F813:伊達朝宗 | 藤原魚名 ― 藤原鷲取 ― 藤原山蔭 ― 藤原中正 ― 藤原為盛 ― 伊達朝宗 ― 伊達為家 | F824:伊達為家 |
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稗貫為重 | 稗貫晴家 |
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仙台藩士の稗貫氏は奥州藤原氏滅亡後の建久8年(1197年)、仙台藩主・伊達氏の始祖である伊達朝宗の4男(3男とも)で駿河伊達氏の祖である伊達為家の子・伊達為重が稗貫郡に下向し、小瀬川城に入りその地名を姓にして稗貫為重と名乗ったのが始まりとされていた(『伊達世臣家譜』)。また、南部藩側の記録としては藤原北家流とするのが一般的であるが、後年の資料が多く、稗貫氏の始祖および稗貫郡下向に時期についての定説はない。『遠野南部文書』によると、建武元年(1334年)に戸賀出羽前司と中条出羽司時長がみえ、稗貫氏が藤原流中条家の分流とされている。 |
生没年未詳で詳細についても不明だが、葛西家第13代当主・葛西宗清の子とされる。父の宗清は伊達成宗の子であるため、晴家は成宗の孫にあたり伊達家の一門衆である。 |
稗貫広忠 | 伊達景宗 |
稗貫氏は鎌倉時代からの名族で、広忠は和賀氏から出て稗貫輝時の養子となり、稗貫氏を継いだ。 |
駿河伊達氏は、為家6世の孫・左近将監資宗の女婿となった右近将監景宗が祖とされる。 |
伊達宗綱 | |
伊達氏は今川氏に仕えていたが、義元死後、多くの武将が今川氏を見限っていった。高天神城城主・小笠原長忠もその一人で徳川家康に属して本領を保持していた。伊達与兵衛宗綱は、長忠とともに家康に属したが、天正2年(1574年)、武田勝頼の攻撃で高天神城が武田氏の手に落ちると、城主・長忠とともに武田氏に従った。その後、武田氏が滅亡すると、宗綱は北条氏規に仕え、さらに結城秀康に仕え、子孫は津山藩士になったという。 |