<崇神朝>

K101:崇神天皇  崇神天皇 ― 豊城入彦命 K102:豊城入彦命

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豊城入彦命 八綱田命
 『日本書紀』によると、崇神天皇48年に天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(後の垂仁天皇)に勅して、共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため、それぞれの見る夢で判断すると伝えた。豊城命は「御諸山(三輪山)に登り、東に向かって槍や刀を振り回す夢を見た」と答え、活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。その結果、弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとし、豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣されたという。  『日本書紀』垂仁天皇5年10月条によると、八綱田は狭穂彦王の反乱の際に将軍に任じられ、狭穂彦王の築いた稲城の攻撃を命じられた。八綱田は稲城に火をかけて焼き払い、狭穂彦王を自殺に追い込んだ。この功により「倭日向武日向彦八綱田」の号が授けられたという。
彦狭島王 御諸別王

 狭島王は東山道十五国都督に任じられたが、春日の穴咋邑に至り病死した。東国の百姓はこれを悲しみ、その遺骸を盗み上野国に葬ったという。同書景行天皇56年8月条には、子の御諸別王が彦狭島王に代わって東国を治め、その子孫が東国にいるとある。
『先代旧事本紀』「国造本紀」上毛野国造条では、崇神天皇年間に豊城入彦命孫の彦狭島命が初めて東方十二国を平定した時、国造に封ぜられたとしている。

 『日本書紀』景行天皇56年8月条によると、任地に赴く前に亡くなった父の彦狭島王に代わり、東国統治を命じられ善政をしいたという。蝦夷の騒動に対しても速やかに平定したことや、子孫は東国にある旨が記載されている。
  『日本書紀』崇神天皇段には上毛野君,下毛野君の祖として豊城入彦命の記載があるが、東国に赴いたのは御諸別王が最初であり、御諸別王が実質的な毛野氏族の祖といえる。また、御諸別命の活躍する世代は崇神天皇の次の世代にあたることから、御諸別命が豊城入彦命の曽孫であるという系譜には相当な疑問が呈されている。
  『先代旧事本紀』「国造本紀」針間鴨国造条では「上毛野同祖の御穂別命子の市入別命を国造に定めた」とあるが、この「御穂別命」は「御諸別命」の誤記とする説がある。

荒田別 鹿我別

 『日本書紀』神功皇后49年3月条によると、鹿我別とともに将軍に任じられ新羅征討に参加した。功皇后50年2月条に帰国した旨が記される。
  同書応神天皇15年8月条では、巫別とともに百済に派遣され、翌年王仁を連れて帰っている。この条において、荒田別と巫別は「上毛野君の祖」と記載されている。
  『続日本紀』延暦9年(790年)7月の津連真道らの上表においても荒田別の百済派遣の旨が見えるほか、『住吉大社神代記』でも新羅征討の説話において荒田別の名が記載されている。

 『日本書紀』神功皇后49年3月条によると、荒田別とともに将軍に任じられ新羅征討に参加した。神功皇后50年2月条、帰国した旨が記される。同書応神天皇15年8月条では、巫別が荒田別とともに百済に派遣され、翌年王仁を連れて帰っている。この「巫別」は鹿我別と同一人物とされる。この条において、荒田別,巫別は上毛野君の祖と記載されている。
  『先代旧事本紀』「国造本紀」浮田国造条では、成務天皇年間に崇神天皇五世孫の「賀我別王」が国造に任じられたと記載されている。
 なお鹿我別の名は、『住吉大社神代記』でも新羅征討の説話において記載されている。