<崇神朝>

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日本武尊(倭建命) 仲哀天皇

 第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討,東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。


詳しくは、Wikipedia(ヤマトタケル)及び崇神王朝時代サイトを参照

 『日本書紀』によれば、叔父の成務天皇に嗣子が無く、成務天皇48年3月1日に31歳で立太子。13年の皇太子期間を経て、仲哀天皇元年1月即位。白鳥となって天に昇った父・日本武尊(景行天皇43年死去)をしのんで、諸国に白鳥を献じることを命じたが、異母弟の蘆髪蒲見別王が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺したとある。仲哀天皇2年1月11日、仲哀天皇は氣長足姫尊(成務天皇40年誕生)を皇后(神功皇后)とする。
 8年、熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。それは西海の宝の国(新羅)を授けるという神託であった。しかし、仲哀天皇は、これを信じず神を非難した。そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌年2月、急に崩じてしまった。遺体は武内宿禰により海路穴門(穴戸海峡、現在の下関海峡)を通って穴戸豊浦宮で殯された。(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。『日本書紀』にも52歳とするが、これから逆算すると、天皇は父・日本武尊の薨後36年目に生まれたこととなり矛盾する。
 仲哀天皇は実在性の低い天皇の一人に挙げられている。その最大の根拠は、彼が実在性の低い父(日本武尊)と妻(神功皇后)を持っている人物とされているためである。日本武尊の話は複数の大和地方の英雄の事跡を小碓命一人にあてがって、一大英雄伝説に仕立て上げたものであり、神功皇后の話は白村江の戦いから、持統天皇による文武天皇擁立までの経緯をもとに神話として『記・紀』に挿入されたものである、との見方がある。そして、この二人の存在および彼らにまつわる物語を史実として語るために創造され、『記・紀』に挿入されたのが仲哀天皇であるというのが、仲哀天皇架空説である。
 また、仲哀天皇の「タラシナカツヒコ(足仲彦・帯中日子)」という和風諡号から尊称の「タラシ」「ヒコ」を除くと、ナカツという名が残るが、これは抽象名詞であって固有名詞とは考えづらい(中大兄皇子のように、通常は普通名詞的な別名に使われる)。つまり、仲哀天皇の和風諡号は実名を元にしたものではなく、抽象的な普通名詞ということになる。さらに『日本書紀』では父の日本武尊の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然さもあり、仲哀天皇架空説を支持する意見は少なくない。
 陵は、大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある惠我長野西陵(恵我長野西陵)に治定されている。考古学名は岡ミサンザイ古墳(前方後円墳、全長242m)。

麛坂皇子 忍熊皇子

 『日本書紀』『古事記』によれば、新羅征討中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后は誉田別尊(後の応神天皇)を産んだ。それを聞いた麛坂皇子と忍熊皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、共謀して筑紫から凱旋する皇后軍を迎撃しようとした。
 皇子らは仲哀天皇の御陵造営のためと偽って播磨赤石(現在の兵庫県明石市)に陣地を構築し、倉見別(犬上君の祖)と五十狭茅宿禰(伊佐比宿禰とも)を将軍として東国兵を起こさせた。ところが、菟餓野(比定地未詳)で反乱の成否を占う祈狩を行った際、皇子は猪に襲われて食い殺されたという。
 『日本書紀』『古事記』に記される麛坂皇子の反乱説話は、神功皇后の非実在性と同様に史実ではないと考えられている。王朝交替説では、神功・応神説話は古王朝(崇神天皇朝)と中王朝(仁徳天皇朝)をつなぐもので、麛坂皇子の説話もその挿話の1つとする説があるが、王朝交替説自体明らかでなく定かとはされていない。

 『日本書紀』によれば、新羅征討(三韓征伐)中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后は筑紫で誉田別尊を出産する。それを聞いた麛坂皇子と忍熊皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、共謀して筑紫から凱旋する皇后軍を迎撃しようとした。
 皇子らは仲哀天皇の御陵造営のためと偽って、播磨赤石に陣地を構築し、倉見別と五十狭茅宿禰(伊佐比宿禰とも)を将軍として東国兵を起こさせた。ところが、菟餓野(比定地未詳)で反乱の成否を占う狩を行った際に、麛坂皇子が猪に襲われて薨去したため、不吉な前兆に恐れをなした忍熊王は住吉に後退した。
 一方、神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、紀伊に上陸した。皇子軍は更に退いて菟道(宇治)に陣立てし、武内宿禰と武振熊(和珥臣の祖)を将軍とする皇后軍に挑んだが、武内宿禰の策略によって弓・刀を失い、逃走した果てに逢坂(滋賀県大津市の逢坂)にて敗れた(『古事記』では戦闘場面で武内宿禰は登場せず、全て武振熊の功績とする)。逃げ場を失った皇子は、五十狭茅宿禰とともに瀬田川に投身した。その遺体は数日後に菟道河から発見されたという。