壬申の乱の際、果安は大友皇子を戴く近江朝廷の将となった。大海人皇子(天武天皇)に味方した大伴吹負が倭京(飛鳥の古い都)を制圧して北上したとき、大野果安は北から奈良盆地に進入した。果安は、及楽山に陣を敷いた吹負と戦い、これを破った。果安は追撃して八口に至り、高地に登って倭京を見下ろした。果安は街路に楯が並べられているのを見て伏兵を疑い、引き返した。その楯は、及楽山の戦いの前に荒田尾赤麻呂と忌部子人が並べたもので、京を守る兵力は少なかった。果安の逡巡のおかげで、吹負は援軍と合流し敗走した兵を集める猶予を得た。 『日本書紀』に記される大野果安の事績はこれだけで、この後にこの方面の軍の総指揮官として現れるのは犬養五十君である。果安は更迭されたのかもしれないが、五十君の指揮下に入っただけなのかもしれない。 乱の後、大野果安は赦されて天武天皇や持統天皇に仕えたらしい。天武13年(684年)大野君は大野朝臣姓を賜与されており、果安も改姓したと想定される。 『続日本紀』は天平14年(742年)11月2日に死んだ大野東人の説明に、「飛鳥朝廷の糺職大夫、直広肆果安の子なり」と記している。
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和銅7年(714年)布勢人と共に騎兵170騎を率いて三椅(平城京門外)で新羅使の入京を迎える。養老4年(720年)に発生した蝦夷の反乱後、蝦夷開拓の本拠として多賀柵を築く。 神亀元年(724年)2月に聖武天皇の即位後まもなく従五位上に叙せられる。同年3月に海道の蝦夷が反乱を起こして、陸奥大掾・佐伯児屋麻呂が殺害される。この反乱を鎮圧するために4月に持節大将軍・藤原宇合以下の遠征軍が派遣され、11月に帰還しているが、東人は副将軍格で従軍したらしく、翌神亀2年(725年)軍功に対する叙勲位が行われた際、東人は従四位下・勳四等を授けられている。天平元年(729年)陸奥鎮守将軍に任じられていた東人は、鎮兵の功績に対する叙位を上奏して許され、功績第一等の者30名への二階昇進などの叙位が行われた。その後も蝦夷の開拓を進め、天平5年(733年)にはそれまで最上川河口付近にあった出羽柵を雄物川河口付近に移している。 天平9年(737年)正月に陸奥按察使兼鎮守将軍の任にあった東人は、多賀柵から出羽柵への直通連絡路を開通させるために、その経路にある男勝村の征討許可を朝廷に申請した。これに応じて兵部卿・藤原麻呂が持節大使に任じられ、2月に関東6カ国の騎兵1000騎を率いて多賀柵へ到着した。3月1日に東人は精鋭の騎兵196騎、鎮兵499人、陸奥国兵5000人、帰順した夷狄249人を率いて色麻柵から遠征に出発、奥羽山脈を横断し、男勝村の蝦夷を帰順させて奥羽連絡通路を開通した。3月11日には東人は多賀柵に戻り、連絡通路開通について大使・藤原麻呂に報告を行っている。 天平11年(739年)陸奥国按察使兼鎮守府将軍に大養徳守を兼ねていたが、参議に任じられ公卿に列す。 天平12年(740年)9月に大宰少弐・藤原広嗣が九州で挙兵。東人は持節大将軍に任じられ、五道から徴発された1万7000人を率いて広嗣の討伐を命じられた。9月末に東人は長門国へ至ると、佐伯常人・阿倍虫麻呂に先発隊を率いさせて渡海させ板櫃鎮を攻略。10月に広嗣軍1万騎が板櫃河に到着して、佐伯常人らの官軍6000人余と会戦、官軍が広嗣軍を破る。10月23日官軍は船で海上に逃れていた広嗣を捕らえ、11月1日に東人は広嗣とその弟綱手を斬った(藤原広嗣の乱)。
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聖武朝の天平19年(747年)正六位下から二階昇進して従五位下に叙爵。 天平21年(749年)に陸奥国小田郡で黄金が発見され、2月に朝廷に貢進される。同年4月にこれを瑞祥として天平から天平感宝に改元された。また閏5月には陸奥国司及び黄金発見に関わった者に対する叙位が行われ、陸奥国介であった佐伯全成とともに、鎮守判官であった横刀は従五位上に昇叙されている。
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弘仁元年(810年)春宮坊の主馬首に任ぜられて皇太子・大伴親王(のち淳和天皇)に仕え、左兵衛少尉・右衛門少尉を経て、弘仁12年(821年)従五位下に叙爵。のち、散位頭,大監物,左兵衛佐を歴任する。 淳和朝に入ってまもなく、天皇の皇太子時代からの旧臣であるとして従五位上・右近衛権少将に任ぜられると、天長7年(830年)正五位上・右近衛中将、天長9年(832年)従四位下と順調に昇進した。天長10年(833年)2月に淳和天皇が退位して有閑の日々を過ごすようになっても、なおも真鷹は朝廷に出仕し続けるが、同年11月の大嘗会の警固の陣に供奉しその陣が解かれると、真鷹は帯びていた武具を右近衛権中将・藤原助に贈り、山城国綴喜郡の邸宅に退去して隠棲し、出仕を取りやめた。 その後、紀伊権守に任ぜられるが赴任することなく、承和10年(843年)2月3日卒去。享年62。最終官位は散位従四位下。 生来学問はなかったが、鷹狩を好み、公務にあたっては早朝から深夜まで怠ることなく努め励んだ。平素より俸給を割いて写経や造仏を行っていたが、他人に知らせることはなかった。老齢に到ると、一途に供養や修行に励み、遺族が追善法要に関して煩うことがないようにした。父・真雄と共に父子で武門として行跡を同じくし、我々はこの父子に及ばず残念だと、見る者を嘆息させたという。
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称徳朝の天平神護3年(767年)正月従五位下に叙爵。同年10月に陸奥伊治城築城の功績により、上毛野稲人とともに従五位下から従五位上に叙せられている。この時、この二人の官職は定かではないが、同時に昇叙された田中多太麻呂が陸奥守兼鎮守府将軍であり、石川名足がのちに陸奥鎮守副将軍に任ぜられ、大伴益立が過去に鎮守副将軍に陸奥介を兼任していたことから、ともに陸奥守あるいは鎮守将軍の下僚であった可能性が考えられる。 翌神護景雲2年(768年)左大舎人頭に任ぜられている。
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天平宝字年間(757~765年)の写経所文書に、「大野内侍」という人物が見え、仲仟のことではないか、と言われている。 淳仁朝の天平宝字7年(763年)1月に従六位下から従五位下、称徳朝の天平神護元年(765年)1月に藤原仲麻呂の乱での論功行賞により阿倍豆余里らとともに正五位上・勲四等を授けられる。 天平神護2年(766年)1月称徳天皇の永手邸行幸に際し従四位下、神護景雲2年(768年)10月、正四位下に進む。同3年(769年)2月の再度の永手邸行幸で、永手の子の家依,雄依ともども位を1階すすめられ、正四位上に叙された。 光仁朝の宝亀元年(770年)10月従三位に昇る。位階からこの時尚侍となり、同5年(774年)吉備由利の没後に後任として尚蔵を兼務したと思われる。宝亀9年(778年)9月、正三位に進む。天応元年(781年)薨去。
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