<崇神朝>

K101:崇神天皇  崇神天皇 ― 景行天皇 K103:景行天皇


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景行天皇 成務天皇

 「タラシヒコ」という称号は12代景行,13代成務,14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明,35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が出されている。『記・紀』の記事は多くが日本武尊の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在を仮定すれば、その年代は4世紀前期から中期の大王と考えられている。纒向遺跡付近に都したと伝えられる最後の天皇である。
 垂仁天皇の第三皇子、母は日葉酢媛命。垂仁天皇37年1月1日に21歳で立太子。父皇が崩御した翌年に即位。即位2年、3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后とした。皇后との間には大碓皇子,小碓尊らを得ている。即位4年、美濃国に行幸。八坂入媛命を妃として稚足彦尊(成務天皇)、五百城入彦皇子らを得た。即位12年、九州に親征して熊襲・土蜘蛛を征伐。
 即位27年、熊襲が再叛すると小碓尊(16歳)を遣わして川上梟帥を討たせた。即位40年、前もって武内宿禰に視察させた東国の蝦夷平定を小碓尊改め日本武尊に命じた。3年後、帰途に伊勢国能褒野で30歳で逝去した日本武尊を埋葬し、大和国と河内国にも白鳥陵を造る。即位51年、8月4日に稚足彦尊を立太子し、武内宿禰を棟梁の臣とした。即位52年、5月4日の播磨稲日大郎姫の崩御に伴い7月7日に八坂入媛命を立后。即位53年から54年にかけて日本武尊の事績を確認するため東国巡幸。即位58年、近江国に行幸し高穴穂宮に滞在すること3年。即位60年、同地で崩御。

 景行天皇同様、成務天皇の実在性には疑問が出されている。
『記・紀』に載せる成務天皇の旧辞部分の記事は、他の天皇のそれに比して極端に文量が少なく、史実性には疑いが持たれているものの、実在を仮定すればその年代は4世紀半ばと考えられている。
 景行天皇の第四皇子、母は美濃出身の八坂入媛命。景行天皇46年に24歳で立太子。父帝が崩御した翌年に即位。即位5年、諸国に国造と稲城を置き山河で国境を定めた。即位60年、崩御。 

五百城入彦命
 父・景行天皇は、それらの皇子たちをそれぞれの国や郡に封じたが、彼と成務,日本武尊の3人だけは封じなかったと、『日本書紀』に書かれている。そのうち日本武尊は熊襲征討に行かせたことから、彼は万一成務天皇に何かあった場合の予備だったと考えられる。