板垣退助生誕の地
いたがきたいすけ せいたんのち(Birthplace of Taisuke Itagaki)
【Z-KC004】 探訪日:2019/7/21
高知県高知市本町2丁目3−18
【MAP】
〔駐車場所〕
1837(天保8)年5月21日、土佐藩上士(馬廻格・300石)の乾正成と林幸子の間の嫡男として高知城下中島町に生まれた。諱は初め正躬、のちに正形という。乾家の本姓は板垣氏で、武田信玄重臣の板垣信方を祖とする家柄である。坂本龍馬や武市瑞山とは親戚にあたり、後藤象二郎とも遠縁であり竹馬の友であったといわれる。後藤象二郎生誕地が南150mほどのところに、また、坂本龍馬生誕地が西1Kmほどのところにある。
1861(文久元)年には江戸留守居役兼軍備御用を仰付けられ、江戸へ向かう。その後、中岡慎太郎らと共に倒幕に力を注ぐ。
明治政府では参議となるが、征韓論に敗れて下野し国会開設と自由民権運動へ奔る。1882(明治15)年4月6日、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際の「板垣死すとも自由は死せず」という表現が広く伝わることになった。なお、事件後、退助自身は相原の助命嘆願書を提出、恩赦歎願書を明治天皇へ奉呈し、これらが認められて相原は釈放されている。
1896(明治29)年、第2次伊藤博文内閣で内務大臣として入閣。続く第2次松方内閣においても留任したがすぐに辞任した。1898(明治31)年には大隈重信の進歩党と合同で憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣する。しかし、内閣は内紛が激しく、4ヶ月で総辞職せざるを得なくなる。1900(明治33)年、立憲政友会の創立とともに政界を引退した。
また、板垣は、土佐藩政時代に罪人として処罰された武市瑞山の名誉回復と顕彰に尽力し、さらに同郷の坂本龍馬を顕彰する石碑が存在しないのを憂い、坂本龍馬生誕地近くに『阪本龍馬君顕彰碑』を建立している(のちに桂浜に移された)。
1919(大正8)年7月16日、肺炎のため享年83(満82歳)で薨去。高知市内に板垣一族の墓所がある。
板垣の生家は1877(明治10)年に転居後、空き家となったが、一時、立志学舎の教場に用いられ、1881(明治14)年には買収されて高野寺となった。高野寺門前にある記念碑は、1924(大正13)年5月に建てられたものである。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 江戸時代:中期 |
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関連年号 | 1837年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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板垣退助(正形) | G426 |
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▲【転載】