『小右記』によると、永延2年(988年)3月当時、五位・伊賀守であった。春宮亮を経て、正暦3年(992年)正月に備中守に任ぜられる。この後、内蔵頭となり、播磨守を務めた。長保6年(1004年)正月の叙位において、陳政は内裏造宮の功によって叙位を受けることになっていたが、弟の季随にこれを譲っている。寛弘4年(1007年)が記録上最後となり、これ以後の消息は不明。冷泉院判代官も務めた。 |
藤原兼家に嫁いで藤原道隆,道兼,道長,超子,詮子らを生むが、夫の兼家が摂政になる前に死去した。孫の一条天皇の即位後の永延元年(987年)に正一位を贈位された。また、中級官人であった兄の安親も天皇の外戚として参議に任じられて公卿に列した。 また、兼家の妻の1人であった藤原道綱母の『蜻蛉日記』には、直接名指しされないものの、時姫と推測される女性が登場し、作者がライバル意識を抱いている描写が存在している。後に時姫とその子供達が兼家の邸宅東三条殿に招かれたことも書かれている。 ただし、道長ら兄弟の生母を兼家の側室の1人であった安親の娘(時姫の姪)とする異説もあるが、安親と時姫の長男とされる道隆の年齢差(31歳)を考慮すると、両者は伯父・甥の関係として、道隆らを時姫所生とするのが妥当とする反論がある。また、没日についても、1月21日とする説もあるなど、夫や子供の出世以前に没したために詳細な伝記については不明な部分が多い。
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