豊浦寺跡(向原寺)
とゆらじあと(こうげんじ) (Toyura-ji Temple Ruins [Kogen-ji Temple])
【T-NR031】探訪日:2006/5/17・2017/8/27
奈良県高市郡明日香村大字豊浦647 <📲:0744-54-2001>
【MAP】
〔駐車場所〕
元々は蘇我稲目の向原の家とされるが、552年の崇仏廃仏論争の結果、欽明天皇から託された仏像を祀る寺(向原寺)とした。592年には崇峻天皇が暗殺され推古天皇が即位するが、新たに大規模な宮殿を築く時間がなく、蘇我氏の邸宅の一部を転用し豊浦宮とした。その後、豊浦宮から小墾田宮に遷都の際に、推古天皇は豊浦宮跡に寺院を建立することとして蘇我馬子に授け、馬子は本格寺院として日本最古の尼寺となる豊浦寺を建立する。さらに江戸時代に現在の向原寺が建立された。本尊は阿弥陀如来。
飛鳥時代の向原寺は、排仏派の物部尾輿に国内に流行している疫病は仏像を祀ったせいであると因縁をつけられ焼き払われた。仏像は難波の堀江(難波池)に捨てられた。その後、1772(明和9)年には難波池より百済仏とみられる金銅仏が発見され、一時盗難に遭ったが、オークションに出品されていたところを見つけ買い戻されて、現在は向原寺本堂に安置されている。
豊浦寺の建立には諸説あるが舒明天皇の時代とされ、686(朱鳥元)年12月の亡き天武天皇の法会が大官大寺,飛鳥寺,川原寺,坂田寺と並んで豊浦寺でも執り行われており、この頃には豊浦寺の寺観が整っていたとみられる。
1985(昭和60)年の発掘調査では、現向原寺境内から馬子の豊浦寺の講堂跡と推定される版築の基壇が検出され、さらにその下層には推古天皇豊浦宮遺構とされる石敷と掘立柱建物の跡が確認された。出土瓦の編年から豊浦寺講堂は7世紀第2四半期、その下層の掘立柱建物はそれ以前の建立と判明している。講堂の平面規模は30×15m以上とみられる。向原寺のすぐ南あたりにも建物跡があり、これが金堂跡と推定される。1993(平成5)年の調査では乱石積の基壇とこれに伴う石敷が検出され、堂の平面規模は17×14mである。また、金堂跡のさらに南には1957(昭和32)年の調査で塔跡とみられる14m四方の基壇と礎石が検出されている。ただし、塔跡の基壇は前述の講堂跡,金堂跡の基壇とは方位がずれており、伽藍全体がどのような様相であったかは未解明である。