<藤原氏>北家 魚名流

F813:伊達朝宗  藤原魚名 ― 藤原鷲取 ― 藤原山蔭 ― 藤原中正 ― 藤原為盛 ― 伊達朝宗 ― 中村朝定 F827:中村朝定

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中村朝定 中村経長

 文治年中に朝定が中村常陸入道念西(伊達朝宗)の養子となってまもなく奥州合戦が起こり、文治5年(1189年)8月、念西の4人の息子が源頼朝に従い奥州合戦に従軍し石那坂の戦いで戦功を得、念西は伊達郡と信夫郡を賜わり伊達の地頭になった。同年冬、朝定は念西が地頭となった伊達に移るにあたり常陸冠者為宗に預けられ、常陸四郎と名乗り石那坂の戦い第一の活躍を見せた為宗や荘厳寺の行勇阿闍梨らの養育を受けた。この荘厳寺坊・行勇阿闍梨は念西が荘厳寺を再興した際に鶴岡八幡宮より招聘していた。建久年頃は下野の中村は念西の3男の資綱、常陸の伊佐は常陸冠者為宗、伊達は為重(宗村)と息子の義広がそれぞれ統治していた。
 建仁年頃に成人となると念西の遺言に従い中村城に入り本姓の中村を相続した。それまで中村の荘を預かっていた資綱は実質鎌倉にいて幕府の職に就いていた。朝定(義宗)が成人し中村城主となると資綱が長らく鎌倉にあったため領地が疲弊していたので、朝定は領民に良く、そして養父・念西、宗村よりの中村領における治水に励み、下野衣川(現・鬼怒川)よりの水路を勝瓜口より領内への用水路開拓を自らの治世に尽くした。中村領民は朝定が亡くなった後に中村城近くに朝定を慕い『中村大明神』を建立した。
 承元3年(1209年)、源実朝が常陸冠者為宗に長世保の拝領地の開墾を命じた際に、朝定を伊佐為家の鎌倉舘預かりとし実質は朝定・縫殿助父子を鎌倉の監視下に置いた。鎌倉幕府は中村領を伊勢神宮領小栗郷「小栗御厨」を管理していた小栗氏に地頭を任じ中村領を管理させた。この頃、朝定は義宗と名乗っていたが、幕府は義経に通ずる義の通字を良しとせず養父・朝宗より1字賜り朝定と改めた。朝定、その子中村縫殿助、孫の中村太郎は、八幡宮に奉納するほどの弓の遣い手であった。承元3年以後、朝定は伊達、伊佐氏のもと鎌倉にあって旧領の下野国中村への帰還は叶わなかった。中村氏が旧領を取り戻すのは、鎌倉幕府が滅亡した朝定より5代後の中村経長の代まで待つことになる。
 朝定には源義経の遺児伝承が残る。青森県弘前市新寺町の圓明寺(円明寺)の縁起には「千歳丸のちの経若丸は義経の子であり、千歳丸を常陸坊海尊に託し、常陸介念西に預け後に養子にした」との伝承や、『真岡市史案内』には、朝定は幼名を経若と言い、その出自については源義経の遺児経若であるという。古寺誌によると源義経の遺児経若が伊佐為宗によって養育され成人後、中村蔵人義宗と名乗り、後に改めて中村左衛門尉朝定と名乗った。この遍照寺や中村八幡宮を中心とした地域の寺院等に同様の伝承文献が存在する。
 伊達氏側による朝定についての記録・史料については『亀岡八幡宮代参八幡氏由緒』にその名を確認できる。伊達氏側の史料によると朝定については念西の嫡子としており、その名は八幡太郎義宗と記載されている。藤原姓を本姓とする伊達氏において源氏嫡流を意味する八幡太郎の名を冠し、本姓中村を継がせた嫡子扱いと伊達氏においては特別扱いをしていたのが窺いとれる。
 『吾妻鏡』の文治3年2月10日条には、義顕(義経)が奥州入りした際に「正室と男子,女子の子供を連れていた」とされているが、衣川の戦いで死亡したのは4歳になる女児のみ記載されていて男子の死については記載されていない。『続群書類従』の「清和源氏系図」には源義経の男子として千歳丸が挙げられている(陸奥国の衣川館において3歳で誅殺されたとの記載もある)。秀衡が、常陸坊海尊に義経の縁者にあたるとされている念西に託すよう命じたとのことで義経一行が奥州入りした文治3年2月から秀衡が亡くなったとされる10月の8ヶ月の間に経若が連れ出されたされていることや衣川の戦いで亡くなったのが女子のみの記録などから、この千歳丸が経若であるとの伝承を裏付けているとの説もある。

