K004:孝元天皇 | 崇神天皇 ―(垂仁天皇)―(景行天皇) | K101:崇神天皇 |
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崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖尊) | 垂仁天皇(活目入彦五十狭茅尊) |
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記紀に伝えられる事績の史実性、先帝達と繋がる系譜記事等には疑問もあるものの、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。初代神武天皇とそれに次ぐ欠史八代の天皇達の実在性が希薄であることから、この崇神天皇をヤマト王権の初の天皇と考える説が存在し、また記紀に記された事績の類似と諡号の共通性から、崇神を神武天皇と同一人物とする説もある。 |
記紀に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説もあったが、近年においてはその実在を認めることが多い。 |
誉津別命 |
倭姫命 |
名の由来を記では稲城の焼かれる火中で生まれたので、母により本牟智和気御子と名づけられたとする。母の狭穂姫命はその兄狭穂彦の興した叛乱(狭穂毘古の反乱)の際に自殺。紀では反乱の前に生まれていたとするが、火中から救い出されたのは記に同じ。火中出産は木花咲耶姫の誓約につながるとの指摘がある。 |
天照大神を磯城の厳橿之本(笠縫神社,檜原神社比定)に神籬を立てて、(垂仁天皇25年3月丙申)伊勢の地に祀った(現伊勢神宮)皇女とされ、これが斎宮の直接の起源であるとも伝えられている。 |
倭彦命 |
豊鍬入姫命 |
『日本書紀』によれば、垂仁天皇28年10月5日に倭彦命は薨去し、11月2日に「身狭桃花鳥坂」に葬られた(考古学名は桝山古墳、5世紀前半の築造と推定)。その際、近習は墓の周辺に生き埋めにされたが、数日間も死なずに昼夜呻き続けたうえ、その死後には犬や鳥が腐肉を漁った。これを哀れんだ天皇は殉死の禁令を出したという。 |
『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭の笠縫邑に祀らせ、よって磯堅城の神籬を立てたという。一方、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせたが失敗している。 |
渟名城入姫命 |
八坂入姫命 |
『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、崇神天皇はその原因が天照大神,倭大国魂神の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭笠縫邑に祀らせ、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせた。しかし、渟名城入姫命の髪は抜け落ちて体も痩せてしまったため、倭大国魂神を祀ることが出来なかったという。 |
景行天皇4年2月21日(74年4月5日)、景行天皇の妃となった。元々天皇に見初められたのは同母妹の弟媛であったが、固辞した彼女に推薦されて入内に至ったと伝えられる。同52年5月4日(122年6月25日)に当初皇后だった播磨稲日大郎姫が崩御したことを受け、同年7月7日(8月26日)に新たな皇后に立てられた。成務天皇2年11月10日(132年12月5日)、皇太后となった。 |