<皇孫系氏族>崇神天皇後裔

K102:豊城入彦命 〔崇神天皇後裔〕下毛野田道 KE06:下毛野田道

リンク KE07KE08
下毛野田道 下毛野奈良別

 『日本書紀』では事績は記されていない。また、下記のように記載のある文献においても、四世孫か六世孫かで異同がある。
 『先代旧事本紀』「国造本紀」下毛野国造では、仁徳天皇の時に毛野国を分割し上下とし、豊城命四世孫の奈良別を初めて下毛野国造に任じたと記されている。
『新撰姓氏録』大網公条には「豊城入彦命六世孫 下毛君奈良」が、吉弥侯部条に「豊城入彦命六世孫 奈良君」として見え、弟に「真若君」がいると記されている。

 『日本書紀』では事績は記されていない。また、下記のように記載のある文献においても、四世孫か六世孫かで異同がある。
『先代旧事本紀』「国造本紀」下毛野国造では、仁徳天皇の時に毛野国を分割し上下とし、豊城命四世孫の奈良別を初めて下毛野国造に任じたと記されている。
『新撰姓氏録』大網公条には「豊城入彦命六世孫 下毛君奈良」が、吉弥侯部条に「豊城入彦命六世孫 奈良君」として見え、弟に「真若君」がいると記されている。
下毛野古麻呂 円仁

 持統天皇3年(689年)奴婢600人の解放を上奏して許可される。
 文武天皇4年(700年)文武天皇により、忍壁親王,藤原不比等,粟田真人らと共に、律令の選定を命じられる。翌大宝元年(701年)大宝律令による位階制の施行により従四位下に叙せられると、4月に古麻呂ら3人が初めて新令を講義して親王諸臣百官人に学ばせ、同年8月には大宝律令を完成させている。大宝律令選定の功労により、大宝2年(702年)参議に任ぜられ、大宝3年(703年)には功田30町と封戸50戸を与えられている。
 その後、文武朝では兵部卿を兼ねて従四位上まで昇進し、慶雲4年(707年)の文武天皇の崩御に際しては、造山陵司を務める。また、同年には一族の下毛野石代に対して下毛野朝臣姓から下毛野川内朝臣姓への改姓を請い、許されている。
 元明朝の和銅元年(708年)正四位下・式部卿に叙任され、大将軍も兼ねるが、和銅2年(709年)12月20日卒去。最終官位は参議式部卿大将軍正四位下。なお、古麻呂の卒去により霊亀3年(717年)藤原房前が任ぜられるまでの間8年間に亘って、参議が不在の状況となっている。

 大同3年(808年)、15歳のとき広智に連れられ比叡山延暦寺に上り、最澄に師事する。奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。
 弘仁5年(814年)、言試に合格、翌年21歳で得度する。弘仁7年(816年)、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。弘仁13年(822年)29歳で最澄から一心三観の妙義を授けられ、その後最澄は死去した。
 2回目の渡航失敗の後、承和5年(838年)に唐へ上陸。目指す天台山へは規制が厳しくなり旅行許可が下りず、円仁は遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意するが、再び遣唐大使一行のところに連れ戻される。しかし新羅人海商ら在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功する。寄寓していた張宝高設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめ五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270kmを歩き、840年、五台山を巡礼する。五台山を訪れた2人目の日本人だった。法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。
 続いて、当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100kmを徒歩旅行する(53日間)。金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせる。この晩、今は亡き最澄が夢に現れ、曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれたという。
 しばらくして、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される。その間、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた。そして、842年(会昌2年)10月に会昌の廃仏がはじまり、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で帰国が叶った。なおこの際に強制的に還俗させられ、再度剃髪したのは帰国直前である。
 「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。承和14年(847年)、博多津に到着し鴻臚館に入った。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いている。最澄や空海が日本へ搬入しなかった経典やその後の新訳経典を意識的に集めて持ち帰り、日本の密教の発展に寄与した。
 帰国後、目黒不動として知られる瀧泉寺や山形市にある立石寺,松島の瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、平泉中尊寺や浅草の浅草寺もそのひとつ。
 後に円仁派は山門派と称された。円珍は寺門派となり、両者は長期にわたり対立関係になった。仁寿4年(854年)4月3日、円仁は61歳で第3代延暦寺座主に任命された。