 中村城主。中村朝定が鎌倉幕府により鎌倉に舘を持ち終生の管理下に置かれたためそれより数代にわたり中村城が城主不在となっていた。鎌倉時代後期頃、伊勢神宮領小栗郷「小栗御厨」を管理していた小栗重貞が鎌倉幕府より中村荘の地頭に任ぜられ中村領を管理していた。経長は幕府滅亡後に建武の新政にあった足利尊氏に与し、建武2年(1335年)7月に中先代の乱が起こり、経長は足利尊氏の軍にあって相模川の戦いで北条時行の軍を撃破し功を立て、本領の中村荘を回復し再び中村氏が城主となった。
 延元元年/建武3年(1336年)、足利尊氏が摂津豊島河原の戦いで新田義貞軍に大敗を喫し九州に落ち延び失脚した。尊氏の失脚を受け、経長は中村城において援護の段が断たれた。父・中村義元や同族の伊佐氏が伊佐の地にて宗藩の伊達行朝とともに北畠顕家の軍にあっため、経長は伊達行朝の介により南朝方に属することになった。
 延元2年/建武4年(1337年)8月、北畠顕家軍が白河関を越えて下野に入った際に、経長は中村城より自軍をすすめ伊達行朝軍とともに足利方の小山城を攻略し陥落させた。12月には利根川の戦いの利根川において、安保原の戦いの安保原においてそれぞれ足利義詮軍を討ち破った。その後、宇都宮公綱が加わり、経長は伊達行朝とともに北畠顕家軍勢にあって鎌倉を攻略した。
 延元3年/暦応元年(1338年)7月、鎮守府将軍に任命された北畠顕信が北畠親房と共に後醍醐天皇皇子の義良親王,宗良親王に供奉して伊勢に下向した。9月、義良親王,宗良親王は伊勢より海を渡り陸奥国に赴こうとし、経長は伊達行朝,結城宗広とともに供奉の船上にあった。度会の大湊より東国に到らんとした際に途中で暴風にあい兵船が四方に散乱し、義良親王,宗良親王は吉野に戻り、経長,北畠親房,伊達行朝の船は常陸の海岸に漂着した。
 小田治久が北畠親房のもとに馳せ参じ、親房は小田治久の招聘により神宮寺城に入り、経長,伊達行朝は中村城へと帰還した。北畠親房は北朝軍に攻め込まれるも持久の策なく神宮寺城から阿波崎城、そして小田城へと逃避し、小田城において関東各地の反幕勢力の結集を呼びかけた。遂には宇都宮公綱,芳賀高貞が北朝方に味方したために、小山朝氏を招聘したが朝氏がこれに従わなかったため、北畠親房の命を受けた経長,伊達行朝は真岡,烏山へと派軍し芳賀高貞父子を討ち取った。
 興国元年/暦応3年(1340年)、経長,行朝軍が宇都宮・芳賀軍を討ち破ったが小田城にあった北畠親房軍は足利尊氏の命を受けた高師冬に小田治久は降参してしまい、小田氏に見限られてしまった北畠親房は関宗祐の関城に入り、北畠顕時は大寶城に楯籠もった。北畠親房は経長に命じ、行朝を嚮導し常陸国伊佐郡の伊佐城の守りに入らせた。
 この攻防が長年に渡り繰り広げられるも北畠親房は敵と身内の両方から突き崩される結果となり、興国4年/康永2年(1343年)に親房方の城が陥落すると北畠親房は吉野へと帰還してしまった。北畠親房が落ち延びて行ってしまい11月に伊佐城は遂に足利尊氏の命を受けた高師冬に城を包囲される。経長と行朝は孤立無援となるもその包囲を突破し行朝は自領へ戻った。経長は中村城に帰還したが尊氏,親房と2度の主君の失脚、そして宗藩の伊達行朝の落延びに会い万策尽きるも、一時は鎌倉を攻め落とした際に共闘した宇都宮公綱、芳賀高名はその武名を貴び、経長を臣に取り込むことを善作と鑑み、中村の領地を宇都宮領にするを以って宇都宮領の境目の重要地である中村城を武名高い経長に任せた。中村城は宇都宮氏の臣として以後戦国時代まで経長以降の中村氏累代が居住することになる。

