宇多源氏

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庭田経有 庭田重親

 詳しい経歴は不明だが、正平19年/貞治3年(1364年)1月正五位下に叙されたのが史料上の初見。この頃右兵衛督を経て、間もなく従四位下・右少将に叙任された。正平23年/貞治7年(1368年)1月栄仁の親王宣下に伴い、伏見宮家司として崇光院・栄仁父子に近侍。やがてその御領である近江山前北荘を拝領した。崇光院流の再興を期し、栄仁の即位による自身の栄達を悲願したが、昇叙の機会を得ることなく、応永5年(1398年)5月栄仁親王の落飾に先だって出家させられた。法名を明堯という。同19年(1412年)5月15日に卒し、伏見に葬られた。享年は70歳代か。
 後花園天皇の外祖父に当たることから、33年忌の文安元年(1444年)5月6日に従一位・左大臣を追贈されたが、当時は出家した人物への贈官は希有な例とされた。また、日記の自筆断簡(応永5年5月18日、26日記)が宮内庁書陵部所蔵の伏見宮御記録の中に現存する。

 文亀元年(1501年)、庭田重経が急死し、重経室(中山康親の娘)の叔父にあたる重親が庭田家を継いで叙爵を受ける。永正18年(1521年)正四位上・蔵人頭に任ぜられ、大永4年(1524年)に従三位・参議に任ぜられる。享禄元年(1528年)に権中納言に任ぜられ、享禄3年(1530年)に正三位に叙せられる。
 天文2年(1533年)12月に春日大社の神楽に参加するために奈良に下向し、笛を吹いた直後に倒れ、そのまま逝去した。