<藤原氏>北家 魚名流

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伊達宗広 陸奥宗光

 幕末の紀州藩士で国学者。陸奥宗光の実父であり、史論書『大勢三転考』の著者でもある。
 享和2年(1802年)、紀州藩士・宇佐美祐長の息子として生まれ、後に叔父の伊達盛明の養子となる。本居大平の許で国学を学ぶ。12歳で家督を相続し、15歳で藩主・徳川治宝の小姓となる。治宝に才能を愛されて18歳で監察に任じられ、以後、勘定吟味役から同奉行,寺社奉行兼務へと昇進して500石取りとなる。家老・山中筑後守を補佐し、「和歌山派」の中心人物として藩政改革を推進する一方、藩内の尊王論を主導した。
 嘉永5年(1852年)に治宝と山中が相次いで病死すると、幼少の徳川慶福(徳川家茂)を補佐する形で改革反対の「江戸派」の御附家老・水野忠央が藩の実権を握った。専横を振って危険思想を広めたとの容疑で水野によって捕られ、家老・安藤直裕に預けられて、以後10年近くにわたって紀伊田辺にて幽閉された。
 文久元年(1861年)、前土佐藩主・山内容堂の口利きによって釈放される。養子・宗興に家督を譲って隠居するが、翌年には宗興とともに脱藩して尊皇攘夷運動に参加する。元治2年(1865年)、激怒した藩によって和歌山に連れ戻され、再び幽閉の身となった。
 明治2年(1869年)に幽閉が解かれ、宗興も執政に抜擢された。千広は大阪に移り住み、敬愛していた藤原家隆ゆかりの地に「自在庵」という庵を建て、その地を「夕日岡」(夕陽丘)と命名している。明治5年(1872年)に体調を崩し、陸奥の勧めにより東京・深川の陸奥邸にて悠々自適な晩年をすごした。

 

 江戸時代までの通称は陽之助。大臣就任後は「カミソリ大臣」とも呼ばれた。版籍奉還,廃藩置県,徴兵令,地租改正に多大な影響を与え、第2次伊藤内閣の外務大臣として領事裁判権の撤廃に成功した。
 天保15年(1844年)8月20日、紀州藩士・伊達宗広と政子(徳川治宝の側用人渥美勝都の長女)の6男として生まれる。幼名は牛麿。生家は伊達騒動で知られる伊達兵部宗勝(伊達政宗の末子)の後裔と伝えられるが、実際は12世紀に陸奥伊達氏から分岐して駿河国に土着した駿河伊達氏の子孫である。幼少・青年期は伊達小次郎,中村小次郎,陸奥小次郎,陸奥陽之助,伊達陽之助などと称した。父・宗広の影響で尊王攘夷思想を持つようになる。父が藩主・治宝の死により失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活が訪れ何度か居所を変えたのち、伊都郡入郷村に落ち着き、高野山の荘官である岡左仲の世話になる。
 安政5年(1858年)、高野山江戸在番所の寺男として江戸に出る。困窮し筆耕等により口を糊すること3年、安井息軒に師事し、又水本成美の塾に入る。後長州藩の桂小五郎(木戸孝允),板垣退助,伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。 文久3年(1863年)に勝海舟の神戸海軍操練所(海軍塾)に入り、塾頭の坂本龍馬に私淑、また、広瀬元恭の時習堂にも出入りする。勝と坂本の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめたという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」と絶賛している。龍馬暗殺後、紀州藩士・三浦休太郎を暗殺の黒幕と主張し、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件を起こしている(天満屋事件)。
 その後も新政府の設立、戊辰戦争でのアメリカとの甲鉄艦(ストーンウォール号)の引き渡し交渉など、様々な面のその手腕を発揮した。この間、明治元年にかつて難波新地の芸妓であった蓮子夫人と結婚、長男・広吉,次男・潤吉を儲けるが、明治5年(1872年)には蓮子夫人が亡くなり、翌明治6年(1873年)に亮子と再婚した。
