<皇孫系氏族>垂仁天皇後裔

K101:崇神天皇  崇神天皇 ― 和気清麻呂 WK01:和気清麻呂

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和気清麻呂 和気広世 和気真綱

 備前国藤野郡出身。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側に参加したらしく、天平神護元年(765年)正月に乱での功労により勲六等の叙勲を受け、3月には藤野別真人から吉備藤野和気真人に改姓している。右兵衛少尉を経て、天平神護2年(766年)従五位下に叙爵し、近衛将監に任ぜられるとともに特別に封戸50戸を与えられた。
 神護景雲3年(769年)7月頃に宇佐八幡宮の神官を兼ねていた大宰府の主神・中臣習宜阿曾麻呂が宇佐八幡神の神託として、称徳天皇が寵愛していた道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる、と奏上する。道鏡はこれを聞いて喜ぶとともに自信を持ち(あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂を唆して託宣させたともされる)、自らが皇位に就くことを望む。
 称徳天皇は神託を確認するため側近の尼僧・和気広虫(法均尼)を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は堪えられないため、代わりに弟の清麻呂を召して宇佐八幡宮へ赴き神託を確認するように勅した。清麻呂は出発にあたって、道鏡から吉報をもたらせば官位を上げる旨をもちかけられたという。一方で、道鏡の師である路豊永からは、道鏡が皇位に就くようなことがあれば、面目なくて臣下として天皇に仕えることなど到底できない、自分は殷の伯夷に倣って身を隠そうと思う旨を伝えられる。清麻呂はこの言葉を当然と思い、主君のために命令を果たす気持ちを固めて八幡宮に参宮する。
 清麻呂が宝物を奉り宣命を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女に託宣、宣命を聞くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を聞くように願い出て、与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈3丈(約9m)の満月のような形をした大神が出現する。大神は再度宣命を聞くことを拒むが、清麻呂は与曽女とともに大神の神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告した。清麻呂の報告を聞いた称徳天皇は怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷するが、さらに別部穢麻呂と改名させて大隅国への流罪とした(宇佐八幡宮神託事件)。道鏡は配流途中の清麻呂を追って暗殺を試みたが、急に雷雨が発生して辺りが暗くなり、殺害実行の前に急に勅使が派遣されて企みは失敗したともいう。
 神護景雲4年(770年)8月に称徳天皇が崩御して後ろ楯を無くした道鏡が失脚すると、9月に清麻呂は大隅国から呼び戻されて入京を許され、翌宝亀2年(771年)3月に従五位下に復位し、9月には播磨員外介に次いで豊前守に任ぜられて官界に復帰した。
 天応元年(781年)桓武天皇が即位すると、一挙に四階昇進して従四位下に叙せられる。清麻呂は庶務に熟達して過去事例に通暁していたことから、桓武朝において実務官僚として重用されて高官に昇る。
 清麻呂は摂津大夫を務める傍ら、民部大輔次いで民部卿を務め、民部大輔・菅野真道とともに民政の刷新を行うとともに、『民部省例』20巻を編纂した。延暦7年(788年)には中宮大夫に任ぜられて皇太夫人・高野新笠にも仕え、その命令を受けて新笠の出身氏族和氏の系譜を編纂し『和氏譜』として撰上し、桓武天皇に賞賛されている。さらには、延暦3年(784年)の遷都後10年経過しても未だ完成を見なかった長岡京に見切りを付けて、山背国葛野郡宇太村を選んで平安京への遷都を進言するとともに、延暦12年(793年)には造宮大夫に任ぜられ、自身も建都事業に尽力した。公卿の地位に昇っている。
 延暦18年(799年)2月21日薨去。享年67。最終官位は従三位行民部卿兼造宮大夫美作備前国造。即日正三位の位階を贈られた。皇統の断絶という日本最大の危機を救った人物と評される。

 備前国出身。当初文章生として朝廷に仕える。延暦4年(785年)に藤原種継暗殺事件に連座して禁錮に処せられるが、特別の恩赦により少判事に任ぜられる。その後従五位下・式部少輔に任ぜられ、大学別当を兼ねた。
 大学別当在任時に、墾田20町を大学寮に寄付して勧学料とし、これまで明経道試の結果が上位二階級のみ叙位の対象としていたものを、上位四階級まで叙位する案を提出した。また、大学寮の学者らを呼び、陰陽書や『新撰薬経』『大素』を講論させた。さらに、大学寮の南にあった和気氏の私邸に内外の経書数千巻を収めて、父・清麻呂の遺志を継いで、和気氏出身の子弟のための学館である『弘文院』として創建した。また、墾田40町を学問料として充当したという。
 桓武朝後半は式部少輔と大学頭を務める一方で、延暦18年(796年)阿波守、延暦24年(805年)美作守と地方官を兼ねる。また、延暦18年(796年)には私墾田100町を美作,備前両国の8郡30余郷の困窮者に対する財源とするために賑給田として寄進することを上奏し、許されている。桓武朝末の延暦25年(806年)式部大輔に昇格する。
 大同元年(806年)平城天皇の即位後まもなく、正五位下・左中弁に叙任された。

