宇多源氏

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大原重徳 大原重実(綾小路俊実)

 享和元年(1801年)京にて誕生。文化6年(1809年)に光格天皇の御児となり、文化12年(1815年)に宮中に昇り、孝明天皇に重用される。
 安政5年(1858年)には日米修好通商条約の調印のための勅許を求めて老中・堀田正睦が上洛すると、岩倉具視らと反対して謹慎させられる。文久2年(1862年)、薩摩藩の島津久光が藩兵を率いて献策のために上洛すると、赦免された重徳は岩倉の推薦で勅使として薩摩藩兵に警備されて江戸へ赴いた。江戸では、薩摩の軍事的圧力を背景に攘夷の決行や、一橋慶喜(徳川慶喜)を将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽を政事総裁職に任命することと両名の幕政参加を老中の板倉勝静や脇坂安宅らに迫り、これを飲ませた(文久の改革)。
 京都に戻ると国事御用掛などを務める。翌年には同じく朝廷に献策していた長州藩の薩摩藩を批判する内容の勅書を改竄すると罪を問われて辞職する。元治元年(1864年)に赦免され、慶応2年(1866年)には親幕派の中川宮や二条斉敬らの追放を試みるが失敗して幽門させられる。
 後に許されて、明治元年(1868年)には従二位・権中納言に進み、参与・議定など新政府の役職を務め、明治12年(1879年)に薨去、享年79。同年4月3日、贈正二位。

 旧名・綾小路俊実。大原重徳の息子として生まれる。天保8年1月(1837年)叙爵し、その後、備後権介に任官。安政元年12月(1855年)綾小路有長の養子となり俊実と改名。侍従に就任。文久3年3月(1863年)濫りに諸藩士と交わったことにより閉居を命ぜられた。
 慶応4年1月(1868年)滋野井公寿と共に赤報隊の盟主に擁立されたが、活動中の金穀強要などを咎められ召喚令が出され帰京した。同年1月24日(2月17日)大原家復籍と相続を命ぜられ、名を重実に復した。同年2月30日(3月23日)海軍先鋒となり、以後、海軍先鋒総督,江戸鎮台補,関八州監察使,左近衛権少将,権弁事,弁官事,東北諸藩賞罰取調掛,皇居造営御用掛,公議所議長,兼制度寮副総裁などを歴任。明治2年6月2日(7月10日)戊辰の戦功により賞典禄100石を永世下賜された。以後、領客使,第一次酒田県知事,外務省七等出仕,同六等出仕などを歴任。
 1873年1月17日、父・重徳の隠居により家督を相続。1875年12月5日、外務少丞、1877年1月11日、外務少書記官に就任した。同年9月、自邸で強盗に襲われ死去した。

大原重朝

 山城国京都で大原重徳の三男として生まれ、兄・大原重実の養子となる。万延元年(1860年)孝明天皇の児に就任し、文久2年3月(1862年)元服して重朝と改名し備後権介に任じられた。慶応2年2月(1866年)左馬頭に就任。同年8月、朝廷刷新の二二卿建議(廷臣二十二卿列参事件)に加わり差控を命ぜられた。慶応3年2月(1867年)赦免となる。    
 慶応4年閏4月19日(1868年6月9日)参与・弁事に就任。以後、権弁官事,弁官事,神楽御人数などを歴任。1874年3月、宮内省九等出仕となる。1877年9月、養父が死去し、同年10月30日、家督を継承。1879年2月、外務省御用掛に就任した。  
 1884年7月8日、子爵を叙爵。1888年1月17日、父・重徳の勲功により伯爵に陞爵。1890年7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、死去するまで在任した。