<藤原氏>北家 魚名流

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稗貫為重 稗貫晴家

 仙台藩士の稗貫氏は奥州藤原氏滅亡後の建久8年(1197年)、仙台藩主・伊達氏の始祖である伊達朝宗の4男(3男とも)で駿河伊達氏の祖である伊達為家の子・伊達為重が稗貫郡に下向し、小瀬川城に入りその地名を姓にして稗貫為重と名乗ったのが始まりとされていた(『伊達世臣家譜』)。また、南部藩側の記録としては藤原北家流とするのが一般的であるが、後年の資料が多く、稗貫氏の始祖および稗貫郡下向に時期についての定説はない。『遠野南部文書』によると、建武元年(1334年)に戸賀出羽前司と中条出羽司時長がみえ、稗貫氏が藤原流中条家の分流とされている。
 ただし、近年では異説が有力となり、武蔵国埼玉郡小野保を本貫地とした御家人の中条氏が祖とされている。治承4年(1180年)、源頼朝の挙兵で、中条成尋は頼朝に協力し、石橋山の戦いで活躍する。成尋の嫡男・家長は八田知家の猶子となり、中条家長を名乗り、中条氏の祖となった。家長は鎌倉幕府の評定衆に登用され、尾張国守護や三河国高橋庄地頭に補せられるなど幕府で重用された。 

 生没年未詳で詳細についても不明だが、葛西家第13代当主・葛西宗清の子とされる。父の宗清は伊達成宗の子であるため、晴家は成宗の孫にあたり伊達家の一門衆である。
 時期は不明だが、後嗣のいなかった稗貫家に養子に出され、やがて養父・稗貫稙重の跡を継いで稗貫家当主となった。宗清の次男であると言われるが、兄については全く資料がない。
 子がなく、晴家の死後、稗貫家は斯波氏から養子に入った稗貫輝時が当主となった。稙重以降、養子が相次いだ稗貫家は衰退の一途を辿った。

稗貫広忠 伊達景宗

 稗貫氏は鎌倉時代からの名族で、広忠は和賀氏から出て稗貫輝時の養子となり、稗貫氏を継いだ。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、所領を没収された。その後、広忠は弟の和賀義忠とともに和賀・稗貫一揆を起こし、花巻城を奪回したが、翌年の天正19年(1591年)、奥州仕置軍の攻撃を受けて大崎氏を頼って敗走、後に剃髪したという。

 駿河伊達氏は、為家6世の孫・左近将監資宗の女婿となった右近将監景宗が祖とされる。
 南北朝時代の始め、足利尊氏は入江氏ら駿河の南朝方に対し今川範国を守護職に任じてあたり、尊氏の御家人・伊達蔵人五郎は、範国に従って奉行人とともに在地武士の知行をめぐる訴訟の扱いに活躍している。
 その後、尊氏と直義兄弟の対立から観応の擾乱が起こると、伊達藤三景宗は駿河守護・今川範国に属して直義軍と戦った。観応2年(1351年)9月、景宗は伊豆境の合戦で範氏に従って奮戦したが、今川軍は手越河原に敗れて駿河国府を失った。巻き返しを図る尊氏の下向を前に、景宗らは直義方と合戦、駿河国府に侵攻、大激戦を展開した。やがて駿河に下ってきた尊氏は、景宗の一連の戦功を賞して、駿河国有度郡入江庄内の三沢小次郎の跡を与えて報いた。尊氏は景宗ら御家人を守護に配置して軍事力を増強するとともに、守護の僭越を監視、行動を規制させる任をも担わせた。
 駿河に所領を得た景宗は、その後も守護・今川範氏にしたがって薩垂山の戦、大津城の攻撃などに奮戦、直義に加担した入江一族の没落に代わって伊達氏が入江庄一帯の支配者となった。また、範氏と行動をともにしたことでその信頼を得て、ついには駿河に定着することになった。景宗が駿河伊達氏の初代に数えられる所以である。以後、景宗の子・範宗は今川泰範に、その子・政宗は今川範政に仕え、それぞれ一字を賜っており伊達氏と今川氏との主従関係を強めていったことが知られる。
 こうして伊達氏は駿河に定着、のちに子孫は山名庄諸井郷を本領とした。そして、戦国時代になると今川氏の被官と して、天文14年(1545年)に伊達藤三郎(吉宗?)が今川義元から、永禄5年(1562年)には伊達与右衛門尉(宗綱?)が今川氏真から同郷を安堵されている。

伊達宗綱

 伊達氏は今川氏に仕えていたが、義元死後、多くの武将が今川氏を見限っていった。高天神城城主・小笠原長忠もその一人で徳川家康に属して本領を保持していた。伊達与兵衛宗綱は、長忠とともに家康に属したが、天正2年(1574年)、武田勝頼の攻撃で高天神城が武田氏の手に落ちると、城主・長忠とともに武田氏に従った。その後、武田氏が滅亡すると、宗綱は北条氏規に仕え、さらに結城秀康に仕え、子孫は津山藩士になったという。
 一方、徳川旗本として生き残った駿河伊達氏の一族があり、『寛政重修諸家譜』には與兵衛房實,山城守景忠の系が記されている。與兵衛に関しては「與兵衛はじめ八郎宗春東照宮につかへたてまつり、小笠原與八郎長忠に属す、督姫君(家康女)北條氏直が許に入輿のときしたがひたてまつる、與兵衛房實寛永系圖の房成に當るはその男なりといふ。」とあり、景忠は「世々遠江國山名郡諸井村に住し、かの地にをいて百五十貫文を領し、今川家に仕ふ。そのゝち東照宮に拝謁し、仰によりて小笠原與八郎長忠に属し、髙天神の城を守りてしばしば軍功あり。天正二年三月二十二日討死す。」とあり、子の與大夫景長の子孫が徳川旗本として続いている。また、紀伊徳川家に仕えた系からは、明治の外相で伯爵となった陸奥宗光が出ている。