<崇神朝>

K004:孝元天皇  崇神天皇 ―(垂仁天皇)―(景行天皇) K101:崇神天皇

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崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖尊) 垂仁天皇(活目入彦五十狭茅尊)

 記紀に伝えられる事績の史実性、先帝達と繋がる系譜記事等には疑問もあるものの、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。初代神武天皇とそれに次ぐ欠史八代の天皇達の実在性が希薄であることから、この崇神天皇をヤマト王権の初の天皇と考える説が存在し、また記紀に記された事績の類似と諡号の共通性から、崇神を神武天皇と同一人物とする説もある。
  一方で神武と欠史八代の実在を支持する立場からは、『日本書紀』の記述では神武の即位後しばらくは畿内周辺の狭い領域の記述しか出てこず崇神の代になって初めて他地方にまで渡る記述が出てくること(四道将軍の派遣など)から、神武から9代開化天皇までは畿内にしか力の及ばなかったヤマト王権が、崇神の代になって初めて全国規模の政権になったと考える説もある。
  『古事記』は崇神の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も見られる。258年没説を採った場合、崇神の治世は中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なることになる。崇神をヤマト王権の礎を築いた存在とした場合、邪馬台国と崇神のかかわりをどう考えるかが問題となってくる。邪馬台国畿内説からは、邪馬台国とヤマト王権は同一であるという認識の下、水野正好は崇神を「卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」とする説、西川寿勝は「『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の男弟だった」という説などを提唱している。邪馬台国九州説からは、「北九州にあった邪馬台国はヤマト王権とは別個の国であって、この邪馬台国を滅ぼしたのが大和地方を統一した崇神天皇である」とする田中卓や武光誠などの説や「崇神天皇の同時代に大和に卑弥呼のような女王はいないことからも邪馬台国畿内説は誤りである」とする古田武彦などの説も存在する。

 記紀に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説もあったが、近年においてはその実在を認めることが多い。
  崇神天皇29年1月1日に誕生。同48年4月、崇神天皇の夢の前兆により皇太子に立てられる。垂仁天皇元年1月即位。翌2年2月に狭穂姫を立后、10月、纒向に遷都した。
 同3年3月、新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝している。同5年10月、皇后の兄・狭穂彦が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。同7年7月、野見宿禰が当麻蹴速と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。同15年8月には日葉酢媛を皇后とした。同25年3月、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す。同28年、殉死の禁令。同32年7月、日葉酢媛が薨去し野見宿禰の進言に従い、殉死の風に替えて埴輪を埋納する(埴輪の起源説話)。同35年、河内国の高石池や茅渟池を始め、諸国に多くの池溝を開いて農業を盛んにしたと伝える。
 同90年2月、田道間守に命じて、常世国の非時香菓を求めさせるが、同99年7月、崩御。12月、菅原伏見陵に葬られた。年齢は140歳(「日本書紀』)、153歳(『古事記』)、139歳(『大日本史』)。『住吉大社神代記』には、在位53年で辛未年に崩御したとあり、これは『書紀』の編年と相違する。
 宮の名称は、『日本書紀』では纒向珠城宮、『古事記』では師木玉垣宮。伝承地は奈良県桜井市穴師周辺となる。

誉津別命 倭姫命

 名の由来を記では稲城の焼かれる火中で生まれたので、母により本牟智和気御子と名づけられたとする。母の狭穂姫命はその兄狭穂彦の興した叛乱(狭穂毘古の反乱)の際に自殺。紀では反乱の前に生まれていたとするが、火中から救い出されたのは記に同じ。火中出産は木花咲耶姫の誓約につながるとの指摘がある。
  誉津別皇子は父天皇に大変寵愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『日本書紀』では赤子のように泣いてばかりであったという。
  『日本書紀』では、皇子はある日、鵠(今の白鳥)が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発したので、天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じる。鵠を遊び相手にすると誉津別命は言葉を発するようになった、とする。
  一方『古事記』では、誉津別は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。ある晩、天皇の夢に何者かが現れて、物言わぬは出雲大神の祟りとわかった。天皇は皇子を曙立王,菟上王とともに出雲に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。
  さらに、『尾張国風土記』逸文では阿麻乃彌加都比女の祟りとしている。

 天照大神を磯城の厳橿之本(笠縫神社,檜原神社比定)に神籬を立てて、(垂仁天皇25年3月丙申)伊勢の地に祀った(現伊勢神宮)皇女とされ、これが斎宮の直接の起源であるとも伝えられている。
  第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の跡を継ぎ、天照大神の御杖代として大和国から伊賀,近江,美濃,尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる(御杖代は依代として神に仕える者の意味であるが、ここでは文字通り「杖の代わり」として遷幸を助ける意味も含まれる。ちなみに、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれる)。後に、東夷の討伐に向かう日本武尊に草薙剣を与えている。伊勢では、伊勢の地に薨じ、尾上御陵に埋葬されたと伝える。伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女で、これが制度化されて後の斎宮となった。

倭彦命 豊鍬入姫命

 『日本書紀』によれば、垂仁天皇28年10月5日に倭彦命は薨去し、11月2日に「身狭桃花鳥坂」に葬られた(考古学名は桝山古墳、5世紀前半の築造と推定)。その際、近習は墓の周辺に生き埋めにされたが、数日間も死なずに昼夜呻き続けたうえ、その死後には犬や鳥が腐肉を漁った。これを哀れんだ天皇は殉死の禁令を出したという。
  また同書垂仁天皇32年7月6日条では、皇后の日葉酢媛命が薨去した際、天皇は野見宿禰の進言に従って人,馬などの土物を墓に立てて代替とすることを命じ、以後これが慣例になったとする(人物埴輪,形象埴輪の起源譚)。この起源譚は、垂仁28年条の記事が前提になる。『古事記』では、倭彦命の分注として、倭日子命の時に初めて陵に人垣を立てたとしている。また、同様の伝承は『続日本紀』天応元年(781年)条にも記されている。

 『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭の笠縫邑に祀らせ、よって磯堅城の神籬を立てたという。一方、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせたが失敗している。
  同書垂仁天皇25年3月10日条によると、天照大神は豊鍬入姫命から離され、倭姫命(垂仁天皇皇女)に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着くこととなる(伊勢神宮起源譚)。『古事記』では、豊鉏比売命(豊鍬入姫命)は伊勢の大神の宮を祀ったと簡潔に記されている。

渟名城入姫命 八坂入姫命

 『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、崇神天皇はその原因が天照大神,倭大国魂神の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭笠縫邑に祀らせ、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせた。しかし、渟名城入姫命の髪は抜け落ちて体も痩せてしまったため、倭大国魂神を祀ることが出来なかったという。
  また同書垂仁天皇25年3月条では、「一云」として、大倭大神が自分を祀るよう神託したので、中臣探湯主の卜によって「渟名城稚姫命」に祀らせたという。天皇は渟名城稚姫命に命じ、神地を穴磯邑として大市の長岡岬で祀らせたが、姫の体は痩せ細り祀ることが出来なかった。そこで大倭直祖の長尾市宿禰に祀らせることとしたという。この「渟名城稚姫命」は渟名城入姫命と同一人物とされる。

 景行天皇4年2月21日(74年4月5日)、景行天皇の妃となった。元々天皇に見初められたのは同母妹の弟媛であったが、固辞した彼女に推薦されて入内に至ったと伝えられる。同52年5月4日(122年6月25日)に当初皇后だった播磨稲日大郎姫が崩御したことを受け、同年7月7日(8月26日)に新たな皇后に立てられた。成務天皇2年11月10日(132年12月5日)、皇太后となった。