中村親長 中村時長

 実名は不詳。入道して玄角。宇都宮氏の五指に入るほどの闘将と謳われた。源義経の遺児とされる中村朝定より数えて15代目の孫にあたる。中先代の乱において宇都宮氏の臣になり旧領である中村城をこの玄角の代まで累代居住としていた。入道して嫡男・時長が中村城主になる。
 天文13年(1544年)10月に結城氏の家臣で負け知らずの猛将と謂われる水谷正村(後の蟠龍斎)が攻めてきた際に嫡男の時長とともに撃退している。領民に慕われていた玄角親子は中村の領民と共にその晩、祝杯をあげていたがその領民を盾に正村の軍勢が夜襲を掛けた。玄角は嫡男・時長に城に火を放ち、その隙に領民を逃し主家の宇都宮を頼るよう命じた。玄角は城の南西において激闘の中、討ち死にした。時長は父,玄角の命により中村城に火を放ち無念の中、宇都宮へ返した。その後、中村領は敵に落ちるが領民は中村玄角・時長親子を慕い「畑に地しばり 田にひる藻 久下田に蟠竜なけりゃよい」という草取り唄を歌い継ぎ、果敢に領民を守った玄角の討ち死にの地には碑が立ち、最後の城主時長を祀る社が領民によって建立され、現代まで伝わっている。
 中村氏は宇都宮氏の家臣としては、中村城落城までの間、中村十二郷を中心に2千石以上を領したとされている。

 中村朝定より数えて16代目の孫にあたり、天文13年(1544年)10月の中村城落城時の最後の城主(親長の項参照)。
 天文14年(1545年)、水谷正村は中村領を手中に治めるも玄角の策により中村城が焼失していたために久下田城を宇都宮領との境界近くに築城し、下館城には弟の水谷勝俊を配置した。中村城の戦いの顛末に宇都宮俊綱は憤激し、4月に武田治部太夫信隆を大将に時長、八木岡貞家を先鋒に久下田城に攻め入った。時長は常野の鏡久下田表に水谷勢と戦ったが、大将の武田治部太夫信隆、八木岡城主の八木岡貞家が討ち取られてしまい、時長は孤軍奮闘なるも旧領を取り戻すことは叶わなかった。
 中村城の戦い,久下田城の戦いの後、天文15年(1547年)~24年(1555年)の頃に時長は中村城の弔いと敵方に城址を利用されないため、領民を守るためにと、時長自らが中興開基となり遍照寺を北東に3kmほど離れた茅堤の地より中村城址に遷らしたとされている。中村領民たちは宇都宮へと移領してなお中村の郷を思護する時長を慕い中村大明神を時長の名である「中村小太朗神社」として、結城領、その後天領となった後にも領民たちの手によって守られ現代まで伝えられている。なお現在は中村朝宗(伊達朝宗)をご祭神とし歴代の中村氏を祀り、中村城址内である遍照寺の敷地内へと移築されている。
 天正14年(1586年)、水谷正村は宇都宮国綱の家臣・今泉泰光の上三川城へ攻め込んで来た。国綱は芳賀高氏,長山通兄を大将に今泉泰光(上三川城主),薬師寺阿岐守,清水大和守、そして時長を伴い水谷正村と対陣した。結城晴朝は勝機無く、中村領の内、寺内,若旅,加倉など多くを宇都宮領とする条件で和睦を申し出、時長は旧領復帰を果たすこととなった。
 時長は宇都宮広綱,宇都宮国綱と宇都宮氏の重臣となり、旧領復帰が叶うも中村城が落城していたため、拝領された宇都宮の地に居た。天正18年(1590年)に、伊達政宗が秀吉に服属してほどなく、秀吉の日本統一が達成された宇都宮城で奥州仕置(宇都宮仕置)が行われた。この宇都宮の地において時長と政宗が接見したとされている。
 慶長2年(1597年)に書かれた宇都宮国綱家臣名簿には宇都宮国綱の8名しかいない知行2千石以上の家臣の最初に名を連ねている。中村城落城後に書かれた宇都宮氏分限帳では知行100石に減封されているので知行地のほとんどが中村12郷であったことが窺える。
 慶長2年10月13日(1597年11月22日)豊臣秀吉により宇都宮国綱が突如として改易された。宇都宮国綱没落後は宇都宮氏の家臣たちは国綱に帯同することが許されず、そのほとんどが村役人などになり宇都宮の地に残らざるを得なかった。時長は宇都宮氏より拝領していた戸祭村の中城(戸祭城)跡地にそのまま留った。時長はこの宇都宮国綱が改易された慶長2年に没したと伝わっている。
 主家である宇都宮氏と旧臣たちとの交流は江戸時代も続いたが、宇都宮氏が宇都宮城主として再興することはなかった。遍照寺の古記録では、時長は中村城落城後に奥州岩ケ淵の館に住んだとされているが、仙台藩の中村日向守は元は新田氏で元禄3年(1690年)仙台藩4代目の藩主・伊達綱村より中村の姓を拝領し中村日向守と名乗り岩ケ崎に住したとの記録が残されている。江戸時代でも仙台藩との交流があった同地に同じ中村日向守であったため混同されて伝わったものと考えられている。