新田友作墓所〔龍雲寺〕

にったゆうさく ぼしょ〔りゅううんじ〕(Grave of Yusaku Nitta [Ryuun-ji Temple])

【K-SZ034】探訪日:2023/2.12

【K-SZ034】新田友作墓所〔龍雲寺〕 静岡県浜松市北区細江町気賀2860ー1

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-SZ034】新田友作墓所〔龍雲寺〕

   1606(慶長11)年、呉石の塔ノ下(気賀)で処刑された堀川城主だった新田友作の墓所である。友作はもとは清水城主の子とされ、1555(弘治元)年に下条氏(武田氏の軍門)によって城が落とされると、気賀に逃れてきたという。
 友作は、刑部城と山を挟んで反対側に建てた自身の松崎居館を本城(松崎城)とし、詰城として堀川城(堀川古城)を築いた。1567(永禄10)年には、竹田高正,山村修理らと大規模な堀川城(堀川新城)を築き(斎藤為吉が築いた説もある)、新田友作が城主となった。
 1568(永禄11)年12月13日、徳川家康は遠江国へ侵攻し、明くる年の2月になって、日比沢城佐久城が落とされたことを知った城主・新田友作は、徳川方への寝返りを主張したところ、竹田高正らに殺されかかったため、金地院に逃げ込んで出家し、「喜斎」と名乗ったという(ただし、堀川城の戦い後に隠遁,出家し「法休」を名乗ったとも)。このため、竹田高正が城代となり、土豪の山村修理,尾藤主膳らは地元農民など雑兵約1,700人を集めて堀川城に立て籠もったが、本坂峠を越えてきた徳川勢によって、堀川城は一方的に殺戮された。
 友作は金地院にて戦死者の菩提を弔っていたが、江戸時代に入り徳川方に身分が発覚し処刑された。享年82であったという。
 墓塔には「新田四郎義一 剃髪して喜斎」と記されている。なお、新田友作=瀬戸方久という見方もされている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代 江戸時代:前期
関連年号 1569年 1606年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
新田友作 G***

 

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