 若くして大学寮で学び、史伝を読み漁った。延暦21年(802年)20歳で文章生に補せられ、延暦23年(804年)に初めて官吏に登用されて内舎人に任ぜられる。平城朝では治部少丞,中務少丞を歴任する。
 嵯峨朝に入り、播磨少/大掾,蔵人,春宮少進を経て、弘仁6年(815年)従五位下・春宮大進に叙任される。その後、左右少弁,左右少将を経て、弘仁13年(822年)従五位上に、天長元年(824年)までに正五位下に叙せられた。また同年には、かつて父・和気清麻呂が建立し桓武天皇により定額寺に列格されていた神願寺について、寺域が汚れているとして、高雄山寺の寺域と交換して、新たに神護国祚真言寺と称して改めて定額寺することを、弟・仲世と共に言上して許されている。
 その後、淳和朝から仁明朝にかけて、大/中弁を初めとして諸官を歴任し、重要な官職で就任しないものはなかったという。天長5年(828年)従四位下、承和4年(837年)従四位上・左近衛中将兼右大弁に叙任され、承和7年(840年)参議に任ぜられ公卿に列した。左近衛中将在任時には、俸禄と自らの私財により摂津国の良田を購入して、近衛府厨家に納め、その費用の足しにしたという(摂津国柏梨荘)。
 その後右大弁として、承和9年(842年)に発生した承和の変、承和12年(845年)に発生した善ト訴訟事件の審理にあたるが、後者を巡って下僚である右少弁・伴善男の告発を受けて、自宅の門を閉じ、直後に憤死した。「塵の立つ道は人の目を遮ってしまう。不正な裁判の場で、一人で直言しても何の益があるだろうか。官職を辞めるべきだ。早く冥土に向かおう。」と憤慨しながら官職を追われて、この世を去ったと伝えられている。承和13年(846年)9月27日、卒去。享年64。なお同年11月には、真綱と共に告発された同僚4名の弁官は位記を奪われて、贖銅を科されるが、真綱は既に死去していることを理由に処罰を免れた。

和気貞臣 和気仲世

 幼い頃に母を喪うが、定められた礼の基準を越えて悲しみ悼み、叔父・和気真綱はこれを深く哀れんだという。若くして、治部卿・安倍吉人に付いて老荘の教えを受ける。のちに、大学に入学して休まず研鑽し、承和8年(841年)文章得業生に補せられ、承和10年(843年)対策を受験するも不第となった。
承和14年(847年)大学大允、嘉祥元年(848年)大内記を経て、仁寿元年(851年)従五位下に叙爵する。のちに疱瘡を患ったために、仁寿3年(853年)4月14日卒去。享年37。

 延暦21年(802年)文章生に補せられ、大同元年(806年)大学大允、弘仁6年(815年)式部大丞を経て、弘仁10年(819年)従五位下に叙爵。
 天長元年(824年)かつて父・和気清麻呂が建立し桓武朝に定額寺に列格されていた神願寺について、寺域が汚れていることを理由に、高雄山寺の寺域に移して、新たに神護国祚真言寺と称することを、兄・真綱と共に言上して許されている。淳和朝では、北陸道巡察使・近江介と地方官を歴任するが、近江介在任中は俸禄を貧民に施し与えたという。
 仁明朝に入り、承和4年(837年)弾正大弼に任ぜられるが、初め弾正台に南門がなかったことから、申請して中院西門を移築して南門とした。また、個人的に位禄をもって近江国高島郡の田五町を購入して、太政官厨家の費用に充当したという。のち阿波守,刑部大輔,伊勢守,治部大輔,勘解由長官などを歴任し、承和8年(841年)従四位上に至る。承和11年(844年)播磨守として同国に赴任するが、国内は穏やかで落ち着き、民衆は敢えて騒ぎ立てるようなことはなかったという。
 病により仁寿2年(852年)2月19日に人々に惜しまれつつ卒去。享年69。非常に孝行な性格であった。忠実に朝廷のために一身を捧げて働き、毎晩就寝する際は首を大内裏に向けて寝たという。また、兄・真綱と共に空海を庇護した。

 

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