 明治10年(1877年)の西南戦争の際には、陸奥は土佐立志社の大江,岩神昂と共に政府転覆の即時挙兵と暗殺計画を画策した廉で投獄されたが、明治16年(1883年)1月、特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学。明治17年(1884年)にロンドンに到着した陸奥は、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。内閣制度の仕組みや議会の運営方法等について、民主政治の先進国イギリスが長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々を盛んに吸収し、ウィーンではローレンツ・フォン・シュタインの国家学を学んだ。
 明治19年(1886年)2月に帰国し、10月には外務省に出仕。明治21年(1888年)駐米公使となり、同年駐米公使兼駐メキシコ合衆国公使として、メキシコとの間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。帰国後、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任する。明治23年(1890年)、大臣在任中に第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第1区から出馬し、初当選を果たす。閣僚中唯一の衆議院議員であり、かつ日本の議会史上初めての衆議院議員の閣僚となった。陸奥の入閣には農商務大臣としてより、むしろ第1回帝国議会の国会対策が期待された。このとき農商務大臣秘書であったのが腹心の原敬である。陸奥の死後、同志であった西園寺公望,星亨,原が伊藤を擁して立憲政友会を旗揚げすることになる。
 第2次伊藤内閣では外務大臣に就任し、明治27年(1894年)、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結。幕末以来の不平等条約である領事裁判権の撤廃に成功する。以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ帝国,イタリア王国,フランスなどとも同様に条約を改正した。陸奥が外務大臣時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(領事裁判権の撤廃)を成し遂げた(関税自主権は戻らない)。同年8月、子爵を叙爵する。
 一方、同年5月に朝鮮半島で甲午農民戦争が始まると清の出兵に対抗して派兵。7月23日に朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、25日には豊島沖海戦により日清戦争を開始。イギリス,ロシアの中立化にも成功した。この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる参謀次長・川上操六中将の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。戦勝後は伊藤博文とともに全権として明治28年(1895年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、ロシア,ドイツ,フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。
 日清戦争の功により、伯爵に陞爵する。これ以前より陸奥は肺結核を患っており、三国干渉が到来したとき、この難題をめぐって閣議が行われたのは、既に兵庫県舞子で療養生活に入っていた陸奥の病床においてであった。明治29年(1896年)、外務大臣を辞し、大磯別邸(聴漁荘)やハワイにて療養生活を送る。明治30年(1897年)8月24日、肺結核のため西ヶ原の陸奥邸で死去。享年54。墓所は大阪市天王寺区夕陽丘町にあったが、昭和28年(1953年)に鎌倉市扇ガ谷の寿福寺に改葬された。

