかったが、後冷泉天皇に跡継がなく、1068年(治暦4年)後三条天皇が即位すると皇子は親王宣下を受けて貞仁親王となり、翌年立太子。親子も東宮の乳母として従五位下の位階を得た。更に、1073年(延久4年)、後三条天皇の譲位により東宮が即位すると、親子は正三位という破格の待遇を受けることとなった。1087年(応徳3年)天皇が譲位しつつ権力を掌握し院政を開始すると、親子の子である藤原顕季も院の近臣として力をつけ、六条藤家の祖となった。「太上天皇唯一之御乳母」と呼ばれた親子の位階は従二位にまで上がるが、晩年は出家して後生を祈る生活に専念した。
 白河天皇が凶日に生まれたため、親子は乳母としての初出仕に、同じく凶日を選んだという。善勝寺供養願文に、「浄土広懸望於阿弥尊、依被聴女身往生也」と記した。これを、男子に変成することを要しない、女人往生の先駆的な表現ではないかとする研究者もある。