伊達宗興 陸奥広吉

 陸奥宗光の義兄に当たる。紀州藩士・成田弥三右衛門の5男。同じ紀州藩士で国学者としても名高かった伊達千広の養嗣子となるが、藩政改革を唱える「和歌山派」の中心人物であった千広は、対立していた保守派の「江戸派」の水野忠央が藩の実権を握ると捕らえられ幽閉された。
 1861年(文久元年)、放免された千広より家督を譲られるが、1863年1月(文久2年12月)に千広とともに脱藩、上洛し、中川宮に仕えて尊王攘夷の志士となった。後に義弟の宗光(陸奥陽之助)も宗興を頼って中川宮に仕えることになる。1864年(元治元年)に帰藩し、翌年幽閉された。1867年(慶応3年)になって放免される。
 維新後、宗興は和歌山藩(紀州藩より改称)の執政、次いで藩権大参事となり、ついで1872年(明治4年)12月から広島県参事に転じて、1873年(明治5年)8月には同県権令に昇格、1875年1月までの2年半在任した。墓所は京都・鹿苑寺にある。

 大坂の紀州藩藩邸にて紀州藩士・陸奥宗光と元芸妓の蓮子の長男として生まれる。紀州藩士の子弟は胆力を養うために刑場に連れていかれ、幼いころから斬首や他の処刑の現場を見るなどの教育を受けた。
 中津藩の屋敷の中に塾舎があった慶應義塾に紀州藩がその費用を負担して、紀州藩出身者の寄宿のための「紀州塾」が設置されると、藩士の岡本柳之助や三宅米吉,鎌田栄吉らと上京して慶應義塾(現・慶應義塾大学)に入塾。明治38年(1905年)12月に慶應義塾特選塾員となる。明治20年(1887年)にイギリスに留学しケンブリッジ大学に入学したが、卒業はしていない。次いでロンドン法学院を卒業して法廷弁護士(バリスター)の称号を受けて、明治27年(1893年)に帰国。渡英中にイギリス人女性のガートルード・エセル・パッシングハム(日本名はイソ)と交際し明治38年(1905年)に結婚した。
 明治28年(1895年)に外務省に入省し通訳官となる。明治30年(1897年)に父・宗光が死去し、伯爵の爵位を襲爵。明治31年(1898年)サンフランシスコ領事として米国に赴任するが、病にかかる。駐英大使・小村寿太郎時代の在イギリス日本大使館一等書記官を経て、明治40年(1907年)駐英臨時代理大使となる。他、北京,ローマ,マルセイユなどに赴任している。明治43年(1910年)に開催された日英博覧会に事務官として開催に尽力した。
 日本に帰国後の大正3年(1914年)、特命全権公使に進み、ベルギー駐在となったが、病気のためまもなく退官。当時、陸奥家の邸宅は東京府高輪にあったが、療養の地として大正元年(1912年)に鎌倉に転居。以後は、祖父の伊達千広の教育などに関する社会普及や弟の関係する古河財閥や古河家、古河鉱業の支援、史跡保存、風景美化などに尽力した。また大きな援助のもと、鎌倉女学校(のちの鎌倉女学院)を設立した。

陸奥陽之助

 日本名の陽之助は祖父・宗光の通称でもあった。廣吉が外交官としてロンドンに赴任していた時のアパートで誕生した。3歳の時に初来日する。家のあった鎌倉の小学校や学習院初等科への入学を考えたが、「アイノコ」といじめられていたため断念、家庭教師に学んだ。
 1917年(大正6年)、日本での今後の教育を考え、校長がフランス人である暁星小学校に5年生で編入学する。旧制暁星中学校(現・暁星高等学校)卒業後は旧制早稲田高等学院(現・早稲田大学)に入学するが、1年次で英国に留学、バーミンガム市立大学英文科を卒業。母親の死去のため1930年(昭和5年)日本に帰国した。
 1931年(昭和6年)5月、ジャパン・アドバタイザーに入社、編集次長,経済部長を務める。
 1939年(昭和14年)5月、同盟通信社(現在の共同通信社)に入社。1941年(昭和16年)34歳の若さで海外部長となるが、奔放な生活や敗戦論者であったことなどから憲兵隊にスパイと疑われ、1943年(昭和18年)に2段階下の英文主任に降格。同年8月に同社を退社。終戦までは軽井沢の別荘に隠棲、隣近所の近衛文麿,来栖三郎,鳩山一郎らと親交があった。また、1942年(昭和17年)に父・廣吉の死去に伴い伯爵を襲爵するが、1947年(昭和22年)に華族制度廃止に先立ち爵位を返上した。
 戦後、UP通信記者を経て、劇場ニュース映画を配給する会社の東京支局長となる。また、朝鮮戦争時は従軍映画カメラマンとなった。
 1952年(昭和27年)にインタナシヨナル映画株式会社(IMPC)を創業、外務省の出資を受け、日本を海外に紹介する映像を制作した。それらの映像は後にデジタル化され、一部はインタナシヨナル映画社のサイトで観ることができる。
 1988年(昭和63年)、カナダ国立フィルム局が制作したドキュメンタリーの日本語版を100本以上制作した功績により、ビクトリア大学から名誉法学博士号を授与された。1987年(昭和62年)にも勲三等旭日中綬章を受章している。
 2002年(平成14年)10月30日、多臓器不全のため死去。
 生涯に4度婚姻している。1929年(昭和4年)にイギリス留学中に現地の女性と入籍したのが初婚。2度目は廣吉が亡くなる前に、当時の三井物産ロンドン支店長の娘だった混血の美人(原文ママ)との見合い結婚で、この女性との間に男児をもうけたが離婚している。結婚した混血の美人とは母方祖母がオーストラリア人の矢野美和子で、息子は宗広である。1962年(昭和37年)7月には、『第3回NHK紅白歌合戦』紅組司会を務めた元NHKアナウンサーの本田寿賀と3度目の結婚をし、さらに寿賀没後、自身の死没する前年に、萩原延壽を担当していた28歳年下の編集者の松田祥子と92歳で再々婚した。